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高山羽根子 『オブジェクタム』 ; 異なる〈公理系〉の共存は可能か? 【増補第3版】 (含、 小谷野敦 批判)

書評:高山羽根子『オブジェクタム』(朝日新聞出版)

本書に対する評価は無論、作者高山羽根子に対する評価も、「面白い」と「まったくわからない(面白くない)」の真っ二つに分かれる傾向があるようだ。
本作のレビューにおいて、「面白い」派を代表するのが、レビュアー「sasa」氏であり、「まったくわからない(面白くない)」派を代表するのが「小谷野敦」氏であろう。

私はどうなのかと言うと、「面白い」派である。
まだ『うどん キツネつきの』と本書の2冊しか読んでいないが、「面白くない」収録作品はひとつもなかった。
もちろん、個々の作品の評価においては多少のデコボコはあれ、それでもこの作家は、総じて面白い。完全な「ハズレ」だとか「失敗作」というのが見当たらない、きわめて安定感のある作家なのである。一一これが、私の評価だ。

しかし、そういう個人的な評価は別にしても、「sasa」氏のご意見には、大筋において賛成である。つまり、「物語は詠み手に伝わってこそ」なんて考えは、あまりにも幼稚なものであり、およそ読み手の意見(あり方)としてお話にもならない、ということで、この「読者論」には完全に同意する。
ただ、注文をつけるなら『わからない、それでいい』という言い方は、適切ではないと思う。

ここで言う「わからない」とは「論理的に説明できない」というほどの意味であろうが、そもそも「わかる」というのと「論理的に理解できる(説明もできる)」というのとは、同じことではない。
実際のところ「論理的に理解できる(説明もできる)」というのは、「わかる」ことのごく一部分でしかない。人は、多くのことを「直観的に理解」しているのだが、そのうちの大半について「論理的に説明することはできない」のだ。つまり「わかってはいるけれど、説明はできない」という事態が、「わかる」ことの大部分を占めているのである(「私は彼が好き。けれども、なぜ好きなのか、その理由はよくわからない」等)。

したがって「わかるけれど、説明できない」というのは「当たり前の事態」であり、「わかっているし、説明もできる」というのは、好ましくはあれ、むしろ「例外的な事態」だと言えるのだ(だから、優れた批評家には希少価値がある)。

よって「説明できなくても、しかたがない」という言い方であれば、それは、ある程度、容認せざるを得ない現実であろうけれども、勢い余って『わからない、それでいい』とまで言ってしまっては、やはりそれは間違いだろうと思う。それは単に「わかってはいるけれど、説明できない場合も多々ある」ということの、不適切に過剰な表現でしかないからである。

まず「わかる」のなら、それでいい。「わかるのだけれど、それを論理的に説明できない」というのも、能力の有無の問題として「仕方のない」ことだろう。けれども、「わかるのなら、できるかぎり論理的に理解できた方がいいし、説明できた方がいい。それに越したことはない」とは言えよう。その上で、どうしても無理ならば、それは文字どおり「仕方ない」のである。

さて、次の問題は、「小谷野敦」氏の『絶賛している人たちはどういうところがいいと思っているのか、何か陰謀でもあるのか、分からない。私にはちっとも面白くなかった。』というご意見である。

氏には、本書収録作品がすべて「わからなかった」。これは事実であろう。まったく毛ほども「わからなかった」からこそ、「面白かった」と言っている人たちの評価を「ホントは面白くなかったんじゃないの? みんなが褒めてるから、それに引っぱられて、そうだそうだと褒めてるだけなんじゃないの? そういうことって、実際よくあることだし、高山作品について評価も、そういうことの一例なんじゃないの?」と疑っているのである。
そして、その疑いの補強材料となっているのは、たぶん「小谷野敦」氏にとっては、高山作品の絶賛者の絶賛評の多くが「その面白さを、論理的に説明できていない」と感じられるところではないだろうか。つまり「面白い、面白い」と言うばかりで、いっこうに「根拠説明がない」と感じられているからこそ、これは「陰謀」じゃないかとまで勘ぐってしまうのである。

