小川哲 『君が手にするはずだった黄金について』 : 贋金つくりの告白
書評:小川哲『君が手にするはずだった黄金について』(新潮社)
本書のテーマは「承認欲求」である。
本書帯には、次のような惹句が記されている。
「認められたくて必死だったあいつを、お前は笑えるの?」と問われれば、無論「笑える者などいないでしょう」と返すしかない。
私自身を含めて、すべての人が「他者からの承認」を求めているというのは、確かなことだからだ。
こう断じると「いや、他者からの承認なんて求めていない人もいるだろう。自己承認で十分だと思っていて、むしろ他者からの承認なんていらないと言っている人も、現にいる」という反論もあろう。
しかしながら、「自己承認で十分だ」と本気で考えられる人がいるのだとしたら、その人はきっと、それまでに十二分に「他者からの承認」を受けてきたということなのではないだろうか。
例えば「親の愛を、一身に受けて育ってきた」から「情緒的に安定しており、そのために、それ以上の承認を必要としない」といったような場合だ。
この場合、正確に言うならば「他者からの承認は、いらない」のではなく、「他者からの承認は、すでに足りている」ということになる。
もともと「他者からの承認」というのは、誰もが必要としているものなのだが、いま現在「いらない」と言っているような人は、過去に十二分に「他者からの承認」を与えられて、それに満足しており、満足したからこそ、それを忘れてしまっているだけ、ということなのではないだろうか。
言い換えれば、その人だって、本来的には「他者の承認」は必要だったのであり、ただ、それを早々に満たされた、というだけの話だ。「他者からの承認に、満たされた人」だったから、今は「そんなの、別にいらない」と思っているだけ、ということなのではないか。
しかしまあ、人間というものは、基本「贅沢」なものだから、本当に「承認は足りています」という人は、なかなかいない。
「いやあもう、承認は有り余っていますから、もういりません」という人が滅多にいないというのは、このセリフの「承認」を「お金」に差し替えてみると良い。
日本にも「金持ち」だの「セレブ」だのと言われる人は少なからずいるけれども、その彼ら彼女らが、本気で「もう、お金はいりません」とか「地位も名誉も名声もいりません。全財産を寄付して、明日からは生活保護を受けながら、慎ましく生きていきます。私はもう満足してますから」などと言えるほど、本気で「悟った」境地に達している人など、ほぼいまい。
それに彼らは、むしろ人一倍「金銭や、地位や名誉や名声」を欲する人たちだったからこそ、それを得るために頑張ってきたし、頑張れたはずなのだ。それでこそ、それらをそれなりに得ることもできたのだから、側から見れば「もう十分に得た」ように見えても、彼ら自身の主観としては、決してまだまだ「満足」してはいないのではないだろうか。「こんなもんじゃない。まだ足りない」と。
地獄の一種である「餓鬼地獄」における苦しみとは「食っても食っても、餓えから解放されない」というものなのだが、ひと一倍「金銭や、地位や名誉や名声」を欲し、それに執着する人というのは、そういう境地だからこそ、ひと一倍の努力ができるのであり、逆に、だからこそいくら「金銭や、地位や名誉や名声」を得たところで、まず間違いなく、満足することはできないはずなのだ。
そんなわけで、「金持ち」だの「セレブ」と呼ばれる「恵まれた人たち」だって、相変わらず「金銭や、地位や名誉や名声」を求めてあくせくしており、要は「他者の承認」を求め続けている。それを失うことを、誰よりも怖れている。彼らは「普通の人」になることすら、すでに恐ろしいのだ。
わかりやすい例としては、「権力」を欲する政治家なんかもそう。彼らの多くは、いくら権力のトップに昇り詰め、相応に金を貯めても、引退して隠居するなんてことが、なかなかできない。死ぬまで、ただの人には(怖くて)なれないのである。
ましてや、そうしたものさえ持てないでいる、その他多くの人が「他者の承認」に、すでに「満足」しているなどということは、まず有り得ない。そう言っても、決して過言ではないだろう。
万が一、そうした人がいたなら、その人は、言うなれば「すでに悟った人」であり「覚者(ブッダ)」なのだから、そんな人が世界に何人もいるはずがないのである。
したがって、
と問われれば、「笑えるわけがない。なぜなら、私だって同じだもの」ということになる。これが「論理的な回答」である。
しかしながら、人間というものは、たいがいの場合「論理的」ではなく、むしろ「感情的」だ。
