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スタニスワフ・レム 『短編ベスト10』 : 短編に見るレムの個性

書評:スタニスワフ・レム『短編ベスト10』(国書刊行会「レム・コレクション」)

昔は、SF作家の「ビッグ3」というと、アーサー・C・クラークロバート・A・ハインラインアイザック・アシモフという感じだったのだが、今ではかなり変わってきているのだろう。
もちろん、こうした「正統派」の作家も「基本書として、読まなければならない」とは思っていたのだが、長らく「ミステリ」を専門に読んでいたので、「SF」までは読みたくても読めなかった。また、そのせいで、読むための割当て時間がごく少なかったSFで、それでもあえて読もうという気になるのは、おのずと自分好みの「変な作家」ということにもなって、フィリップ・K・ディックなどは多少読んだし、買うだけは全部買っていた。

スタニスワフ・レムという作家も、主流とは違うといったところで「気になる作家」であり、けっこういろいろと買い込んではいたのだが、勤めをしていてハードカバーは持ち歩きにくいということなどもあって、結局、読んだのは、文庫で最も手に入りやすかった代表作、旧タイトル『ソラリスの陽のもとに』時代の、『ソラリス』だけであった。

飯田規和訳『ソラリスの陽のもとに』)

で、私も隠居の身になったので、読みたくても読めなかったSF小説をしっかり読もうと、ディックの読み残しや、読み残したハインラインの代表作などを順次読んでおり、その一環として、今回はレムを読んだという次第である。
もちろん、レムと言っても「水色髪のメイド」のことでもなければ「ドリームハンター」のことでもない。

ところで、クラークやアシモフはどうなのだということになりそうだからついでに書いておくと、クラークについて言えば、昔からいかにもイギリス紳士風の硬くて真面目そうなイメージに、なんとなく「合わなさそう」という感じがあって、正しいのか間違っているのかはわからないが、とにかくそのイメージが、今でも払拭されておらず、あまり触手が動かない。
昔、キューブリック映画版とのからみで『2001年宇宙の旅』だけは読んでいるのだが、映画の印象が強すぎて、原作の印象はほとんど残っていない。もちろん、そのほかの代表作も読んでおかないとという「義務的」な気持ちだけはあるのだが、やはり「読みたい本」をさしおいてまでは、なかなか手が出ないというのが現状なのである。

一方、アシモフについては、SF作家である前に、ミステリ作家として『黒後家蜘蛛の会』シリーズを読んでいるのだが、これもまたイマイチ印象の残らなかったので、アシモフにもあまり魅力を感じなくなってしまったのではないかと思う。
ただ、「ロボット工学3原則」で名高い『われはロボット』だけは、基礎教養として読んでおかなければならないとは思っている。

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そんなわけで、今回は、スタニスワフ・レムの2冊目として『短編ベスト10』を選んだ。

『ソラリス』は、『ソラリスの陽のもとに』時代に読んで、とても面白くも重厚な作品として印象に残っていたのだが、その後に「完訳版」が出ることによって、あの『ソラリスの陽のもとに』が「抄訳」だったと知り、レムという作家に対する畏敬の念を深めた。「これはやはり、かなり歯応えのある作家のようだぞ」と。
このように考えたのは、もちろんそれだけが理由ではなく、この頃すでに私は、レムに『完全な真空』のようなポストモダン的実験小説があるのを知っていたからで、レムが「アングロ・サクソン的に典型的なSF作家」とは毛色の違う作家だというのを、読んではおらずとも、それなり知っていたからである。

沼野充義訳・完訳版『ソラリス』)

そんなわけで、『ソラリス』は面白かったが、東欧の作家であるレムは、アメリカのSF作家のような「娯楽性の高い物語作家」ではなく、言うなれば「前衛的文学派」であり、歯応えのある作品が多そうだと思っていたので、ひさしぶりに読むのは、この「ベスト短編集」が良いだろうと考えた。短編ならなんとかなるだろう、と。一一だが、そんな目算は、見事にハズれてしまった。

端的にいって「面白くなかった」のだ。「歯応えがある」というのは、想定の範囲内だから、それはかまわない。だが、そことは違った部分で、私には楽しめなかった。
では、どういう部分でかというと、本短編集に採られた作品の大半が「社会批判(風刺)的なユーモアSF」だったためである。