一一また、だからこそ、可能であるのなら、「論理的な説明」は為されるべきなのだ。

ふつう、人は、否定批判する時には、その根拠を論理的に示す義務を感じて、その努力をするのだが(今どきは、貶すだけの人も多いが)、褒める場合は、あまりその根拠説明の必要性を感じないから、それをしないことが多い。「だって、読めばわかるでしょう」というわけである。一一しかし、現実は、そうではない。

「この世には、誰もが同じように分かる事実など、一つも存在しないのだよ」

ということである。
それは単に「知的能力の有無」の問題ではない。そもそも、知的能力と言っても、それは無限に多方面多方向にわたっており、そっちは優れていても、こっちは鈍感だというのは当たり前にあることで、誰しも、そうした一筋縄ではいかない事態を、「人間的な現実」として、多かれ少なかれ感じているはずだ。

したがって、「説明しても、理解されない説明」もあるし、「説明されても、理解できない説明」もある。
「こいつは、どこから見ても醜男(醜女)だろう!」といきり立ったところで、「いや、私は好きだな」という人は必ず出てくるわけで、その人は「嘘」をついているわけでもなければ、「陰謀」に加担して難癖をつけているわけでもない。99パーセントの人にとって「醜男(醜女)」であろうと、かならず何人かは、心の底から「美しい」と思う人がいるのだ。
同様に、「あいつは殺すべきだ」とか「人類は滅ぶべきだ」といった意見も、決して「嘘」でも「陰謀」でも「冗談」でもなく、きわめて「誠実」かつ「本気」で語られるからこそ、この人間の世の中は難しいのである。

そして、この「人間にとっての、こうした世界の現実」を描いているからこそ、高山羽根子の作品は、「小谷野敦」氏のようなタイプの人にはとっては『文章が異常に読みづらく、小説の世界へ入っていけないし、何が言いたいのかも分からない。もし素で読まされたら、まだ技術が下手なんでもうちょっとおかしな細部を刈り込んで、何が言いたいのかはっきりさせたほうがいい、と言うだろう。』ということになってしまうのだろう。要は、「小谷野敦」氏にとって、高山羽根子の作品は、心の底から正直な感想として、「醜男(醜女)」同然なのである。

だが、そんな「感性」を持つ「小谷野敦」氏のようなタイプの人に、高山作品が「美男(美女)」的に感じられる人の「論理的な説明」が、果たして役に立つだろうか?

喩えて言えば、「1+1=2」という世界観を持つ人に対し、「1+1=無限大」という世界観を持つ人が、「論理的」な説明した場合、その説明は、「1+1=2」という世界観を持つ人に対し、論理的なものとして機能するだろうか?
もちろん、機能することなどないだろう。その論理的な説明は、「意味不明」なものと受け取られるだけである。

しかしながら、「小谷野敦」氏が、「違った公理」を生きているかのような人たちに対して「説明」を求めるのは、きっとどこかで、他人も「同じ公理系を生きている」と信じているからであろう。それは「話し合えば、わかり合えるはずだ」と、どこかでナイーブに信じるのと、同じような「信念」なのではないか。

もちろん、人間社会においては、「話し合えば、わかり合えるはずだ」という「理念」を掲げて、その運営がなされるべきだろうとは思う。しかし、それは「理念」や「理想」ではあっても、残念ながら「現実(そのもの)」だとは思えない。むしろ、それが現実ではないからこそ、人は「話し合えば、わかり合えるはずだ」という「理念」や「理想」を掲げて、少しでもそれに近づこうとするのではないだろうか。

そして、そうした意味で、高山羽根子の描く世界は、「複数の公理系が交錯する、リアルな世界」なのである。
だから、「小谷野敦」氏のような「世界観」を信奉している人には、高山の作品は「デタラメで無責任」なものに映るのかもしれない。その気持ちは正直なものであり、その正直さを疑うものではなけれど、しかし、氏の世界観は、やはり「単純」にすぎて、「文学」向きではないとも思う。

