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ケン・リュウ 『宇宙の春』 : 日本版〈トロール〉たる ネトウヨよ、 ここに集え!

書評:ケン・リュウ『宇宙の春』(早川書房)

『本の雑誌』2021年5月号誌上で、大森望が、次のような理由で、本書を強く推していた。

『(※ 本書所収の短編)「歴史を終わらせた男一一ドキュメンタリー」は、日本人なら避けて通れない歴史SF/時間SFの大傑作。過去(一度だけ、人間の被験者によって)観測できる技術が開発された結果、〝葬りたい過去〟を観測されないために各国が醜い争いをくりひろげるアイデアも面白いが(行き先の時代の主権はどこの国に属するか論争になる)、731部隊および歴史認識をめぐる生々しい議論と、その先の皮肉な展開が強烈なインパクトを持つ。妻は日系の実験物理学者、夫は中国系の歴史学者(専門は平安時代の日本)という米国人夫婦を中心に据えることで、物語がさらに重層化されている。』

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このレビューを目にしていなかったら、私は本書を購入しなかっただろう。
評判の良いSF作家ケン・リュウの翻訳書はぜんぶ買っていたが、小説というのは、今すぐに読まなければならないというものでもないので、ついつい後回しにしてしまい、未読本の山に埋もれさせてしまうことになる。本書も、刊行時に書店で見かけていたのだが、タイトルのインパクトの弱さもあって「どうせすぐには読まないんだから、古本に落ちてからでいいか」などと思って放置していたのだ。
だが、大森のレビューを読んで「これは、私の守備範囲内だ。すぐに読もう」と即座に購入したのである。

「私の守備範囲」というのは、私は「ネトウヨ」に関する実践的専門家だという意味であり、ネトウヨが絡むような「歴史修正主義」的な問題は、「731部隊」問題に限らず、すべて私の守備範囲だ、という意味である。
本書所収の短編「思いと祈り」で語られる「トロール=荒らし」の問題とは、日本では、ほとんどそのまま「ネトウヨ」の問題と考えていい。
私は、彼らと20年来やり合ってきた。その間には『ホロコーストを否定する内容の記事を掲載したことに対して、アメリカのユダヤ人団体サイモン・ウィーゼンタール・センターなどからの抗議を受けて』廃刊になったことで有名な雑誌『マルコポーロ』に関わる「マルコポーロ事件」の主役、前記原稿の執筆者・西岡昌紀が、ミクシイ上で「南京大虐殺・幻論」を蒸し返しているのを見つけて、直接「あなたのとって虐殺とは、何人からですか?」と執拗に絡んでやったこともある。無論、彼はそれに答えずに逃げた。(WIKIpedia「マルコポーロ事件」参照)

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(※  拙レビュー「「原爆の父」という、贖罪の〈荊冠〉」の末尾に、付録として西岡昌紀を紹介している。乞参照)

最初に私の(今も使っている)電子掲示板が荒らされた2000年代初頭当時は、投稿を掲示板管理者(契約利用者)が削除するとか、事前チェックして掲載の可否を判断するといった機能が備わってはいなかった。そのため、悪意ある投稿がそのまま即時反映されてしまい、それに対しては、無視するか迎撃反論するかしかなかった。
もちろん、私は迎撃を選んだ。自慢ではないが、荒らしに遭う前から、いろんな議論での「論争」が趣味であったような私は、誰が来ようと論争に負けるとは思っていなかったし、事実、負けはしなかった。
しかし「荒らし」たちは、自分が議論で勝てないとわかれば、「2ちゃんねる」で仲間を募って、その掲示板を多勢の力において集中攻撃するという卑怯な手段を、躊躇することなく採った。所謂「ネット蝗」と呼ばれた所以で、彼らには「卑怯」とか「恥知らず」という概念がなかったのである。

それでも、私は相手が何人来ようと迎撃を繰り返した。さすがにコメントの一つ一つに反撃コメントを加えるということは物理的にできなくなったが、十把一絡げにして反撃するというふうにしたのである。
しかし彼らは、いくら攻撃しても私がギブアップをしなかったので、私の掲示板に書き込みに来ていた他の人たちの掲示板を、荒らしの標的にし始め「ここが荒らされるのは、お前があいつの仲間だからだ」というプレッシャーをかけてきた。そして、そうした嫌がらせに耐えきれず、掲示板を畳んでしまった人も何人か出始め(そうした人たちから、私が責められることもあった。「あなたが、あんな人たちを相手にするから」と)、もはや私一人の意地と能力の問題では済まなくなってしまったため、私は止むを得ず、一時的ではあれ、沈黙せざるを得なくなってしまった。
当時の私は、彼ら「荒らし」たちを「卑怯者」「恥を知れ」と批判したけれど、まさかそこまで卑怯なことをするとは想像できなかったのだ。私は彼らによって、「匿名であれば、どこまでも卑怯になれる人間が、少なからずいる」という事実を、体験的に学んだのである。

