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ドゥニ・ヴィルヌーブ監督 『DUNE デューン 砂の惑星』 : 原作に忠実な 「宗教映画」

映画評:ドゥニ・ヴィルヌーブ監督『DUNE デューン 砂の惑星』

残念ながら、かなり眠い映画であった。

昔、デイヴィッド・リンチ版の『デューン』を観に行った際は、当直勤務明けの寝不足ということもあって、途中で少し寝てしまったのだが、今回のヴィルヌーブ版は、リンチ版の時とは違い、少なくともあらかじめストーリーを知っていたにもかかわらず、それでもやはり、眠くなってしまった。

リンチ版の時は原作小説を読んでいなかったし、途中で寝てしまったこともあって、ストーリーがさっぱりわからなかった。
けれども、吹き出物の醜い風船男のハルコンネン男爵が、甲高い笑い声をあげて部屋の中を飛び回ったり、ハルコンネンの甥役のスティングが、ことさらに美しい肉体を見せつけていたとか、「航宙ギルドのナビゲーター」が、いかにもデイヴィッド・リンチらしく実にキモいデザインだったとか、そういうちょっと「普通ではない」場面だけは、記憶に残った。

(デイヴィッド・リンチ版『デューン』より)

そんなわけで今回は、先に原作小説を読み、さらに本作がヴィルヌーブ版『デューン』の「前篇」であることも承知の上で、DVDで鑑賞したのだが、一一やはり、退屈だったのだ。

原作を読んだので、ストーリーは理解しているから、この映画だけを観た人とは違って、「よくわからない」というようなことはなかった。
私としては「あの小説を、どう映画化するのだろうか」という観点から本作を観たのだが、たしかに、時間の許すかぎり「原作に忠実に」撮ろうとしているのは、よくわかった。もちろん、細かい省略や、その他もろもろの事情による、キャラクターの性格設定の変更などもあったけれど、そこは映像化ということであり、充分に許容の範囲内であった。

そんなわけで、たしかに「原作に忠実」ではあったのだが、しかし、そのために「退屈になってしまった」とも言えるだろう。

なにしろ、原作の方は文章による「描写や説明」であり、直接、読者の頭に働きかけるものなのだが、映画の場合は、基本的には「映像」による描写というワンクッションをおいての説明だから、同じ説明でもわかりにくくなる。
もちろん「ナレーション」などで直接的に説明することも可能ではあるのだが、これは最後の手段であって、映像作品としては「野暮な便法」でしかない。

リンチ版の方は、あの(3冊または4冊にわたる)長編小説を、1本の映画にまとめなければならず、しかも今のように3時間超えの長編などといったことの許されない時代の作品だったから、それでも頑張っての「2時間10分」だったとしても、それはまったく不十分な長さであり、今回の「ヴィルヌーブ版『デューン』前篇」の「2時間35分」よりも短かった。
したがって、ナレーションによる状況説明に頼った「総集編」のごとき作品になってしまったのも、やむ得ないところだったとも言えるだろう。

そんなわけで、リンチと同じ轍を踏むわけにはいかなかったヴィルヌーブが、「前篇」あるいは「PART1」と割り切って、本作を撮ったのは、原作を尊重する立場からすれば、まったく正しかったと言えるだろう。

ただし、この作品が「前篇」にすぎず、物語として完結していないことを「隠した」上での公開は、「アンフェア」だと断じざるを得ないし、この「前篇」だけを観て、本作が「未完の作品」であることには触れずに、作品の一部分、例えば「映像」や「音楽」や「俳優」や「原作に忠実であること」などをとらえて「傑作」だなどと絶賛した、有名人や有識者たちは、あまりに「無責任」だと断罪されて然るべきであろう。

こうした有名人の中には、招待され無料で本作を観た者も多いだろうし、いずれにしろ「称賛の声」を寄せることで「原稿料」をうけ取っているに違いないのだが、彼らは、料金を払って映画を観る者のいることを、忘れているとしか思えない。
自らの所属する映画業界に「便利な褒め屋」として、それで小遣い稼ぎができるのだから、当人はそれで何の「やましさ」も感じない、ということなのかもしれないが。

ともあれ、私たち「一般人(無名人)」は、あれにもこれにも、やたらに「称賛の声」を寄せているような「称賛のプロ」の名前くらいは、記憶しておいた方が良いと思う。これは「消費者としての知恵」である。