端的に言って「ユーモアもの」は、私の好みではない。これはジャンルを問わずで、中間小説的にオーソドックスな「ユーモア小説」は無論、「ユーモアミステリ」も「ユーモアSF」もダメ。
だから、まだ読んではいないものの「泰平ヨン」シリーズは、その主人公の名前からして、最も後回しにするだろうレム作品だと考えていたくらいだった。

さらに言うと、私は「風刺」というのが好きではない、と言うか、物足りない。「風刺」ではなくて、「批判」が好きなのだ。
回りくどく嫌味ったらしくやるのではなく、真正面からぶっ叩けよというタイプなので、フィクションであることに言寄せたかたちでの「わかりやすい批判」などというのは好きではない。
だが、この『短編ベスト10』に、そうした作品が多く採られており、そのあたりで明らかに、「選者」の趣味と私の趣味が、完全に食い違っていたのだ。

では、この短編集の「選者」とは誰か?
それは「一般読者」だということになっている。訳者解説によると、次のような事情だ。

『 (※ 本書親本の)アンソロジー収録作品の選定プロセスは次のようなものだったと言う。まず出版社の依頼を受けて、(※ 本書の親本の編者で、レムの地元ポーランドで刊行された「レム全集」の編者でもある、レム研究の大家、イェジイ・)ヤジェンプスキが自分の好きなレム短編のリストを作成した。そこに、(※ ポーランドの)読者による人気投票の結果が加わった。そして最後に、レム自身が作者の特権を行使して、あまり好きではない作品を削除し、個人的に偏愛する作品を付け加えた。ヤジェンプスキが個人的に好きな作品リストも、読者による人気投票結果も、公表されているわけではないので、こういった説明を聞かされても具体的なことはよくわからない感じが残るのだが、ヤジェンプスキによれば、確かにできあがったものは、読者・批評家・作者という三者の間の妥協の産物かもしれないが、読者の好みが結果として強く反映されることになり、収録作品の順番は、読者による人気投票の得票順になっているのだという。その一方で、レムは自分の好みを反映させる権利を放棄したわけではなく、その結果、人気投票で最下位だった「テルミヌス」がここに入ることになった。レム自身のお気に入りの作品だからである。かくして、この〈トップ・フィフティーン〉は、読者の人気の一番高かった「性爆発」から、読者の人気の一番低かった「テルミヌス」までの大きな振幅をはらんだ形で読者に供されることになった。』(P365)

親本では、本書は『〈トップ・フィフティーン〉』だった。つまり、言うなれば『短編ベスト15』(タイトル自体は『ファンタジックなレム』)だったのだが、この邦訳版では、すでに翻訳が刊行されていて手軽に読めるものとなっている、短編集『完全な真空』の収録作4篇と、翻訳では薄い1巻本となる(短めの長編、長めの中編)『泰平ヨンの未来学会議』はハズされて、『短編ベスト10』になったという次第である。

ちなみに『〈トップ・フィフティーン〉』は、次のとおり。「⚫︎」が、当翻訳版から除外された作品である。

⚫︎(1)「サイモン・メリル『性爆発』」(『完全な真空』より)
 (2)「三人の電騎士」(『ロボット物語』より)
⚫︎(3)「アリスター・ウェインライト『ビーイング株式会社』」(『完全な真空』より)
 (4)「航星日記・第二十一回の旅」(「泰平ヨン」シリーズより)
⚫︎(5)「未来学会議」(同上)
 (6)「洗濯機の悲劇」(同上)
 (7)「A・ドンダ教授」(同上)
 (8)「ムルダス王のお伽話」(『ロボット物語』より)
 (9)「探検旅行第一のA(番外編)、あるいはトルルルの電遊詩人」(『宇宙創世記ロボットの旅』より)
⚫︎(10)「アーサー・ドブ『我は僕ならずや』」(『完全な真空』より)
 (11)「自励也エルグが青瓢箪を打ち破りし事」(『ロボット物語』より)
⚫︎(12)「マルセル・コスカ『ロビンソン物語』」(『完全な真空』より)
 (13)「航星日記・第十三回の旅」(「泰平ヨン」シリーズより)
 (14)「仮面」(短編単刊)
 (15)「テルミヌス」(『宇宙飛行士ピルクス物語』より)

なお、『完全な真空』収録作品が、例えば「サイモン・メリル『性爆発』」というふうになっているのは、同書が「架空書評集」だからだ。つまり、この短編は、「サイモン・メリルという作家の書いた『性爆発』という本についての、レムの書評」という体裁になっているため、このような表記になるわけである。