しかし、その後、こうした「荒らし」行為が社会的に問題となり、電子掲示板にも投稿削除機能や掲載前チェック機能が付いた。また、その後に流行ったブログは、掲示板とは違って、コメント欄が別立てとなり、コメント欄を非表示にしたり、使わないことも可能となって、野放し状態の好き放題が許されていた「荒らし」に対して、一定の対応が可能になった。しかしまた、レスポンスの少ない一方通行の発信は寂しいものだから、どうしても公開のコメント欄を設けていれば、「荒らし」が「祭り」「炎上」というかたちで、長らく繰り返されてきた。
私は、自分の掲示板に「投稿の事前チェック」機能が付くまでは、好意的な投稿者に「身元をわかるような書き込みはしないように」と注意を呼びかけていたのだが、さすがの「荒らし」も、自分の投稿が掲載されないとわかれば、無駄な投稿はしなくなったのである。

一方、それだけでは収まらない私は、あちこちで「荒らし」やその主たる構成要素である「ネトウヨ」に対し、積極的に攻撃を仕掛けるようになった。
友人のブログが荒らされた時には、出張って行って、私が前面に立って、ちぎっては投げ、ちぎっては投げという派手な喧嘩を演じたあげく、のちに「目立った炎上事例」として、東浩紀によって(からかい半分に)紹介されたりもした。
また、そうした派手な喧嘩のせいで「ミクシイ(mixi)」や「twitter」は、二度にわたってアカウントが凍結されて、今も使用不能である。
私は、そうしたあらゆる場所で、私の視野に入ってきた「ネトウヨ」に噛みついていき、相手が何人になろうが、何ヶ月続こうが、徹底的に攻撃し続けた。すると、相手もさすがに「こいつは相手にしてもキリのないキチガイだ」と気づいて、「管理者通報」で逃げるようになったのである。

そして、本書所収の「思いと祈り」に『時が経つにつれ、ほとんどの企業はひとつの解決策に集中していきました。話者の行動を判断することに焦点を当てるのではなく、聞き手が自身を遮蔽することにリソースを割いたのです。』(P76)とあるとおり、SNSの運営会社(管理者)は「投稿内容の個別的適否判断」は不可能であるから「揉める奴は放り出す」ということにしたのである。言い換えれば、「ネトウヨ」の方が「被害者」として管理者に泣きつきだし、だんだん「数で圧する」よりも、その方が「楽に敵を排除できる」ということに気づき始めたのだ(だから、いまどきのネトウヨは、打たれ弱い)。

つまり、彼ら「トロール=荒らし」も、所詮は人間であり、しかも「匿名でしか物の言えないヘタレ」であって、決して『毛むくじゃらの巨人』(=怪物)ではなく、むしろ、その正体を隠す『変身能力』(=匿名)に頼った「醜い矮人」にすぎなかった。(WIKIpedia「トロール」)

だから、短編「思いと祈り」に描かれた「トロール」像も、現実の一面でしかない。
現在の彼らは、やり過ぎれば「法的措置(プロバイダへの情報開示請求)」によって「身元」を暴かれ、告訴され、仕事を失い、社会的に葬られかねないということも知っている。
彼らは「仮面」を剥がされた途端、いきなりその情けない本性を晒すというのは、例えば、最近のものでは、「愛知県知事リコール問題」で「署名の大量偽造」が発覚した途端、それまでリコール運動のリーダーぶっていた、高須クリニックの高須克弥や、名古屋市長の河村たかしが「私は関係ない」とさっさと逃げ出して、うんともすんとも言わなくなってしまったという事例にも明からだろう。
そして、こうした政治的「右派」の運動に加担した巷の「ネトウヨ」などは、使い捨てで利用されるだけの「頭の足りないトロール」にすぎないし、彼らのやりたい放題は、もはや過去のものになりつつあるのだ。

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(『Hanada』誌の編集業 花田紀凱は、事件の際の『マルコポーロ』誌の編集長であった)

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どうして、こんな話を長々と書いたのかと言えば、私の前に投じられた、本書についての「3個の評価」は、五つ星が2人、四つ星が1人という高評価ながら、現時点では、一つもレビューが投稿されていないからである。
端的に言って、この御三方は、著者であるケン・リュウの立場に賛同し、その勇気を支持しながらも、自身の「政治的立場」を公に語りたくなかったのであろう。
また、同様の理由で、人気作家ケン・リュウの新刊としては、この「評価数」自体、少ないのではないだろうか。

