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村田沙耶香 『コンビニ人間』 : 太った〈正常人〉よりも 痩せた〈コンビニ人間〉たれ

書評:村田沙耶香『コンビニ人間』(文春文庫)

私は「芥川賞作品なんて、芥川賞がその年の最高傑作に与えられると勘違いしている、文学の世界にうとい人たちが、ブーム的に群がってベストセラーにする小説本」だと(豊崎由美みたいなことを)思っているので、この作品も長らく無視していたのだが、先日、同じ著者の最新短編集『丸の内魔法少女ミラクリーナ』を読んで「この女、なかなかやるぞ」と思い、いくつか読んでみることにした。
そしてこれが、村田沙耶香の2冊目なのだが、いやあ、素晴らしい作家だ。これからも続けて読むことに決めた。

そこで最初に、著者・村田沙耶香に「お詫び」しておかなくてはならない。
と言うのも、私は先日アップした『丸の内魔法少女ミラクリーナ』のAmazonレビューにおいて「村田の批評性は素晴らしいのだが、あまりにも面白く書いているので、これでは読者が娯楽作品として消費してしまっておしまい、ということになるのではないか」という危惧を呈した上で、

『ともあれ、村田沙耶香は面白い。それは認めた上で、もうすこし「凄み」が欲しいというのが、私個人の期待するところであり、本音を言えば「もっともっと嫌な小説を書け」と言いたいところなのだが、それで売れなくなっても責任は取れないので、あとは村田個人の志と目指すところに任せるしかないだろう。』

と書いたのだが、すでに村田沙耶香は、その「嫌な小説」を書いていたのである。
だから、謝罪したい。そして「もっともっと嫌なことを書け、それが文士だ」と言ってみてもいい。
なにしろ、大岡昇平も、

『筆取られぬ老残の身となるとも、口だけは減らないから、ますます悪しくなり行く世の中に、死ぬまでいやなことをいって、くたばるつもりなり』
 (1985年10月15日付け日記より・『成城だより3』)

と言っていたくらいだから、批評性のある(つまり、頭が悪くない)作家なのであれば、こんな世に中に向けて「現実逃避のきれいごと小説」なんか書くのではなく、読者に「嫌な現実」を(上手に)突きつけて「傷口に塩を擦り付けてでも、目を醒させるような小説」を書いて欲しい。そういう奇特な作家が、一人くらいいても良いのだ。いや、いるべきなのである。

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そんなわけで、本作『コンビニ人間』だが、本作も「新・社会派SF」作家の村田沙耶香らしく、「宇宙人」を主人公にしている。
「変人」や「障害者」ではなく、これは一種の「宇宙人」であり、「宇宙人であることを忘れた記憶喪失宇宙人による、現代日本人観察記録」だと思って読めば、じつにわかりやすい。
本作を「狂気」だの「異常」だのといった言葉で評するのは、間違いではないけれども、いかにも「鈍い」読みだと言えるだろう。

村田沙耶香の「物語作法」は、いたってシンプルだ。要は、目の前の社会に認められる「問題」を、「極端化」することで、物語をドラマティックに駆動させる、というものだ。

そして、この「コンビニ人間」というのも、「世間的普通」に馴染めない人のあり方を極端化して、その「宇宙人」的な視点から、「世間的普通」の「欺瞞性」や「異常性」や、その「くだらなさ」を描いた作品だと言えるだろう。

「どうしてそんなに、みんなと一緒でなければならないの?」という主人公の感覚は、本来「生きたいように生きたい」人間にとっては、ごく当たり前の「正常きわまりない感覚」なのだが、しかし、この日本では、そういう「個人主義」が、いっかな根付かないまま、昨今はまた、状況は悪化してさえいるようである。
みんなと同じように「オリンピックだ! わーい、楽しみ!」などと言わずに「俺は文系だから、あんな国際友好運動会に、馬鹿みたいに税金を使われたくないし、そもそも興味がない」などと(京極夏彦みたいな)本音を口にすると、(京極夏彦とは違い、権威なき一般人の場合は)「宇宙人」扱いされるのが関の山だ。

じっさい、山本七平ではないが、そういう世間の「空気を読む」でもなく、それを自然に取り込んで、多くの人が、本書でも描かれているような「世間的コピー人間」になっているようだ。
「世間に合わせなくては」と、わざわざ考えるまでもなく、そうしなければならないという「強迫的な思考」を早々に内面化し、無意識化してしまっているのである。

つまり、本書の中で、「人間としてまとも」なのは、じつは主人公だけなのである。
彼女は、自分の感覚に正直に生きようとして、それがどうも「世間的には歓迎されないもの」だと理解すると、意識的に世間に合わせようとした、じつに「自我の薄い」人である。
しかし、「自我が薄い」ということでは、簡単に世間に迎合し、世間に馴染んでしまう、多くの「普通の人」たちの方が、より「自我が薄い」と言えるだろう。主人公にはまだ「世間への違和感(世間との齟齬)」が残っているが、自分が「普通」だと思っている人たちには、その「世間への違和感(世間との齟齬)」すら感知できないほど、知能が低下して「(主体が)空っぽ」化しているのだから、まだしも主人公の方が「人間としてまとも」だと言えるのである。

だから、物語の終盤で、主人公が「(世間的に)まとも」になるために無理をしてコンビニを辞めてしまい、そのまま必然的な「破滅への道」を歩むのか、と思いきや、ギリギリのところで「自分はコンビニ人間なんだ。だから、それでいいのだ」と(バカボンのパパ的に)気づいて(悟って)、「コンビニ人間」としての人生を選び返すラストシーンは、まちがいなく「感動的なハッピーエンド」である。

そう。人間というのは、もともと、どんな動物よりも「個性豊か」なのである。なぜなら、知能が発達しており、本能的な部分を抑制できるため、おのずとバリエーションが豊かになるからだ。したがって、群れなくてもいいし、結婚しなくてもいいし、セックスしなくてもいいし、変態でもなんでもいいのである。

ただし、あんまり「自由」だと、社会的に排除されてしまうので、そこはうまく立ち回らなければならない。群れの中で生きていく上では、それは嫌でも避けられないことなのだ。
だがまた、そこには元来「善悪」はなく、ただ「必要」があるだけである。(ノーム・チョムスキーではないが)「宇宙人から見れば」、人間の、およそ一貫性を欠いた「善悪」など、所詮は、地上における便宜的な「群れの掟」でしかないからだ。

最後に、私の大好きな言葉を紹介しておこう。

『一色のバカにそまってしまうより、色んなバカがあってええじゃないか。好みで言うなら「派手なバカにしてくれ」と小生は思う。』
 (南伸坊『面白くっても大丈夫』より)

初出:2020年4月12日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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