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今村夏子 『木になった亜沙』 : 転生して経巡る この生命世界の〈幻視〉

書評:今村夏子『木になった亜沙』(文藝春秋)

本作品集には「木になった亜沙」「的になった七未」「ある夜の想い出」の三短編が収められているが、いずれもすばらしい幻想小説として、きわめて高い完成度を見せている。
個人的には、今村夏子の最高傑作(集)だと思うし、今村自身、今後この水準を超えるのは、容易なことではないのではないだろうか。

本作品収録の三短編に共通するのは「生まれ変わり」である。
「木になった亜沙」は、人間から木に生まれ変わるし、「的になった七未」は、人間から「射的の的」に生まれ変わる。「ある夜の想い出」の女性主人公(語り手)は、ある夜、どうやら猫に生まれ変わり、また人間に戻っていたようだ。

こうした「転生譚」というのは、いま流行の「異世界転生譚」ではなく、かつての「宗教説話」によく見られたもので、それらには「人間として良い行ないをしたから、その人は恵まれた家庭の子に生まれ変わった」とか「悪行を重ねたために、人に憎まれいじめられる醜い虫に生まれ変わった」といった教訓譚が多く、「Aであるが故にB」という単純な論理的構造の故に、わかりやすくはあれ、しばしば退屈なものであったりもした。

しかし、今村朝子の描いた「転生譚」は、そんなにわかりやすいものではなく、「理に落ちる」退屈な物語ではない。それはある意味で、分析的解釈を拒絶するような「不条理に満ちた転生譚」であり、「善人が幸せになり、悪人が不幸になりました」などという、わかりやすいものではないのである。

だから、私たちは、そうした「不条理」を「理解する」ことができず、少なからぬ当惑をおぼえるのだが、しかし、今村朝子の描く「転生譚」は、決して「デタラメ」なものではない。そこには、曰く言いがたい「自然さ」や「統一感」があり、それが物語に説得力をもたせていて、そうした意味では、この物語世界は、決して「不条理」ではないのだ。ただ、その「条理」が、私たちの生きる「この世界の条理」と同じではない、ということでしかないのである。

つまり、今村夏子は、これらの作品で「別の論理によって、転生のなされる世界」を構築したのだと言えよう。これは、非凡な「幻視」の力による、並外れた世界創造である。

例えば、多くのハードSFは、その論理的思考を徹底することによって「人間以外の知性のよる世界」の創造を試みてきたが、その多くは十分な成功をおさめたとは言えないだろう。と言うのも、「人間の論理体系」によって「非人間的な(独自の)論理体系」を導きだすというのは、基本的に「論理矛盾」であり、その意味では「不可能事」だからである。

それでも、優れたSF作家たちが「非人間的な(独自の)論理体系」をもつ「別世界」を描いてみせたという事実があるとすれば、彼らは単に、俗に考えられている「人間の論理体系」の範囲内だけで、その知性を働かせたのではない、ということになるだろう。
では『俗に考えられている「人間の論理体系」』の外部にある「不可視の人間知性」とは、どういうものなのか。
それこそが、しばしば「直観」とか「霊感」とか「幻視」などと呼ばれ、「非理性的なもの」として、近代的な知の枠組みから疎外されてきた、「脳の物理的働き」の一種なのではないだろうか。

そして、そうした意味で、今村夏子の本作品集は、今村の非凡な「小説家的幻視」の力をいかんなく発揮して構築された、きわめて「リアルな世界」だと言えるだろう。「宗教説話」の世界が、しばしばその底意(教訓的意図)を露呈して、うさん臭い「偽物性」を読む者に感じさせるのとは違い、今村夏子の描く「転生譚」には、妙な現実感があって「もしかすると、この世界の真相とは、こちらの方なのではないか」と思わせる説得力がある。

くりかえすが、これは非凡なことだ。
誰もが見たことのなかった世界を描いて、しかし、それが「この世界の真相であり実相なのではないか」という思いを読者に抱かせる作品というのは、小説というものの持つ力を、理想的に体現してみせたものだと評しても、けっして過言ではないはずだからである。

初出:2020年4月6日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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