そんなわけで、本作を誉めている人というのは、どういう点で褒めているのかというと、

(1)原作に忠実
(2)映像美
(3)荘厳な音楽による、独特の世界観の醸成
(4)豪華なキャスト
(5)今風の美形である
ティモシー・シャラメの主演

といったところだろうか。つまり、

(1)については、「SF(小説)マニア」たちが、それだけで絶賛する部分だ。
「あの長く複雑な原作を、見事に映像化している」ということであり、「原作に忠実」であるために、映画として冗漫になっている、なんてことは、なんら問題にはならない。

とにかく、「SF(信)者」としては、かの「偉大な原作(聖典)」に対し、最大限の敬意を払った作品である、という点が重要であり、そのために映画として冗漫になったとしても、そんなことは大した問題ではなく、むしろ観る方が「耐えて然るべき」ことなのだ。
例えば「SF研究家・文芸評論家」の牧眞司などが、そんな「信者」の代表だ。

(2)「映像美」という点については、たしかに異論はなく、端的に言えば「上品かつ地味かつ壮大」に仕上がっている。

「映画.COM」のカスタマレビューに、「gambier」氏が「5点満点の2点(星2つ)」を付け、『ほとんど寝てたw』と題して、次のような感想を寄せていたが、まったくそのとおりの作品なのだ。

『始まって20分ぐらいで寝たw
とにかく、ずーーーーーーーーーーーーっと、 ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、 ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、

目を覚ますと、 ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、 ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、ベージュ、茶色、グレー、
で、特に面白いことも起きない……起きない……起きない……また寝る。

気が付いたら終わってたよ~ 』

もちろん、「上品な渋好み」の人もいるだろうし、「起伏のない物語」が好きな人もいるだろう。

それは否定しないのだけれども、本作が「SF活劇のエンタメ映画」だと思って(無論、原作のこともよく知らずに)観に行った人だったら、こうなるのは、むしろ自然なことであり、これが多数派の反応だと考えるべきだろう。
なにしろ、原作を読んでいる私でさえ退屈したのだから、描写に起伏が乏しく、そのうえ細かいところが理解しにくいとあっては、こうなるのも当然なのだ。

最初から「芸術映画」とでも銘打っての公開ならばともかく、「前篇」とさえ断らないようなかたちでの公開であれば、「一般観客」のこうした反応も、決して、バカにして済むような問題ではないのである。

そして、私が気づいた範囲でいうと、この作品に「称賛の声」を寄せた有名人の中でも、出渕裕押井守神山健治開田裕治竹谷隆之前田真宏山崎貴といった「クリエーター」たちは、本作を、「一般観客」としてではなく、「同じクリエーター」としての目線で観て、「なかなか、ここまでは作れないよ、大したもんだ」ということで褒めたのだろうというのは、容易に推察できる。一一つまり彼らは、すでにどっぷりと「あちら側の人間」なのだ。

(3)「荘厳な音楽による、独特の世界観の醸成」というのも、ちょっと独特なもので、普通の映画のように、場面場面で曲調が変わるといったものではない。
さすがに戦闘シーンでは違ったかもしれないが、おおむね「重く暗く緊張感に満ちた荘厳な曲調」において統一されており、この音楽が「上品かつ地味かつ壮大」な映像と相まって、ある種の(ゴシックな)「ありがたみ」を創出するその一方で、SF映画にそうした「ありがたみ」を求めない一般的客層の「眠気」を誘うことにもなっている。

(4)「豪華なキャスト」は、映画ファンには「ありがたい」のだろうが、そうではない者にとっては、「まずまず的確なキャスティングとその演技」というものでしかない。

(5)主演のティモシー・シャラメは、いかにも今風の、エッジの利いたイケメンで、別に『デューン』のポール役ではなくても、見惚れてしまう若い女性が多いだろうことは容易に推察できるし、また、「少年」の雰囲気を残している「線の細さ」において、リンチ版のカイル・マクラクランよりも、「原作」のイメージに近いとも言えるだろう。
カイルは、美形だけれども、ひと昔前の「美青年」であって、「美少年」という感じではなかった。

以上のようなわけで、本作、ヴィルヌーブ版『デューン』前篇は、いろんな側面において、「マニア受け」する作品だと評して、間違いはない。
「そこさえあれば、もうそれで満足」というようなマニアックな観客がいるのは否定できない事実だし、彼らの評価が間違っているとも思わない。

だが、本作の長所は、すべての側面において「マニア向け」であり、言い換えれば「信者向け」でしかなく、そうではない「一般人(不信仰者)」にとっては、退屈と感じられて当然の作品になっている、というのもまた、否定しがたい事実であろう。