だから、「他者からの承認」を求めて見苦しいまでに必死で足掻いている人の姿を見ても、素直に「私も同じだ」とは、なかなか思えない。むしろ自分と同じだからこそ、そうした人を「嫌悪」せざるを得ない。
自分も「他者からの承認を求めて足掻いている、見苦しい人間」の一人だとは認めたくないからこそ、まるで自分は、すでに満足しているかのような顔をして「承認欲求を求めて足掻くなんて、みっともない」などと、澄ました顔で言いたがる。まるで「金に倦み疲れている大金持ち」か「欲望を解脱した覚者」ででもあるような顔をしたがるのだ。
したがって、
となるのは、当然のことである。
本書の帯背面には、
とあり、本作の語り手であり、小説家の「僕」は、作中でも「小川」と呼ばれており、意識的に作者自身を投影した人物である。
ならば、その「僕」が、「他者からの承認欲求を求めて足掻く人たち」を、嘲笑ったり、見下したりするわけがない。
そんなことをするのは、自分のことがまったくわかってない馬鹿だということになるし、何より「承認欲求」が、社会問題化していて、自らの「承認欲求」の強さをうとましく思いながらも、それを自覚せざるを得ない多くの人たちにとって、「承認欲求に振り回されている奴など、馬鹿だ」などと、あからさまに口にするような人物など、好感の持てようはずがないからだ。
当然「いや、誰だって、承認欲求のために苦しんでいるんだよ。あなただけじゃない」と言って、受け入れてくれる人に好意を抱くだろうというのは、初歩的な読み筋である。
だとすれば、頭もよく、エンタメ作家である、本作の著者である小川哲の選ぶべき道も、おのずと決まってこよう。
すなわち『認められたくて必死だったあいつ』を、決して「笑わない」という立場であり、さらに言えば「僕だって同じだよ」と、同情まで示して見せるだろうというのは、本音は別にして、他に余地なき選択なのである。
いうまでもなく、それが作者の本音かどうかは、問題ではない。
エンタメとは、客の求めている「娯楽」を提供するものなのだから、それが「嘘(フィクション)」だってかまわない。それでいっとき、客が「救われた気」になってくれるのなら、それで「エンタメの機能あるいは役目=現実逃避」を果たしたと言えるのである。エンタメというのは、現実を突きつけるものではなく、現実逃避のためのものだからこそ、エンタメ小説家としての選ぶべき立場は、はっきりしているのだ。
そして、本作は、そのとおりの内容になっている。
本書にエンタメ(娯楽性)を求める読者は、作者とともに「承認欲求に足掻く人」に同情を寄せる、「上から目線の安心」を得ることになる。同情される側ではなく、同情する側だと、勘違いさせられるのだ。
先に引用した帯文にもあるように、本作には、何人かの『怪しげな人物』が登場する。その一人が「片桐」だ。そして、この片桐という「見苦しくも哀しい」人物が、本作の肝と呼んで間違いないであろう。
要は、「片桐」とは、「他者の承認」を求めてもがき苦しんでいる「世の人々」の「戯画的な象徴」なのだ。「承認欲求にもがき苦しむ人たち」の、最もみっともない側面を誇張して描いてのが、「片桐」という『怪しげな人物』なのである。
なぜ「片桐」は「怪しげ」なのだろう? それは、彼の「実態」あるいは「実像」が見えにくいからである。
結論から言うと、「片桐」は、投資詐欺のようなことをやっていたのであり、だから「実態」あるいは「実像」が見えにくかったのは、当然である。「片桐」が詐欺師だとわかっていれば、誰も彼に資産運用を任せたり、彼の教えを乞うたりなんかしなかった。
だが、「片桐」の、本当の「理解不能性」は、そうしたところにはない。
「片桐」が「人を騙して、金儲けをしようとしていた」というのなら、それはそれでわかりやすいのだが、「片桐」のやっていたことは、そうした「ずる賢い」ことではなく、早晩「破綻するのがわかっていた、愚かな行為」だったというのが、最終的に判明する。つまり「片桐」の「真の謎」とは、なんでそんな「馬鹿でもわかるほどの馬鹿なこと」を「あえてやったのか」という、謎である。
当然、そして本作の場合、その答は「他者からの承認を求めて」ということになる。
つまり「片桐」は、昔から「他者からの承認」を求めて、才能もないのにジタバタし続けた人物であり、それを周囲から「笑われてきた」人物なのだ。
承認を求めれば求めるほど、彼は他人から「否認」され、馬鹿にされ、見下され、傷つき続けてきたからこそ、「片桐」は「他者からの承認」を得るためならば「何でもする」人間になってしまったのである。それが、自身の破滅につながるとしてもだ。