私は「小谷野敦」氏の文芸評論作品を読んだことはないけれど、読めばきっと「単調で、つまらない」と感じることだろう。また事実、「文学論」ではないけれども、唯一読んだ小野谷敦の著作『宗教に関心がなければいけないのか』に対する、私の4年以上前のレビューは、

『小谷野の著書は初めて読んだが、なぜこれまで読まなかったのかがよくわかった。要は、氏の著書のタイトルが、おおむねその内容の透けて見えすぎる、薄っぺらなもの多かったからだ。』

という言葉で始まって、

『で、そんな私からすれば、小谷野の議論は所詮、薄っぺらで何が悪いという、自己正当化の議論でしかない。
わからないのだから否定はしないと言いながら、わからない自分の感性への懐疑を欠いているがゆえに、宗教を認めようが認めまいが、いずれにしろ小谷野の議論は、批評的に薄っぺらなのだ。評価すべきは、世の優等生的な宗教論に「優等生はうさんくさい」と注文をつけた点だけだと言ってよいだろう。』
(『宗教に関心がなければいけないのか』のレビュー、「同年生まれで、同じようにアニメ好きだった、小谷野敦について」2016年2月18日付)

という言葉で締めくくられていた。

やはり、私から見ると、小谷野敦の「世界観」は、「一次元足りない」ようにしか見えず、「薄っぺら」としか感じられなかったのだ。
当然、「小谷野敦」氏にすれば、私の意見は「混乱した意味不明」なものと映るだろう。三次元の人間が、四次元の人間を観察すれば、それが論理的整合性を欠いた「動き」に見えるのと、同じことである。

そんなわけで、高山羽根子作品を「小谷野敦」氏が理解できないのは、端的に言って「見えている世界像」が違うからであり、言い変えれば「世界観」が違うからである。
「四次元人の美学は、三次元人には理解不能であり、三次元人の美学は、四次元人には平板すぎてつまらない。あんなものの何が良いのか」となって、お互いに直観的な理解は不可能なのである。

しかし、「直観的な理解」は不可能でも、「違う世界観に生きる人が在る」とメタ的に理解することは、あながち不可能ではないのではないだろうか。それとも、こうした考え方自体が、すでに「小谷野敦」氏的な世界観からすれば「非論理的」で「理解不能」なものと感じられるのだろうか。一一そこは私にも理解不能である。

私はもともと「他人を理解する努力、自分を説明する努力は、必要であり重要だけれど、他人を完全に理解することも、自分を完全に理解してもらうことも、原理的には不可能だ」と考える人間なので、「小谷野敦」氏が理解してくれなくても、それはそれで仕方がないと考える。

ただ、たまたまなのだが、まったく別の要件で、小谷野敦氏が私の掲示板に、先日から何度か書き込みを下さっているので、このレビューを書いたことは、そちらで直接伝えておこうと思う。一一無論、ご感想を下さるかどうか、「それはまた別の話」である。

ちなみに、今回の評価が「星4つ」なのは、『うどん キツネつきの』に比べると、全体に「普通」で、そこが物足りないと感じたからである。
当然、本作品集収録作品が「異常」に思える人の感覚は、私にはまったく理解不能なのである。


初出:2020年9月7日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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 【補記】(2020.09.13)

レビュー本文の末尾に書きましたとおり、小谷野敦氏本人にこのレビューを示して、ご意見をうかがいいました。

その結果、小谷野氏とは、何度かのやりとりがなされたものの、結局、小谷野氏は、自分の「レビューの書き方」つまり「批判の根拠を示さない」という書き方に対する、私の疑義に対しても、何ひとつ説明をすることはなく、沈黙した途端、自身のツイッターアカウントで、こっそりと私の「陰口」を叩くという所行に及びました。曰く、