 ○ ○ ○

以上のような論点の中で、私が特に論じておきたいのは、(1)についてである。

前述のとおり、私はすでに、フランク・ハーバートのよる原作小説『デューン 砂の惑星』を読んでおり、この作品が「どういう作品なのか」ということについて、論じてもいる。

で、そこでの私の結論とは「原作『デューン』は、宗教小説である」というものであった。

単に、「宗教」を扱った「宗教SF」なのではなく、「SF小説のかたちで語られた宗教小説」だということだ。

そして、この作品(原作小説)を「歴史的傑作」として、ながらく崇め奉ってきた「SFマニア」たちは、その点が「まったく読めていない」と、そう批判しておいたのだ。

『本書を読んで『生態学SFの傑作』などという「一面的」な理解が、(※ 原作文庫本の解説者である水鏡子の指摘どおりに)SFファンの間で『一般的評価』なのだとしたら、本作を「オールタイムベスト1作品」だなどと持ち上げたきたSFファンは、全然「読めていない」ということになろう。

すでに指摘したとおり、本作は明らかに「プロテスタント信者による神秘主義的SF」であり、言うなれば「キリスト教SF」であることは否定しようもない事実だ。「生態学SF」という「要素」はあるにしろ、本作は決して「設定オタク」的な作品などではないのである。

なのにどうして、この程度のことがわからないのかと言えば、それはSFファンが「宗教」というものを安易に見下しており、忌避しているからに他ならない。
つまり、自分たちの誇る傑作SF作品が「宗教小説」だなどとは認めたくないから、『生態学SFの傑作』などと、いかにも「科学的精神に裏づけらたれた作品」であるかのように、殊更に強調したがったのであろう。

だが、こんな態度こそが、非科学的な「SF教」信者のものだという他ない。
SF作家やSFファンが、「宗教」という「人間的欲望」を「俯瞰」することのできる「客観的知性」を身につけている、などという自己認識は、愚かな過信でしかないのである。

いうまでもなく「宗教信仰を持っている科学者」など大勢いて、当然のことながら「宗教信仰を持つSF作家」も大勢いる。
それを、「日本基準」の宗教観で、SFは「科学精神の文学」だとか「理性の文学」だなどと一面的に主張するのは、現実を客観視することのできない「盲信者」の戯言でしかない。

したがって、フランク・ハーバートの『デューン』の世界が、アーシュラ・K・ル・グィンハル・クレメントが生み出す(※ 水鏡子が言うところの)『高所から俯瞰され、モデル化できる機械的力学的世界観とは異なって、地べたを這いずる生物目線の、非合理非科学すらも併せ飲む、生々しさをはらんだ世界』なのは、ハーバートにとっては「人間とは、この世界を俯瞰的に見渡せるような(超越的な)存在ではない」という認識があるからで、おのずとそういう作品になっている、ということに他ならない。

この世界を「俯瞰的見渡せる存在」とは、いうまでもなく「わが神」以外にはあり得ない。
言い換えれば、その「神の視点」からすれば、私たち人間は『地べたを這いずる生物』でしかなく、その低き『目線』を越えることは、原理的に不可能だというのが、敬虔な彼(※ フランク・ハーバート)の考え方だったのであろう。

そんなわけで、本書をして『生態学SFの傑作』だなどと評するような読者は、文学を一面的にしか見ることのできない「偏頗な視点」の持ち主だと言ってもいいだろう。

私自身は「無神論者」だけれども、だからと言って、自分が好きな作家まで「(本質的には)無神論者に決まっている」というような「願望充足的な(宗教的な)読み」をしようとは思わない。
いうまでもないことだが、宗教的であろうとなかろうと、優れた文学作品は優れた文学作品なのであって、それは「宗教」を超える得るものなのだ。

だから、ケチな「縄張り意識」から、作品理解を歪めて読むような「習慣」は、ここで改めるべきだろうし、長らく「オールタイム・ベスト1」に輝く「SF小説」が、じつは「宗教小説」でもあったという事実を、私たちは、あらためて直視すべきなのである。それこそが、真の「科学的精神」だからだ。』

つまり、本作「ヴィルヌーブ版『デューン』前篇」が、多くの人にとって「退屈」であり「眠気さえもよおす」のは、本作が「原作に忠実」な、「宗教映画」として「荘厳な映像作品」に仕上がっているからである。

