見出し画像

R.A.ラファティ 『とうもろこし倉の幽霊』 : ホントに騒々しい〈ポルターガイスト〉

書評:R.A.ラファティ『とうもろこし倉の幽霊』(早川書房)

昨年刊行された、ハヤカワ文庫の「ラファティ・ベスト・コレクション」(全2冊)に続いて、私にとっては3冊目となった、ラファティの新刊短編集である。

一口にラファティ作品と言っても、これが意外に作風に幅があって、好きでなければ、非常に読みにくいと感じられるだろう作品もあれば、比較的読みやすく、その意味で「普通」の「奇妙な味の小説」もある。要は、けっこう文体を変えてくる作家なのだ。
無論、その上で「一貫した個性」があり、そこが「ラファティらしさ」ということになるのだが、それはどういうところなのだろうか。

私は、前記「ラファティ・ベスト・コレクション」(全2冊)のレビューを「愛嬌のある〈ホラ吹き怪獣〉:R・A・ラファティについて」と題したが、ここで言わんとしたのは、要はラファティは「ユーモアがある」「悪戯っ子のようである」「庶民的である」「威張らない」「にぎやかだが、一面、淋しさや孤独感のようなものをにじませる」「SFというジャンルには収まりきらない作家である」といったことだった。

画像7

無論、これは何も私だけが言っていることではなく、ラファティファンの多くが認めるところなのではないだろうか。
ただ、ラファティの作品発表の場がSF小説誌に偏っており、その発表媒体に合わせて、SF的なガジェットを使って書かれた作品が少なくなかったため、当初は「SF作家」として読まれざるを得なかった、ということなのだと思う。

だが、ラファティをSFファンだけに読ませておくのはいかにも勿体ないことだし、実際のところ、ラファティはSFの世界でも「変わり種」作家の一人であって、決してメインストリームを歩む作家だとは評価されていないだろう。
言い換えれば、SF界においてだって、ラファティは評価の分かれる、あるいは好悪の分かれる作家なのではないか。個性的な小説家としては認めても「この人は、もともとSF作家と呼ぶべき作家ではないのではないか」というSFファンも、決して少なくないはずだ。
そして、その評価は、たぶん間違ってはいない。ラファティは、「純然たるSF作家」なのではなく、「SF作家でもある作家」なのではないだろうか。

したがって、私としては、ラファティはもっと多くの人に読まれ、その上で個人的に「合う・合わない」が判断されるべきだと思う。まず、広く読まれた上で、評価されなければ、ラファティにとっては無論、読書家一般にとっても、勿体ないことだと思うのだ。

どちらにしろ、ラファティという作家は、極めて個性的であるために、読者によって「好みの分かれる作家」であり、結果として「読者を選ぶ作家」なのだ。そんなラファティの強烈な個性が、ある人には「中毒性」を持つのに対し、別の人には「なんだか騒々しくて、よくわからない小説」という感じで忌避されるのではないだろうか。
喩えて言うなら、落ち着きのない悪戯っ子を「子供らしくて可愛い」と思う人と、「子供はうるさくてかなわない」と思う人の違いだと言えよう。どちらも、間違ってはおらず、あくまでも「趣味の違い」なのである。

画像5
画像5

(マーク・トウェイン『ハックルベリー・フィンの冒険』より)

そんなわけで、私としてはラファティを「SF作家」と呼ぶのではなく「変な小説を書く作家」くらいに呼びたい。本当は、広義の「幻想小説家」と呼びたいのだが、この呼称にはこれで「マイナー」なイメージが付いていて、読者を限定してしまうから、残念ながら適切だとは思えない。
したがって、前回に続き、ラファティの個性を比喩的に伝えるなら「ホントに騒々しい〈ポルターガイスト〉」ということになる。

「ポルターガイスト」というのはもともと、家具をガタガタいわせたり、ラップ音立てたりする「騒々しい霊」という意味なのだが、ラファティはただの「ポルターガイスト」ではなく「ホントに騒々しい〈ポルターガイスト〉」なのだ。
だから、滅多にいないという意味では面白いし、うるさいのが苦手な人には、きっとダメだろう、ということなのである。

画像7

 ○ ○ ○

ちなみに、本書所収の短編「さあ、恐れなく炎の中に歩み入ろう」における「神学的知識」から窺えるとおり、ラファティはクリスチャンであり、本書翻訳者によると「カトリック信徒」なのだそうだ。
そして、そう言われてみると、ラファティはいかにもカトリックらしい「匂い」がする。

と言うのも、前記のとおり、ラファティには「庶民的である」「威張らない」「にぎやかだが、一面、淋しさや孤独感のようなものをにじませる」といった個性があり、これはいわゆるピューリタン(プロテスタント)的な「知的で禁欲的な狷介孤高」とは、真逆な個性だと言えるからだ。

