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コン・ダーシャン監督 『宇宙探索編集部』 : 失われたものを求めて

映画評:コン・ダーシャン監督『宇宙探索編集部』(2021年・中国映画)

非常に不思議な味わいを持つ作品だ。

「フェイクドキュメンタリー」の手法で取られている本作は、30年前には多くの読者を持っていたものの現在は廃刊寸前のUFO雑誌『宇宙探索』編集長タン・ジージュン(ヤン・ハオユー)とその個性的な仲間たちが、UFOと宇宙人を求めて西へとむかう、ロードムービーである。

この物語は、30年前の1990年、『宇宙探索』の若手編集員として、テレビインタビューを受ける若きタンの、テレビ映像から始まる。
タンは、今も編集部がおかれている建物の前でインタビューを受けながら、青年らしく生き生きと「この広い宇宙には、きっと人類の他にも知的生命体がいるはずだし、彼らの存在を知るようになれば、私たちの地球は、もっと平和で幸せな世界になるはずだ」というような夢を語る。
そこから一転して、現在の『宇宙探索』編集部に切り替わると、そこに立っているのは、寝癖ついた頭と無精髭を生やした、人生に疲れ切ったような顔をしたタンの姿であった。

30年前、つまり1990年ごろには「世界一」と称する発行部数を誇った『宇宙探索』誌も、今やすっかり人気を失って廃刊寸前。編集部では電気代の支払いさえ滞って、ヒーターもつけられない有様。
仕方なく映画制作を行う「アポロ社」との提携を模索し、そのスタッフを招いて編集部での話し合いをもつが、『宇宙探索』編集部には、これといって提供できるものが何もない。そこで、古参の女性編集部員であるチン・ツァイロン(アイ・リーヤー)が、編集部秘蔵の「本物の宇宙服」の提供を持ちかけるが、その宇宙服はすでに古いものであったため、「アポロ社」側の映画監督は、その提案に渋い顔を見せる。慌ててチンは「少し直せば、まだまだ大丈夫ですよ」とフォローし、嫌がるタン編集長にその宇宙服を着せたのだが、いざ脱がせる段になるとヘルメットが外れなくなってしまう。
機密性の高いヘルメットの中で、タンは酸欠状態になり、皆は大慌てで、救急車を呼ぶは、消防のレスキュー隊を呼ぶはの大騒ぎになってしまい、アポロ社との提携の話も、そのまま立ち消えになってしまう。

(『宇宙探索』編集部で、記念撮影する。右端が、編集部の実務家チン)

一一こんな具合で、本作は、映像的にはドキュメンタリー風に撮られているけれども、ドラマ的には、フィクションだとハッキリわかるように作られた作品だ。

ともあれ、「編集部」のそんな危機的状況にもかかわらず、編集長のタンは「UFOや宇宙人への夢」を捨てられない。
離婚によって妻と娘を失い、その後、娘はうつ病で自殺するという、孤独の中にいる独身者のタンは、ある日、テレビの故障による「砂嵐」画面に、宇宙からのメッセージが込められているのではないかと考える。何か参考となる情報はないかとネットで調べてみると、オリオン座のベテルギウスに異常が見られるというヨーロッパの天文台の発表を発見して、タンはその確信を深めた。
また、そんな折も折、編集部に「宇宙人の仕業と思われる不思議な現象が起こった。石の獅子像の口の中から、石像を傷つけないかたちで、石の球が消えた」という、中国西部の田舎から手紙を受け取る。
タンは「これはきっとが関係ある」と直感し、編集部員のチンと、気象観測所の職員で外部編集者でもあるナリス(ジャン・チーミン)を連れて西へと向かい、その途中で『宇宙探索』のファンだという女学生シャオシャオ(ション・チェンチェン)も一行に加わることになる。

(テレビの「砂嵐」から情報を取ろうとするタン)