本作の「荘厳さ」は、「信者」にとっては、うち震えるまでに「感動もの」なのであろう。
だが、「無信仰者」にとっては、「荘厳」だというのはわかっても、そういうものを求めているわけではないのだから、その世界に入っていくことはできず「退屈し、眠くなってしまう」。

例えば、ある新興宗教の会合に、信者ではない者が誘われて、参加したとする。
そこで、カリスマ教祖による演説があり、その内容な「人間は、いかに正しく生きなくてはならないか」というような「ご立派な内容」だったとする。
当然、その演説なり講演なりが終わると、「信者」たちは、その教祖に対し熱狂的な感動の拍手を送ることだろう。
だが、「不信心者」のあなたは、たぶん、演説の途中から、その「ご立派な内容」にこそ、いささかうんざりし、冷めた気持ちしか持てないし、話が長ければ、退屈して眠くもなるだろう。一一これと、同じことなのである。

たとえば、次の曲なんかはどうだろう?

これはグレゴリアン・チャント(グレゴリオ聖歌)と呼ばれるもので『グレゴリオ聖歌とは、ローマ‐カトリック教会の伝統的な典礼のための単旋律の聖歌』である。

私は、この曲なんかは、かなり好きだし、クリスチャンでもないのに、若い頃にはCDを買ったこともある。

だが、これを文章を書くときや就寝時の「BGM」として流したりするのは良いけれど、これに集中して「じっと聞き入っていろ」と言われたら、そこまではつき合いかねる。
この調子で1時間もやられたら、間違いなく途中で寝てしまうだろう。一一それと同じことなのだ。

つまり、本作「ヴィルヌーブ版『デューン』前篇」そのものが、「宗教小説である原作に忠実に作られた映画」であるばかりではなく、この映画自体が「宗教映画」になってしまっている。

だからこそ、この映画の多様な側面(教派的教義)における「信者」たちにとっては、本作が「感動もの」の作品であるというのは、嘘いつわりのないところなのだろうけれど、「信仰」を同じくしない者には「ふ〜ん。だけど…、それほどのものなのかね?」となってしまうのだ。

(主人公ポールは、砂漠の民フレメンのカリスマ指導者になる)
(「エッセネ派」の遺跡。エッセネ派とは、神殿祭儀を中心とした当時のユダヤ教から離反し、砂漠の中で生活しながら宗教的清浄さを徹底した人々。ちなみに、イエスその人は、ユダヤ教徒である)

本作が、「哲学的」だとか「難解」だとか言われるのも、結局のところ「原作が宗教小説だから」であり、「超能力を持つメシア(救世主)の、降臨と救済の物語」だと、頭では理解できたとしても、その「ありがたさ」は、「信者」でないかぎりは、本質的には「理解できるものではない」のだから、そうでない者は、わかりたくても「わからなくて当然」なのだ。

つまり、「難解」だというのは、「哲学的」だということでもなければ、「深い」ということでもない。単に「論理的には理解できないもの」である、だけなのである。

例えば、三位一体の神」なんかも、そうだ。
父(天の神)と子(イエス・キリスト)と聖霊(神の息)」という「3つの現れ方をしても、これらは3つではなく1つなのだ。なぜなら、神はひとつであるからだ」などという「理屈」は、まともな「理性」では「理解し得ない」ものである。

旧約聖書ユダヤ教キリスト教の共通の聖典)に「神は一人であり、他に偶像を立ててはならない(偶像崇拝の禁止)」と書いてあるから、新約聖書に登場する「イエス」や「聖霊」を、「神」とするわけにはいかない。
なぜなら、それは「偶像を立てる」ことになるからなのだが、しかし、キリスト教というのは「イエスはキリスト(救世主)であり、我らが主(神)である」という信仰なのだから、イエスは「神」でなくてはならない。

この「矛盾」をどうするかとなった時に、ひねり出された「こじつけの屁理屈」こそが、「三位一体」説なのである。

したがって、「非信仰者」には、そんな「非論理的なもの」など、とうてい信じられないし、理解不能なのだけれど、しかし「信者」にとっては、その「非論理性」こそが「(超越的存在である)神の証」であり、それゆえに「ありがたい」、と感じられる。

本作「ヴィルヌーブ版『デューン』前篇」の「ありがたさ」とは、そうした意味で、各種「信者のみ」に感じられるような「ありがたみ」なのだ。

だから、本作の「良さ=ありがたみ」のわからなかった、あなたが「悪い」というわけではない。ただ、あなたが、「信仰」を同じくしない「異教徒」だった、というだけの話なのである。


(2023年5月29日)

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