よって、翻訳版である『短編ベスト10』で、私が面白いと思ったのは、最下位で最後の「テルミヌス」だけだった。
この評価は、「訳者解説」を読む前のもので、決してレムの権威にすり寄ったわけではない。このアンソロジーで、「SFらしいSFで、かつシリアスな作品」は、この「テルミヌス」ただ1作だったのだ。

以上のとおりで、「泰平ヨン」シリーズが「ユーモアSF」であるように、『ロボット物語』も『宇宙創世記ロボットの旅』も「社会批判(風刺)的なユーモアSF」であり、その点で「私の好み」ではなく、私としては、少しも笑えなかったし、面白くもなかった。

深見弾訳『泰平ヨンの未来学会議』)

だが、だとすると、残るのは「仮面」と「テルミヌス」だけということになるわけだが、「仮面」の方は、これまた非常に凝った「文体実験的」な作品であり、作者の並々ならぬ作家的力量には圧倒されるものの、読んでいて「面白い」作品では、決してなかった。

そこで、最後に残ったのは「テルミヌス」だったわけだが、「典型的なSF作品」でありながら、この作品も最後の最後までは、地味で重厚かつ重苦しい稠密な描写に続いて、かなりしんどい小説であった。
ただし、最後の最後で、この作品のテーマが「意識とは何か」といった、文系の私にも興味の持てるところのものであることが判明して、ようやく「面白い」と感じたのである。

そんなわけで、「訳者解説」にもあるとおり、スタニスワフ・レムという人は、「博識」と言うよりもよりも「博学」の人であり、その著作には「SF小説」「ポストモダン的実験小説」があるだけではなく、「人間科学」や「技術論(技術哲学)」「社会哲学」等に基づく「未来学」などの広範な哲学的著作があって、そちらも決して余技的なものではない高い評価を受けている。

(国書刊行会のレムの本)

こうした「博学」者らしい作風というのは、必ずしも嫌いではないのだが、レムの場合、その発想の本質が、基本的に、ドライに「科学的合理主義」であり、その点で「文系」的な「心」や「精神」や「情念」というものに惹かれる私には、どこか合わないところがあるようだ。

具体的に言えば、私が「ユーモア」や「風刺」が好きではないのは、その「醒めた距離感」が好きではないからだろうと思う。
私の好きな作家というのは、フィリップ・K・ディックでもドストエフスキーでもいいけれど、もっと熱く対象に肉薄していき、泣き喚たり「罵倒」したりして、批判するタイプだからであろう。

そうした作家と比べると、レムの短編にはどこか「お高く止まっている」という感じがあって、私の好きなタイプではない。「クラクフの賢人」というレムのあだ名も、なるほどその個性にぴったりだと、今にして納得できるのだ。
馬鹿が大嫌いな私は、もちろん「賢人」も好きではあるのだが、より好きなのは、損得を考えない「愚者」タイプだからである。

(スタニスワフ・レム)

今回は「短編集ならば読みやすいだろう」ということで選んだわけだが、結果としては、それが裏目に出た。
むしろ「短編」であるからこそ、レムのレムらしい「突き放した批評性」が端的に出、その一方で、私の好むような「文学的肉質性」を欠くことになってしまった。長編であったなら、もっと「人間的」になったところが、シンプルに剥き出しになってしまったことで、私には合わないところの目につく作品になってしまったのだろう。

それと、日本でどうだか知らないが、ポーランドのレムファンというのは、当たり前な「SF作品」よりも「社会批判(風刺)的なユーモアSF」といった「(博学者の作品らしく凝ってはいるが、基本的に)率直で分かりやすい作品」が好きなのだろうが、そのあたりで私とは真逆だったということなのかもしれない。

そんなわけで、私は今後、「泰平ヨン」シリーズはもとより、『ロボット物語』や『宇宙創世記ロボットの旅』といった短編集は避けて、読み残している「長編」中心に読んでいくことになるだろう。また、短編を読むとしたら、今回、比較的に楽しめた「テルミヌス」を収めた『宇宙飛行士ピルクス物語』か、『完全な真空』などの「ポストモダン小説」を読むことになるはずだ。

今回、『短編ベスト10』自体を楽しめなかったのは残念だったが、本書を読むことによって、スタニスワフ・レムという作家について、大まかな見通しのついたことは、十分な収穫だったと思っている。



(2023年11月24日)

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