タン一行と言っても、個性はバラバラだ。
タンは前述のとおりで、本気でUFOや宇宙人の存在を信じており、逆に古参編集部員のチンは、そうしたものの存在をまったく信じていない現実主義者で、編集部の仕事は、あくまでも仕事なのである。
一方、外部編集員のナリスは、いつも酒を飲んでいる「その日その時が楽しければいいじゃないか」というお気楽な快楽主義者であり、そんなスタンスでタンとも付き合っている、気のいい男だ。
ファンとして一行に加わったシャオシャオは、自分をまったく主張しない物静かな女性で、黙って一向についていくというスタンスである。

一行が到着した村では、手紙をくれた人物が、獅子像から消えた球の話をした後、じつは自分は、この事件の傍証となるものを秘蔵しているが、それが見たければ金を払ってもらわねばならないと、安くない金額を提示してくる。それを払うか払わないかで、あなたの本気度を確かめたいと言うのだ。
当然、チンはそんなものはインチキであり詐欺に決まっているとタンを止めるのだが、タンはなけなしの金を男に支払ってしまう。
その男がタンたちを自宅に招いて、真顔で見せたのは、横置きの冷凍庫に入れられたシリコン人形そっくりの「宇宙人の遺体」と、今も成長しているという「宇宙人の骨」で、タンはその骨を譲られることになる。

また、一行はこの村で、スン・イートン(ワン・イートン)という、不思議な青年と知り合う。
なぜか彼は、いつも頭に鍋を被っており、一見して知的障害者のような、表情に乏しい目をしている。すでに家族がおらず、生活力のない彼は、生活保護を受けながら、村の有線放送局で働かせてもらい、自作の詩の朗読放送をして生活を立てている。
ある日、そんなスンが、タンにだけこっそりと打ち明ける。正体不明の地球外生命体が「石の玉を取り戻せ」と信号を送ってきている。その玉を彼らに送り届けるための出発の時は、件の獅子像に、スズメが群がる日なのだと。

(左から、スン・イートン、タン、シャオシャオ)

そして、今世紀最長の皆既月食の日、本当に、獅子像にスズメが群がっているのをタンは目のあたりにして、スンに誘われるまま、一行はさらに西を目指すことになる。

(左から、チン、スン、タン、ナリス、シャオシャオ)

そして、この物語のラストでは、旅の途中で姿を消したスンが、一人になっても西へと向かっていたタンの前に、再び姿を表すことになる。
スン青年にひきいられて西を目指した一行だが、途中でチンが野犬に噛まれて治療が必要となったため、タンは、ナリスとシャオシャオにチンに付き添うように依頼して、単身、西への探索行を続行していたのである。

そしてタンは、再開したスンに誘われて入った洞窟の中で、宇宙人を描いたと思しき壁画を見つけるも、自生していたキノコを食して当たり、意識朦朧の状態になってしまう。
そして、そんな中で、スンがスズメの大群に乗って、空の彼方に消え去っていくのを、タンは目撃するのである。
不思議な青年スンこそが、獅子像から玉を取り出した「光る人」の正体であり、スンはその玉を宇宙人に届けるべく、いま宇宙へと旅立ったのだ。
一一しかしながら、はたしてこれは、現実だったのか、キノコにあたったせいでタンの見た、夢だったのか。

その1ヶ月後、廃刊が決まった『宇宙探索』に関する記念集会で挨拶に立ったタンは、憑き物が落ちたように落ち着いた様子を見せ、自分が求めていたものについて語るのであった。
自分は、自殺した娘の「人間はどうして、何のために生きているのか?」という問いに答えてやることができなかったが、今ならそれに答えられるように思う、と。

 ○ ○ ○

さて、あまり好きではない「ストーリー紹介」をしたわけが、これは無論、ある程度それをしないことには、本作を論じることができないからである。

見てのとおり、本作は、当初は「UFOに憑かれた男」についての、ドキュメンタリー風のコメディ作品であり、その珍道中を描いたロードムービーという感じで、笑ったり呆れたりしながら観ることのできる作品となっていた。

だが、そんな中でも、タンの追いつめられてでもいるかの如き「真面目な本気さ」というのは、そうした「愉快さ」には収まりきらない、不穏なまでの「過剰さ」を醸し出しており、その結果、終盤の神秘的かつ哲学的な展開に、説得力を持たせることになっている。