 「まあ今どき掲示板なんてもん使っている点で変な人ではあったが」

また、これに対し、直接「変人はお互いさまでしょう」とメンションした私をブロックした後も、小谷野氏は、

 「赤江瀑を好きだというあたりでかなりヤバイ人だとは思っていた」

などと書いたりしておりました。

以上のやりとりをまとめた【〈小谷野敦〉氏とのやりとりの顛末】を、本日、私の掲示板「アレクセイの花園」(記事番号2857)にアップしておりますので、ぜひご確認ください(※ ここにはURLを書けませんので、掲示板名で検索をお願い致します)。

なぜ、小谷野敦という人は「批判の根拠説明」ということが出来ないのか。その理由が、氏とのやりとりの中で、ある程度は明らかにできたかと思います。

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 【補記2】(2020.09.14)

「小谷野敦に関する七つのツイート」を書いたので、こちらにも収録しておきます。

(1) #小谷野敦 は、なぜ「説明」ができないのか?
それは「他者」がいないからだ。自分とは「違うもの」の実在が実感できず、それを「間違った」存在だと誤認する。
だから彼は、性的な差別発言をし、そう指摘されると、本気で誤解だと抗弁する。自分が被害者だと思ってしまう。一種の「認識障害」なのだ。

(2) #小谷野敦 が「論理的」に見えるのは、「自分の世界内部」を語っている時だけだと言ってよい。
つまり「他者」の世界が、彼には見えない。「他者」に開かれた「窓」が無い。「想像力」が働かない。だから、性的な差別発言をしてしまう。彼にはLGBTは「他者」ではなく「間違った人」と認識されるのだ。

(3) #小谷野敦 と私との議論が、なぜ成立しなかったのか。
それは、私が小谷野の同類ではなく、世界観を異にしていたからだ。私は、二つの世界を架橋しようとしたが、小谷野にはそれが、「不法な侵襲」と認識されたのだろう。
「変人」で知られる小谷野が、私を「変な人」と平気で呼んだのは、そのためだ。

(4) #小谷野敦 は、なぜ、しばしばトラブルになるのか。
それは、彼には「他者」が理解できず(存在せず)、自分の延長でだけ、人を見るからだ。
したがって、彼の理解に反する人は「変な人」であり、むしろ彼は、そうした人たちから被害を受けているつもりなのだ。彼は「被害者」のつもりなのである。

(5) #小谷野敦 が、その無自覚な差別発言において、ネット右翼と似てくるのは、「他者=外部」を認識できないという共通点においてである。
彼らは、「他者」を、「異なった人」ではなく「間違った人」だと誤認し、自らを「被害者」だと誤認してしまう、「心の窓」が閉じた、魂の隔離的収監者なのである。

(6) #小谷野敦 には、「もてる・もてない」という問題は、「制度としての恋愛論」の誤りとして論じることはできても、いずれにしろそれが「脳科学的な現象」でしかないといった、醒めた目では見られない。なぜならそれは「外部の眼」だからだ。小谷野は「内部だけの人」だから、外部の観点には立ち得ない。

(7) #小谷野敦 は、基本的に「自信のない人」である。
だから、「他者」を「間違ったもの」として否定排除したがる。あるいは「東大卒という学歴」を殊更に誇示して、自身を鎧わなければならない。
彼は「被害者意識」が強く、他者を信じない。だから、嫌われやすくもある。つまり、可哀想な人なのだ。

(付言) ここまでの「小谷野敦に関する七つのツイート」で、#小谷野敦 という人の「問題点」や「奇矯さ」の意味が、おおむね説明できたのではないか。
小谷野と違い、私は「他者や外部」を否定するのではなく理解したい。それは「他者や外部」が、恐る対象ではなく、興味を唆る対象だと感じられるからだろう。

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 【補記3】(2021.06.11)

今頃になって削除されましたので、再アップしておきます。やっぱり犯人は、文芸評論家の小谷野さんでしょうか?

Twitterでブロックした後に、陰口ツイートをするような人ですから、疑われても仕方ないですよね。

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