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橋本輝幸編 『2000年代 海外SF傑作選』 :  〈私の感性〉への根源的遡行

書評:橋本輝幸編『2000年代海外SF傑作選』(ハヤカワ文庫)

私の前に、お二方(小倉光雄田中宏輔、の両氏)がレビューを投稿されている。どちらもSF愛好家のようだが、作品の評価はまちまちだ。当たり前だといえば当たり前な話なのだが、レビュー投稿者の「9割」(シオドア・スタージョン)は、そのことをあまり真面目に考えてみたりしないようで、それは、いろんなレビューを瞥見するだけでも、すぐにわかることだ。要は、自身の「好き嫌い(好み)」と、作品の「出来不出来(客観的価値)」を峻別することなく、自身の「好き嫌い」をそのまま作品の「出来不出来」として語っている評者が「9割」なのである。

たとえば、私は、以前は「ミステリ(推理小説/探偵小説)」を専門的に読んでいたが、だからと言って、すべての「ミステリ」作品が「理解」できるわけではない。私の場合、ミステリの中でも「本格ミステリ」が好きで、「冒険小説」や「ハードボイルド」、あるいは、謎解きや意外性(驚き)といった要素の少ない「警察(刑事)小説」などには興味がなかったし、多くの場合、読んでも「面白い」とは感じなかった。
しかし、言うまでもなく、「ミステリ」というジャンルの中で、「本格ミステリ」が最も優れており、「冒険小説」や「ハードボイルド」などのサブジャンル作品が、相対的に劣っている、などということではない。これくらいのことは、猿でもわかる話なのだが、しかしまた多くの人は、自身の「好み」に合致するジャンルを、さしたる「根拠」も示さずに「最高」だと力説したがる(「本格こそ、ミステリの王道!」とか言いたがる)ものだし、その際には、それが「客観的な評価」だと、信じてさえいるのである。だが、そんなものは「信仰=盲信=自己満足的虚構」でしかない。

たとえば、本集冒頭に収録のエレン・クレイジャズの「ミセス・ゼノンのパラドックス」は、田中氏によって『二人の女性がレストランでケーキを切り分けるだけの話。超細かく切り分けるのだけれど。おもしろくなかった。』と切り捨てられているが、私の場合は、本集の中でこの作品が最も好きだったし、これほど面白いSF短編を読んだのは、本当にひさしぶりだった。
何が面白かったのかと言えば、それは、ただでさえ魅力的な「ゼノンのパラドックス」を、日常的な物語世界の中へ、しれっと持ち込んで見せたことだ。たしかに「ゼノンのパラドックス」からすれば、ケーキは無限に切り分けられることになる。『ケーキの切れない非行少年たち』(宮口幸治)といった「生々しい現実」の話ではなく、きわめて「知的な思考実験」の話なのだが、それを「ケーキを切り分ける」という「日常的な風景」の中へ持ち込んで見せたところが、じつに素晴らしいのだ。この作品は、抽象と具象のアマルガムなエッシャー絵画と同様、「小説」でしか書けない特権的な作品であり、こんなものを映像化したら、さぞや野暮なものになることだろう。
さらに言えば、本作には、無駄というものがない。いわゆる「物語性」も無ければ、「娯楽性」も無いし、「(情動的)感動」も無ければ、いわゆる「人間(的実存)を描く」こともしていない。つまり、通常の意味での「文学性」が無い。にも関わらず、「ゼノンのパラドックス」という、いささか手垢にまみれた「思考実験」に、日常的かつ新しい装い(イメージ)を与えたことが、まさに卓抜だったのだ。
この、誰も思いつかなかった、「目から鱗的アイデア」の斬新さは、アガサ・クリスティーの『アクロイド殺し』にも匹敵するのではないか。一一そう感じて、私は「感動」したのである。

しかし、こうした「感動」は、私の、「本格ミステリ」には惹かれても「冒険小説」や「ハードボイルド」には惹かれない、という「個性」に由来するものであるというも明らかだろう。
だから、この作品の「美しさ」がわからない人がいても、それは当然だし、その人を責めようとは思わない。なにしろ私も「冒険小説」や「ハードボイルド」の魅力がわからない人なのだし、だからこそ、本集収録の「物語性の強い作品」には、やや退屈させられたのでもあろう。「アイデアは面白いけど、こんな活劇なんかいらない。活劇は映画で観た方が面白いよ」という感じだったのである。

読者にとって大切なのは、結局のところ「自分の感性」に合致した作品か否かであり、その意味での「面白いか否か」であっていいのだが、ただ、それを「作品の客観的価値」と(願望充足的に)混同するというのは、褒められたものでない。まして、その「個人的な趣味」を、なんの「注釈=説明」もなしに、無防備に、レビューとして「公開する」というのは、ほとんど「無自覚な公開マスターベーション」ではないか。

私は決して「SF者」ではないけれども、「SF」というジャンルが、世界を相対視しようとするストイックな「思弁性」を持っていることくらいは、了解している。
そして、仮に「SF」がそういうジャンルであるとするならば、その「SF」を無考えに(願望充足的に)「信仰」する人たちとは、スタージョンも言うとおり「9割」に属する人々であり、また、それはそうであっても仕方のないことなのだろう。だが、読者個々にあっては、自分がその一人であってもいいとは、決して思わないのではないだろうか。

本集末尾の収録作、アレステア・レナルズの「ジーマ・ブルー」について、小倉氏は『”ジーマ・ブルー”は好みが分かれるところ。惑星大の絵画作品とかを受け入れられるかどうか。』と書いておられるが、私が見たところ、本作のテーマは「魂の根源的志向の謎」といったことではないかと思う。
人間が、爬虫類を気味悪く感じるのは、進化の過程で刻まれた古い記憶が残っているせいだ、などといった話があるが、ともあれ、私たちが何故「この作品には惹かれ、あの作品には惹かれないのか」といった「原因」の遡行的究明は、決して「結論」には至れない性格のものなのだろう(つまり、決断主義的に打ち切るしかない)。だから、本作が語るとおり「客観的事実」だけが大切なのではなく、「好きなものが好き」で良いのである。
しかしまた、やはり、それを無理な「屁理屈」で正当化してまで、承認欲求を満たそうなどという「人間的な、あまりにも人間的な」行動は、およそ「SF」的なものとは言い難いのではないか。

「この作品は面白かった。そっちは面白くなかった(面白さがわからなかった)」で、かまわない。
しかし、「何故、(私には)こっちが面白く感じられ、こっちは面白く感じられなかったのだろうか?」と考えてみるスタンスこそが、「SF」的な「思弁的態度」であろうし、それを世間では「批評性」とも呼ぶ。

こうした意味において、本集は「自分(私)を読むための、SF的テキスト」として、最適なのではないだろうか。

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初出:2021年1月8日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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