そもそも彼の「否認された現状(凡庸さ)」など、彼自身にしてみれば、守るに値しないものだったのだから、彼は破綻よりも「いま見る夢」に、しがみついたのである。
そんなわけで、「片桐」は、哀れな奴であり、基本的には、同情に値する奴だと言えるだろう。
しかし、世間の多くは、「片桐」のそんな「自己破滅的な愚行」を「理解不能」だと言う。
だが、当然のことながら、「僕」には、「片桐」のことが多少なりとも「理解」できる。
要は、「片桐」の目指した「成功」とは、タワマンや高級腕時計や高級車を得ることではなく、それらを本当に得られるような「本物の成功」を納めることだったのだ。
だが、その「本物の成功」とは、当然のことながら、タワマンや高級腕時計や高級車を得ることそのもの、ではない。それらを得ることだけなら、「嘘」でもできる。人を騙すことで得ることもできるのだが、「片桐」が欲しかった「本物の成功」とは、そんなものではなく、要は「社会的な承認=他者からの本物の承認」であり、それが「片桐」にとっての「本物の成功」だったのである。
したがって、「僕」は、最終的に、「片桐」を次のように理解する。
社会的にどんなに「成功」しても、得られないものがある。タワマンや高級腕時計や高級車を得ることができたとしても、自身の主観として、決して得ることのできないものが「才能」なのだ。
特別な「才能」だけが、本当の意味での「他者からの承認」を担保する。仮に、その人が、社会的にはどんなに失敗したとしても、特別な才能だけは誰にも否定できない。その「才能」に気づけない「才能のない人間」が山ほどいるとしても、「本物の才能」は「本物の才能」を、その人の社会的属性に関わりなく認めることができる。
その人が、社会的に失敗して、仮にホームレスをしていたとしても、例えばその人に絵描きとしての「才能」があるならば、彼が鉛筆を手にした引いた線1本の線だけで、その「才能」を認めることができる。認めざるを得ない。それが「本物の才能」というものなのだ。
だから、そうした「才能」を持たない「片桐」は、「虚栄」の中で苦しみ続けた。
何を手にしても、それが「贋物=贋金」としか思えなかった。そもそも「才能」の無い自分に得られるものなど「贋物」でしかないと感じられるから、彼は決して満足できなかった。だからこそ、「片桐」は投資家として、一部で「カリスマ」扱いされていたにも関わらず、それでも満足できなかった。
「片桐」は「他者からの承認」を求め、それを担保するものとは「才能」だと考えたし、「僕」もそのように考えたのだけれど、しかしその「才能」とは、「小説が書ける」とか「絵が描ける」とか「金儲けができる」とかいったような、ごくわかりやすい「才能」ではなく、じつのところ「自分を信じられる才能」なのである。それがないかぎり、人は決して満足を得ることができない。
「他者からの承認」とは、じつのところ「自己承認=自己満足」になってこそ、初めて成就するものであり、いくら他人の認める「才能」があったところで、それだけでは決して、人は「承認が得られた」とは感じられないのだ。
そして、無論そのことは、作中の「僕」も、作者である小川哲も承知している。
私は、これまでの小川作品についてのレビューの中で、小川哲という作家の特徴は、その「諦観」であるということを、繰り返し指摘してきた。
そして、その「諦観」に立ってなされる、現実との妥協(局所的進歩)としての、エンタメ的な「欺瞞」を批判してきた。
私が、小川哲の小説について批判してきたことを、簡単に言うならば、「小川哲の小説は贋物であり、彼は贋金づくりだ」ということにもなろう。
その意味では、小川哲は「小説家」の長い伝統に連なる作家の一人だ、ということもできるようが、しかし、私が批判するのは、小川哲が、自身の「贋金つくり」性を、自覚的に韜晦しているところである。
そこが、彼の「エンタメ」性でもあれば、「才能」の限界だと、私はそう評価しているのだ。
それにしても、私がなぜ、「無駄」と知りつつ、そんなことを指摘するのかと言えば、それは私が、「退化」を嫌う「子供大人」だからであろう。だからこそ私は、いつだって、怒ったり泣いたり笑ったりしている。要は、諦めが悪いのだ。
「片桐」に対してだって、小川哲に対してだって、ありきたりな「同情」を示す前に、懲りずに、怒ったり泣いたり笑ったりする。
だか、それこそが、私の「才能」なのである。
(2023年10月22日)
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