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パク・チャヌク監督 『別れる決心』 : 自我崩壊の快楽

映画評:パク・チャヌク監督『別れる決心』

予告編にもあるとおりで、しごく大雑把に言うと「サスペンス・ロマンス」ということになるのかも知れない。

かねてより何度も、小説であれ映画であれ「恋愛もの」(とコメディ)には興味がないと公言してきた私が、なぜ、今ごろ「サスペンス・ロマンス」などを観たのか? この心境の変化は、何が原因なのか?

実はですね、恋をしちゃったからです。

一一というのは、自分で言ってても馬鹿馬鹿しい冗談である。
馬鹿馬鹿しすぎて、自分では笑えるので、読む人の迷惑を顧みずに書いたのだ。まあ、思いついたダジャレを自制できないのと同じことである。

事ほど左様に、人間というものは「欲望」に弱いし、それに流されるのは「快楽」以外の何ものでもないのだが、後先を考えずに「快楽」に流されて溺れると、場合によっては、身を滅ぼすことにもなる。まさに〝溺死〟だ。

本作『別れる決心』も、そんな映画だと思えば、大筋で間違ってはいないはずだ。

で、私が、なんでこの映画に興味を持ったのかと言えば、本作のポスターや予告編映像を見てもらえばお分かりいただけるだろうように、登場人物たちが、何かに「憑かれた」ような顔をしていたからである。

「憑かれる」とは、どういうことか。それは、自分で自分のコントロールが利かない状態になる、ということだ。

「物の怪」に憑かれる場合もあれば、「狂気」に憑かれる場合もある。この「狂気」のなかには、「精神病」は無論、「ギャンブル」や「薬物」への依存もそうだし、必要以上に「権力」や「地位や名誉」なんてものを求めてしまう(社会的承認)もそうで、さらに言えば、一一「恋愛」もそう。
これらに共通するのは、しばしば、自分で自分のコントロールが利かなくなる、ということなのである。

ここまで書けば、私の文章をたくさん読んでくれている人なら、もしかすると、私がなぜこの映画に興味を持ったのかが、わかるかも知れない。
ヒントは、私が徹底した「宗教批判者」だということ。

お分りいただけただろうか?

たぶん、そこまで私の文章を読み込んでくれている人はいないと思うので、あっさりと説明してしまえば、私は「自分で自分のコントロールが利かない状態」、言い換えれば「理性のコントロールが利かない状態」が、ものすごく嫌いなのだ。何かに「憑かれたようになる」のが、嫌なのである。

それは「人目を気にしなくなる」ことが多いので、客観的に見て「醜態を晒す」蓋然性が高い。だとすれば、単純に「恥ずかしい」ではないか。一一私は、自覚なく「バカ丸出し」になるのは、どうしても嫌なのである。

もちろん、私も人間だから、「快楽」を求めて生きているのだけれども、しかし、それを求めるとしても、あくまでも、こちらが主導権を握れる場合に限られる。
対象が何であれ、相手方に主導権を握られてしまい、いいように振り回されるというのは、それが「強烈な快楽」を伴うものであっても、私のプライドが許さない。自分が自分でコントロールできないというのは、恥ずかしいし、負けたような気がして悔しい。

「快楽」というのは、あくまでもこちらのペースで「取りに行く」ものであって、それに「捕らえられてしまう」ものであってはならない。
多くの人は「それでもいい」と思っているのだろうが、私は、それを自分に許す気にはなれない。

一一だからこそ私は、「宗教」に批判的であるだけではなく、「ギャンブル」や「薬物」や「権力」や「地位や名誉(社会的承認)」や「恋愛」などにも、可能なかぎり近寄らない。
いくら私が意志堅固だと言っても、動物である以上、「本能」的に「快楽」を求め、それに囚われてしまえば、恥ずかしいことになってしまうからだ。

やりたい放題しているように見えても、私が致命的な傷を負うことなく無難にやってこれたのは、その所以である。

もちろん、「憑かれた(快楽)状態」が、死ぬまで続くという保証があるのなら、私も迷わず、それを取りに行くのだが、そうしたものは、多くの場合、誰もが欲するものだから、そう簡単には手に入れられないし、手に入れた途端「醒めてしまう」なんてこともある。