したがって本作は、決して、「夢を捨てるな」とかいった通り一遍のことを描いているのでもなければ、「ドン・キホーテ」に擬された主人公を、笑って見ていればそれで良いような作品には、止まっていない。
そうした魅力のあることも否定はしないし、否定できないことなのだが、決して、それがすべてではない、ある種の「重さ」と「抒情性」を、本作は確実に持っている。
また、だからこそ、まだ若いコン・ダーシャン監督の初長編作品である本作は、若い一般客からプロの映画批評家まで、幅広い層の支持を受けることにもなったのであろう。

(村で行方不明になっていたロバを、西の山奥でタンが発見。この後、ドン・キホーテばりに、ロバに乗るシーンとなる)

では、この作品に「秘められた想い」とは、いったいどのようなものだったのだろうか?

私はそれを、タンの自殺した娘の遺した「人間はどうして、何のために生きているのか?」という「究極の問い」に対し、ひとつの回答を与えることだったのではないかと思う。

つまり、結局は「死」に至るしかない、この苦しみ多き現世に、それでも頑張って生きるほどの意味などあるのか、という問いへの、回答である。

ここで、思い出してほしいのは、物語の冒頭で、若きタンが生き生きと語っていた「人類の理想と夢」である。
「宇宙人の存在を知るようになれば、人類は、この狭い地球の上で、相争うような愚かなことなどしなくなって、平和な世界が実現するだろう」という、それだ。

つまり、「宇宙人」というのは、若きタンにとっては、そうした「理想」や「夢」の象徴だったのではないか。
そして、言い換えれば、そうした「夢」を失うというのは、「理想」を失うことであり、「現実の世界」に希望を失って自殺した娘の「人間はどうして、何のために生きているのか?」という問いに、答えてやることができない、ということを意味したのではないだろうか。

「そうだよ、そのとおりだ。この苦しみに満ちた世界には、生きるに値する意味なんてものはない。それが現実というものだ」などと、死を選んだ娘に対して答えることができず、タンは、どこかに存在するはずの「生きるの値する夢や理想」の象徴として、宇宙人の実在に固執し続けていたのではないだろうか。

そして、タンが洞窟での「神秘体験」によって得た、その答とは「人間は、何かのために生きるのではなく、人間そのものが生きる意味なのだ」というようなことではなかったか。
「娘」がタンにとっての生きる意味であったのと同様に、そして、娘に死なれてからは、その「問い」に答えてやることこそが、生きる意味であったように。

DNAは、遺伝情報の「暗号」である)

一一と、ここまでは、本作について、当たり前に理解され、語られているところなのであろうが、私はここで、ひとつの見方を付け加えたい。
それは、もっと具体的で現実的な「秘められた意味」である。

再び思い出して欲しいのは、本作の冒頭で描かれるのは「30年前の、理想に輝いていたタン」と「30年後の、希望を失いつつあるタン」との「ギャップ」である。
私はここに、「中国」という国の歴史を重ねずにはいられないのだ。

本作の「30年前」である1990年頃の中国とは、どんな国だったのかというと、かの「天安門事件」が発生した翌年ということになる。
だとすれば、「30年前」とは「民主化の希望」が最も高まった頃であり、そしてその最高潮で、その希望が叩き潰された時期だとも言えるだろう。

そもそも、『宇宙探索』のようなオカルト雑誌が大ヒットし、他にも「気功」などが流行った時期というのは、共産主義中国が、経済においては「自由主義経済」を選択することで豊かになった時期である。
だからこそ、当時の中国の若者たちは、経済だけではなく、政治的な民主化(自由)をも求めるようになった。彼らは、たしかに「未来への希望」を抱いていたのである。

「法輪功」は、神秘性の強い教義をかかげる気功修練団体で、1990年台に中国でその勢力を拡大したが、政府から危険視されて大弾圧を受けることになった)

