見出し画像

岡本有佳、 アライヒロユキ 編著 『あいちトリエンナーレ 「展示中止」事件 表現の不自由と日本』 : 〈不愉快〉という思考停止

書評:岡本有佳、アライヒロユキ 編著『あいちトリエンナーレ「展示中止」事件 表現の不自由と日本』(岩波書店)

愛知県主催の芸術イベントである「あいちトリエンナーレ2019」の中の、企画展の一つとして行われた「表現の不自由展・その後」が、俗に言う「慰安婦像」作品(作品名「平和の少女像」)や「天皇の写真を燃やされる」映像作品が展示されたことから、同トリエンナーレ実行委員会副会長でもある河村たかし名古屋市長や、安倍内閣を代表する菅官房長官らの政治的な批判コメントや、ネット右翼などによる電凸によって、開催三日後に中止(となり、終盤で展示が再開)されたというニュースは、広く知られたところである。

画像1

本書では、その事件の内幕紹介に多くが割かれており、上記のような「政治的な抑圧者」たちの問題もさることながら、作品の展示を守り、作家を守るべき、主催者である実行委員会会長の大村秀章愛知県知事や、トリアンナーレの実質的プロデューサーと呼んでよい津田大介芸術監督の、「腰砕けぶり」が厳しく処断される内容となっていた。
テレビニュースを視ていただけでは、大村知事は「不当な政治的攻撃に堪えて、展示を再開した人」だとか、津田芸術監督は「攻撃の矢面に立って苦労した人」という印象を受けた人も少なくなかっただろうが、やはり「内側から見る」と、そうした「外づらの良さ」では済まされない多くの問題を、彼ら自身が抱えており、言わば「獅子身中の虫」的な存在とも見られていた事実が明らかにされている。

画像3

しかしながら、当レビューでは、そのあたりの話ではなく、「反日的あるいは政治的な作品だから、公的な展示には適していない」といった検閲的批判をくりひろげた保守政治家たちや、同趣旨でイヤガラセをくりひろげた一般人たち(および、その意見を「もっともだ」と思った人たち)の「そもそもの勘違い」について、再確認しておきたい。

まず、本書でも何度か指摘されているとおり「芸術というのは、楽しい、美しいものばかりではない(つまり、芸術作品は娯楽・商品ではない)」という、初歩的な理解の「一般的な欠如」の問題である。

画像2

「芸術」というものに、まともに接してきた人間ならば、これはもう「初歩の初歩」にすぎない話なのだが、しかし、多くの人は、実際のところ「芸術」作品に、ほとんど接していない。だからこそ、「芸術」が何たるかを知らないのだ。
もちろん、こう書くと、いくらかの人は「私だって、美術館に行ったこともあれば、テレビの美術番組を楽しんでいる」と言うかもしれないが、美術館へ行ったりテレビの美術番組を見るだけなら「猿でも出来る」のだ。つまり、何にも考えてなくても「見る(網膜に映す)」だけ「知っている(中味や意味ではなく、存在を知っているだけ)」なら「犬猫」にも可能なのである。

「芸術」作品を「芸術」として鑑賞するとは、鑑賞する側(鑑賞者)に、それ相応の「知的な構え=鑑賞態度」が無ければ、その作品が「芸術性」を秘めていても、その鑑賞者の目には、その「芸術性」は金輪際、開示されはしないのだ。
言い変えれば(これも「芸術」鑑賞者には「常識に類する話」だが)「芸術とは、作品と鑑賞者の接触面において、初めて成立する相互行為」であって、例えば、鑑賞者が「猿や犬猫のたぐい」であれば、そこには「芸術」性は存在しないのである。

このように、「芸術」というものは、「知的な応答」において初めて成立するものであって、「雛鳥が大口を開けて闇雲にピーピー鳴いていれば、親鳥がその口に餌を入れてくれる」という類いの行為ではない。
したがって、作家から提示された作品(=問題提起)に対し、鑑賞者の側では、そこに「自分の力で、意味を見いだしにいく知的構え」が是非とも必要なのであり、こうした相互関係が成立して初めて、「芸術鑑賞」という行為は成立するし、そこに初めて「芸術鑑賞者」が発生するのである。

だから、テレビニュースでお馴染みの「少女像」を見て、「慰安婦像だ!」「反日プロパガンダだ!」などと、脊髄反射的に思い込んでしまうような「ショートサーキット脳」しか持たないような人たちは、「芸術」とは縁も所縁もない、「猿や犬猫のたぐい」に類する人間でしかない。彼らにとっての「芸術」は、文字どおり「豚に真珠」「猫に小判」であり、そもそも意味をなさないのであるし、彼ら自身は、意味をなしていないことをも理解しえないのである。

画像4

例えば、本書のレビュアーの一人は『偏向的な印象がどうしても残り、読書が楽しくなかったです。』と書いているが、この人は「根拠不明な印象」を「根拠」にしたつもりで、自身の「楽しくなかった」という主観を正当化しているのだが、そもそも、そこには「自分の方が、偏向しているのかもしれない(だから、相手が偏向して見え、不愉快に感じられるのかもしれない)」という「客観的自己懐疑(知性)」を、完全に欠いている。

言うまでもないことだが、「芸術」であれ「文学」であれ「批評」であれ「哲学」であれ「ルポルタージュ」であれ、それらが「切りとってみせるもの(提示する視角)」というのは、「すべての人にとって愉快なもの」であろうはずもないし、多くの作品は「愉快なもの」を目指してさえいない。つまり「あえて不愉快なもの」を提示している場合も少なくないのだが、これも、言わば「(人間社会の)常識」の類いである。

画像6

しかし、こんな「中学生レベルの常識」すらない持たない人が、「(私にとって)不愉快だ」から「(私にとって)面白くない」から、それは「(すべての人にとっても)不愉快だ」ろうし「(すべての人にとっても)面白くない」はずだ、だから「そんな作品は、ゴミだ」と、そう思い込んで、それを公然と語って恥ずかしいとも思わない(思う知力もない)というのが、残念ながら、今の日本の「知的レベル」なのである。

私のこうした指摘を読んで「まったく、そのとおりだ。よくぞ、ハッキリ言ってくれた」という読者にとっては、このレビューは、ある意味で、常識的な「批評」でしかないだろう。
しかし、このレビューを「不愉快」に感じたり、腹を立てたりした人にとってこそ、むしろこのレビューは「批評」として貢献できる契機を多く含んでいるのである。つまり、もしもその人に、すこしでも知性があり「この批評に理路整然と反論したい」というくらいの知的意欲があれば、その読者には、そこから自分を磨き高めていく可能性も残されているからだ。

しかし、そういう可能性を失った「ショートサーキット脳」しか持たないような人たちが、お手軽に電凸などを行ない、テンプレな「苦情」を言い立てたりするのだろう。そこには「虫ほどの知能」も必要はない。
当然、彼らには「作家による呼びかけ(問題提起)」に対する「人間的な知的応答」など、望むべくもないのである。

画像5

初出:2020年1月27日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

 ○ ○ ○











 ○ ○ ○




 ○ ○ ○











 ○ ○ ○















この記事が参加している募集

読書感想文