また、こちらは醒めていないのに、対象の方から去って行ったり、失われたりする場合も多々あるから、そうなった場合、その落差による「苦痛」は、並大抵のものではない。
だからこそ、「快楽を喚起してくれる対象」を失った時に、人は「禁断症状」にみまわれ、「憑かれた状態=快楽」を取り戻そうとするのだが、それが簡単に取り戻せて一件落着めでたしめでたしになるようなことなら、誰も苦労はしないし、苦しみ抜くこともないのである。

そんなわけだから、私は「君子危うきに近寄らず」で、「ギャンブル」や「薬物」や「権力」や「地位や名誉(社会的承認)」だけではなく、「恋愛」でさえも、可能なかぎり「敬して遠ざける」ことにしている。
もちろん、恋しちゃったら「仕方がない」のだけれど、わざわざ自分から、そんな「罠」にハマりに行こうとは思わない。

無論、こうした私の「慎重居士」的な態度を、「意気地なし」だと批判する人もいるだろう。「そんな生き方は、人間として偏頗だ」と言う人もいるだろう。確かにそうかもしれない。

だが、私は「自分で自分をコントロールしたい」のだ。いくら「快楽」が得られようとも、凡庸にも、「欲望」に翻弄されるがままの、「あなた任せ」の状態にはなりたくない。
「欲望」を満たすための行動は、あくまでも、こちらに「主導権」がある状態において、その範囲内で、最大の「快楽」を得られれば良いと、そう思っている。
つまり、ある意味では、「脱俗」の境地を目指しているとも言えるだろう。

で、そんな私から言わせれば、世間の「当たり前な人」たちは、単に「本能に流されて生きているだけ」でしかない。
「ギャンブル」や「薬物」や「権力」や「地位や名誉(社会的承認)」や「恋愛」などなどが与えてくれる「快楽」とは、結局のところ、「種の保存」のために進化発達した、「本能」によるものでしかない。
それらを得られれば「遺伝子を残す蓋然性が高まる」から、それらを求めるように、本能が形成されていった。それらを得られれば、その報酬として「脳内快楽物質」が自動的にドバドバ出るように作られたのが、今の人類なのである。

だが、私は、そんな「本能」による専制にも気づかないまま、唯々諾々と「本能」に流されることを、良しとしない。
私は、生まれた段階で、自動的にセットされている、誰もが持つような「盲目的な本能」の意のままにはなりたくない。「私は私なのだ」という強固なプライドがあるから、「本能」までも、自身のコントロール下に置かないことには、気が済まないのである。

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さて、やっとここで本作『別れる決心』なのだが、察しの良い人なら、私が本作をどう論じるかは、もううすうす察しがついたのではないだろうか。
だがまあ、本稿はいちおう、映画のレビューという体裁を採っているので、映画についても書いておこう。

『「オールド・ボーイ」「お嬢さん」のパク・チャヌク監督が、殺人事件を追う刑事とその容疑者である被害者の妻が対峙しながらもひかれあう姿を描いたサスペンスドラマ。

男性が山頂から転落死する事件が発生。事故ではなく殺人の可能性が高いと考える刑事ヘジュンは、被害者の妻であるミステリアスな女性ソレを疑うが、彼女にはアリバイがあった。取り調べを進めるうちに、いつしかヘジュンはソレにひかれ、ソレもまたヘジュンに特別な感情を抱くように。やがて捜査の糸口が見つかり、事件は解決したかに見えたが……。

「殺人の追憶」のパク・ヘイルがヘジュン、「ラスト、コーション」のタン・ウェイがソレを演じ、「新感染半島 ファイナル・ステージ」のイ・ジョンヒョン、「コインロッカーの女」のコ・ギョンピョが共演。2022年・第75回カンヌ国際映画祭で監督賞を受賞。』

 (映画.comの「解説」より)

要は、真面目で優秀な刑事が「好きになってはいけない女性(容疑者)」を好きになってしまい、その「苦悩と快楽」が綯い交ぜとなった「葛藤」を描いた作品だと言えるだろう。