だが、その後はどうなったか?
たしかに中国は、世界に冠たる「経済大国」にはなった。だが、民主化は叩き潰されたままであり、近年では「習近平」の独裁体制が確立されて、経済的には豊かでも、人々の心からは「自由や希望や理想」が失われて、ただただ「経済的な豊かさ」に酔うだけも、虚しい「現実主義バブル」が幅を効かせるようになったのではないだろうか。

(中国のバブル経済は、今や破綻しかけている)

だから、「こんな世の中で、はたして生きている価値があるのだろうか?」と問われれば、かつては「明るい未来」を夢見ていたタンには到底「今の世の中が、生きるに値するものだ」とは答えられなかっただろう。だからこそ、彼は「失われた夢」に固執し続けたのではないだろうか。

そして、彼のたどり着いた答とは、「人間を大切にするということにおいて、人間は生きる意味を見出す」というようなことではなかったのだろうか。
そこにたどり着いたからこそ、タンは、もはや「UFOや宇宙人」に固執しなければならない必要がなくなり、だから編集部をたたむことにも挫折感はなく、むしろ新たな「夢」と「希望」を持てるようになったということだったのではないだろうか。

つまり、平たく言ってしまえば、この作品で語られているのは、経済的に豊かにはなったものの、人間らしい夢や理想を失ってしまったかのような「祖国」に対し、「それでいいのか?」という疑義を突きつけるものだったのではないだろうか。

無論、今の政治体制で、それを露骨にやることはできないから、形式的には「夢に生きている愚かな男の珍道中」という物語になっているが、サブタイトルとして「JOURNEY TO THE WEST(最遊記)」と名付けられているとおり、タン編集長とその一行の「西への旅」は、三蔵法師とその一行の物語が重ねられている。
そして、三蔵法師の旅とは、祖国に救いと平和をもたらすための「取経の旅」なのだ。

中国文学者の中野美代子は、日本における『西遊記』研究の第一人者だが、その中野が指摘するのは、『西遊記』は、表面的には「仏教」の物語になっているけれども、その特異な構造を読み解くと、じつはそこに秘められているのは「道教」的な神秘主義的世界観であり、『西遊記』とは、それを隠し持った、一種の「長編暗号小説なのだ、というものである。

だとすれば、「仏教を偽った、道教的作品」である『西遊記』と同様に、本作が「ドン・キホーテ的な滑稽譚を装った、国家批判的な作品」であっても、少しもおかしくはないと私は思う。

実際、本作の映画パンフレットの「PRODUCTION NOTE」には、次のような記述がある。

○ ベルギー出身のカメラマンと81回の苦難を乗り越えて

撮影のマティアス・デルヴォーはベルギー出身。手持ちカメラや過酷な場所でのロケなど本作の撮影は困難の連続。だが、コン監督はデルヴォーをこう慰めたという。「この映画の英語タイトル「JOURNEY TO THE WEST」は「西遊記」の英訳タイトルと同じ。「西遊記」の中で、登場人物は“9 × 9 = 81回の苦難に遭遇し、それを乗り越えなければ、西域に辿りつくことはできない” と言っている。僕らもそうするしかないですよね」。』

中野美代子の研究によれば、『西遊記』という作品に、縦横に張り巡らされた、こうした「数秘術」的な構成は、道教的な「世界観」を、物語上ではなく、その構成の中に、秘密のうちに込めることを、その狙いとしていた。

(『西遊記』は、単なる大衆娯楽小説にはあらず)

だとすれば、そんな『西遊記』を模した本作に、「隠された意図」があったというのは、むしろ当然の読みなのではないだろうか。

そして、この物語の最後で、この世界の「真相」に辿り着けたのが、タンただ一人だったというのは、チンのようなごりごりの現実主義、ナリスのような現実逃避の快楽主義、シャオシャオのような無抵抗主義では、決して「真実」には辿り着けないだろう、ということを示唆していたのではないか。

「真実」に辿り着くには、周囲の者からは「夢みがちな馬鹿者」と見られるような、すなわちドン・キホーテのごとき愚直さが、やはり必要なのだと、本作はそう語っているのではないだろうか。

(2023年11月5日)

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