本書を読めば、よけいに「トロール」が恐ろしくなって、こうした話題からは身を遠ざけておきたくなるという気持ちはわかるし、その意味で、私は、そうした読者たちを責めようとは思わない。所詮、ケンカのできる者は、ごく少数に限られるのだ。
だが、だからこそ、ケン・リュウは讃えられるべきだし、大森望も同様に讃えられるべきだ。いまどき、多くの日本人が忘れ去っているであろう「731部隊」の問題を扱った作品を取り上げ『日本人なら避けて通れない歴史SF/時間SFの大傑作。』だなどと評することは、誰にでもできることではないのである。

短編「歴史を終わらせた男一一ドキュメンタリー」には、「731部隊」の問題を明るみに出した先駆的著作として、森村誠一の『悪魔の飽食』が紹介されている。
私はこの本を、昔、初版の「カッパノベルス」版で揃えたことがあるが、その時は、それで満足してしまい、いまだに読んでいない。また、そのずっと後に刊行された話題作、青木冨貴子の『731   石井四郎と細菌戦部隊の闇を暴く』なども購入したが、これもまだ読んでいない。だが、こうした問題についての関心は、30年来続いていて、同短編でも下敷きにされている「撫順の奇蹟を受け継ぐ会」のメンバーが登場する映画『日本鬼子 リーベンクイズ』などで、自身の中国戦線における「民間人虐殺行為」を語る元日本兵の老人の、複雑な表情にも触れている。
この短編で語られていることは、多かれ少なかれ、すべて現実にあったこと(ドキュメンタリー)だと、私は体験的に知っているのだ。

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だから、私がしたいのは、こうした「日本の恥ずべき歴史」を風化させないことなのだ。
だからこそ、私はこのレビューのタイトルを「日本版〈トロール〉たるネトウヨよ、ここに集え!」とした。
これは、矛盾した行為などではない。

歴史問題を扱った書籍の多くに、「ネトウヨ」たちが、星1つの否定的レビューを、読みもせずに投じ、それに同類たちが山ほど「役に立った」を投じて、その評判を落とそうと画策する。
そういうことを専門にしているアカウントはいくつもあって、けっこうレビュアーランキングの上位に食い込んでいるのだが、彼らの特徴は、特徴のあるハンドルネームを使わず、自分のホームページではレビューを非公開にしている点だ。
なぜ特徴的なハンドルネームを使わないのかと言えば「こいつ、いつもこんなレビューばかり投稿しているやつだな」と気づかれ「ネトウヨ」だとバレないためだ(中立的評価者を演じるため)。自分のホームページでレビューを公開しないのも、同じ理由からである。

しかし、こんな「ブルシット・レビュー」であっても、話題にならないよりはいい。
彼らが大騒ぎをしてくれれば、逆に本書が目立つし、話題にもなる。だから、どうぞ、いくらでも悪口を書きに来いよ、ということなのである。
本書が、そうしたことで話題になり、おとなしい良識的なSFファンだけではなく、本来ならSFなど読まない読者の手にも、本書が取られることになれば、それは、日本にとっても、SFとっても、版元にとっても、ケン・リュウにとっても喜ばしいことだろう。

本書所収短編「歴史を終わらせた男一一ドキュメンタリー」は、「日本軍の闇である、731部隊」と、それを取り巻く「政治的保守やネトウヨ」による「歴史の改竄隠蔽」問題をも扱った作品である。だからこそ「日本版〈トロール〉たるネトウヨよ、ここに集え!」。
そればかりではなく、版元に対し、お得意の電凸をかけろ。そして、本書を絶版に追い込んでみせろ。

しかし、そうした「騒ぎ」によって、何度でも「歴史の闇」に対して光が投じられ、歴史は生き続ける。正義は、一時的に敗れても、何度でも息を吹き返すのである。
そして森村誠一の『悪魔の飽食』と同様に、本書は、歴史にその名を止めることになるのだ。

『彼は間違っていました。真実は繊細なものではなく、否定によって傷つきはしないのです一一真実は、真の物語が語られぬときにだけ死ぬのです。』(P296)

すでに森村誠一は、本書を読んでいることだろう。
あなたの「勇気ある、光の子供たち」は、確実に育っている。

『なぜこうしたことが起こったのか?……という歴史的・社会的大問題が重みを、衝撃を、恐ろしさをまったく失わないことがわれわれにとっては有益なのだ。』
 (ゲルショム・ショーレム「アイヒマンの処刑に反対して」)

初出:2021年4月17日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年4月26日「アレクセイの花園」
  (2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)

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