女の方も刑事に惹かれるのだけれど、視点はあくまでも刑事の方にある。
もちろん、彼が容疑者である女に惹かれるのは、単に女が「美人」だからではなく、「謎めいた存在」だからだ。

彼女の旦那が死んだのは、事故なのか、それとも彼女による謀殺なのか、一一それがはっきりしない。
だからこそ、真面目で有能な刑事は、その「謎」に強く惹きつけられるわけだが、その「謎」の中心とは「動機」であり、要は、女の「心」だ。
彼女が何を考えていたのか、考えているのかを、それを解明しないことには、事件の「謎」も解けない。

しかし、事件の謎を解くために、彼女の「心」に踏み込んでいった刑事は、彼女の心に影響を与えると同時に、自分自身も彼女の心に影響を受けてしまう。

刑事は、決して「客観的な不動の視点」ではあり得ず、観察対象である女の視線によって、影響を受け、動かされてしまう。これは、「量子力学における観測問題」と、似たような話だと言えるかもしれない。

観測問題(かんそくもんだい、英: measurement problem)とは、量子力学においてどのように波動関数の収縮が起きるのか(または起きないか)という問題である。あるいは観測(観察)過程を量子力学の演繹体系のなかに組み入れるという問題と言い換えることもできる。収縮を直接観測することができないため、様々な量子力学の解釈が生まれ、それぞれの解釈が答えねばならない重要な問題を提起している。
量子力学において波動関数(量子状態)はシュレディンガー方程式に従って決定論的に時間発展し、異なる状態の重ね合わせとして表現される。しかし測定を行うと、そのうちの1つの状態にあることが分かる。測定は、量子系に対してシュレディンガー方程式で表されない「何か」をしていることを示唆する。観測問題とは、その「何か」が何であるかを記述することであり、また重ね合わせ状態がどのように単一の測定値になるかを記述することである。
言い換えると、シュレディンガー方程式はその後の任意の時間の波動関数を決定する。もし観測者と測定装置が、それ自身も決定論的な波動関数で記述されるなら、なぜ我々は測定結果を正確に予言できず、確率しか予言できないのか。一般的な問い:量子的現実と古典的現実との対応をどのようにして確立することができるのか。』

(Wikipedia「観測問題」より)

「観測」によって、「観測対象」の状態を変化させ、あるいは、観測によってこそ「観測対象」のあり方を決定してしまう、というジレンマ。

私たちは多くの場合、「観察」することで、「対象」のあり方を、ありのままに把握特定できると思っている。しかし、本当にそうなのだろうか?

実のところ、「観測(観察)」とは、「観測者」と「観測対象」との相互行為であり、相手のあり方を決定しようとすれば、そのことによって、実はこちらも、変えられているのではないだろうか。

女を「犯人だ」と考えた時に、そう考えた自分は、そう考えるような自分に変えられている。「犯人ではない」と考えた時には、そう考えた自分は、そう考える、また別の自分に変えられている。

つまり、他者と関わることは、自分も変わるということであり、当然のことながら、そこには常に「危険」がつきまとうのだが、それでも人が、そこへと手を伸ばすのは、そこに「快楽」があるからに他ならない。
刑事であれ、科学者であれ、「真相を解明する(対象を把握する)」という「快楽」が、そこにあるから、それに捉われるのである。

しかし、その結果、求めて得た「快楽」以上の不幸に見舞われるというのも、決して珍しいことではない。「上がれば、下がる(落ちる)」のが当然なのだから、「上がったままでいられる」と思うのは、ほぼ間違いなく、「欲望」に憑れているが故の「幻想=希望的観測」に過ぎない。

そして、本作もまた、そうした物語になっている。つまり、互いに惹かれあった刑事と容疑者の女を最後に待っているのは、悲痛な別れである。

一一思うに、パク・チャヌク監督が本当に描きたかったものとは、「恋愛」ではなく、「破滅的な欲望に溺れたあとの、失墜の快楽」なのではないか。
明るい日常の中には存在しない、地の底へと落ちておくような暗い快楽。非日常的なそれだったのではないかと、私には、そう感じられた。

これはこれで、わかるからこそ怖いし、同時に、わかるからこそ、私は本作に、興味を惹かれもしたのであろう。


(2023年3月13日)

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