2015年に刊行された、プロテスタント神学者の森本あんりの『反知性主義 アメリカが生んだ「熱病」の正体』は、トランプ旋風に象徴されるアメリカの「反知性主義」というものが、どういうところから、どのように生まれてきたものであったを紹介しており、ここで紹介される「反知性主義」というのは、決して「頭が悪いこと万歳」主義ではなく、言うなれば「小理屈が嫌い」「知的エリート嫌い」「上から目線嫌い」「気取った奴が嫌い」といったものなのだ。

アメリカはもともと、信仰の自由を求めてメイフラワー号で新天地に移住した、イギリスのピューリタン(清教徒)である「ピルグリム・ファーザーズ」に発する国ということになっている。

画像6

で、この「ピューリタン(清教徒)」というのは、その名のとおり「清く正しく美しい論理感を掲げた、教養あるプロテスタント」であり、そうした「近代理想主義」的な信仰が、イギリスでは「反教会的」でもあれば「原理主義的」でもあると危険視され、迫害を受けたため、信仰の自由を求めて新大陸に移住した、というわけだ。

つまり、アメリカ合衆国のキリスト教は、もともとはプロテスタント的な知的エリートが中心であったのだが、その後の「開拓時代のアメリカ」の庶民には、こうした「知的で堅苦しい信仰」はだんだん忌避され始め、やがて「理屈よりも信仰心。知解よりも神がかり」の熱狂的な巡回説教師たちによる「反知性主義」的なプロテスタント(今でいう「ペンテコステ」派)が、アメリカでは主流となっていくのである。

それに対し、移民のよって遅れてアメリカに持ち込まれた「カトリック」というのは、その伝統主義において、アメリカではマイナーな存在ではあったけれど、「ピューリタン」ほど「知性主義のエリート主義」でもなければ、ゴスペルを歌って盛り上がるといった熱狂的な「ペンテコステ」派的な「反知性主義」でもなく、その間を行く、伝統主義的であるがゆえに「落ち着いた神信仰」を持ったものだったと言えるだろう。

もちろん、「カトリック」も上の方に行くと、悪しき伝統主義や権威主義が渦巻いていて、決して「プロテスタント」の「極端さ」を見下せるような立場ではないのだが、少なくとも「庶民におけるカトリック信仰」は、極端に走らない「素朴の美徳」を持っていたと言えるのである。

で、ラファティの作品には、こうした「庶民派カトリック」の美徳が、たしかに息づいている。

本書の表題作は「とうもろこし倉の幽霊」で、要は「幽霊話」なのだが、カトリックの正統神学では、無論「幽霊」の存在など認めていない。
人間は死んだら、土の中で「最後の審判」の時まで眠り続け、魂はその体の中にあって、魂だけが地上をウロウロしたりはしないのだ。一部例外的に、死んですぐに「肉体ごと」天に(神の座の横に)上げられたりする人もいるようだが、基本は地下で寝て待つのである。

画像5

したがって「幽霊」なんてものは、存在しない。カトリック信仰で存在するのは「三位一体の神(父と子と聖霊)」と「天使」と「(堕天使としての)悪魔」と「人間」と「その他の生物」であり、「幽霊」なんてものの存在は認められていないのである。

だが、庶民の信仰というものは、それほど正統神学に忠実ではないし、堅苦しいものではないので、民間伝承的な「幽霊」だの「怪物」だのも、当たり前に信じられたりしている。
そして、カトリックは、そうしたものにも意外に寛容である。なにしろ「聖人」などという「半神半人」めいた「偶像」を、後付けで認めてしまうくらいなのだから(日本の神道や仏教だって、その融通無碍さにおいては大差はない)。

で、ラファティの「カトリック信仰」というのも、こういう「庶民派カトリック」的なものであって、「バチカン的正統信仰」的なものではない、と言えるだろう。彼の信仰は、「ローマ教会=ローマ法王庁=バチカン」的な「唯一正統」を掲げる「権威主義的な信仰」ではなく、もっと「庶民的」な、「土着化したカトリック信仰」なのである。

画像4

そして、ラファティの「SF」が、どこか「SFらしくない」のは、この「庶民派カトリック」的な性格にあると見て、まず間違いないだろう。
と言うのも、「正統派SF」というのは、おおむね「近代主義」における「科学信仰」の筋から出てきた、きわめて「プロテスタント」的な性格のものであり、その意味で「庶民派カトリック」的な「土着性」や「庶民性」が薄く、当たり前のように「コスモポリタン」的であり「反地上的」なのだ。

だが、「庶民派カトリック」であるラファティには、そうしたものとはハッキリと違った「土の匂い」がする。だからこそ「SFっぽくない」のであり、どこか「ラテンアメリカの文学」と共通するものを感じさせるのだ。

そんなわけで、ラファティを「ラテンアメリカの文学」の中においてみると、実にしっくりくるのではないか、というのが私のラファティ観であり、したがって、そうした「世界の文学」を読んでいる読者に、是非ともオススメしたいのだが、さていかがなものであろうか?

(2022年2月11日)

 ○ ○ ○




 ○ ○ ○


 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○

 ○ ○ ○


この記事が参加している募集

読書感想文

SF小説が好き