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映画 『RRR』 : 闘者だけの持ちえる〈誇り〉

映画評;S・S・ラージャマウリ監督『RRR』

いやもう、噂どおりの「血湧き肉躍る、パワフルエンターテイメント映画」という他ない。
ハリウッドのアクション大作に勝るとも劣らない作品なんだから、面白くないわけがないだろう。

しかし、この作品の最高の魅力は、なんと言ってもその「向日性」であり、「自信」に裏付けられた、内側からあふれ出る輝きではないだろうか。

『1920年、英国植民地時代のインド。英国軍にさらわれた幼い少女を救うため立ち上がったビームと、大義のため英国政府の警察となったラーマ。それぞれに熱い思いを胸に秘めた2人は敵対する立場にあったが、互いの素性を知らずに、運命に導かれるように出会い、無二の親友となる。しかし、ある事件をきっかけに、2人は友情か使命かの選択を迫られることになる。』

とまあ、男の中の男どうしの友情と、止むに止まれぬ対立による闘い。当然、最後は協力して、悪の「大英帝国総督府」をぶっ倒すわけだが、正面からこういう物語を描いて、決して照れることのない自信が、この映画にはみなぎっている。
彼らは、自分たちの「正義」を確信しており、「巨大な悪」に立ち向かうことに誇りを持っているから、何も照れる必要などないのだ。

これは、インドが長い間、イギリスの植民地支配下において搾取と差別に苦しみ抜いた末、国際政治的には色々事情があったとはいえ、ひとまず自分たちの力で「独立」を勝ち取ったという、確固たる自負があるからだろう。だからこそ、映画のエンディングにおいては、インド独立の英雄たちへのオマージュが捧げられているのだ。
「我々は、我々自身の力で闘い、多くの血を流して、民族の独立を勝ち取ったのだ」という自負である。

そんな自負に裏打ちされた「英雄映画」なのだから、そこにアメリカ映画の「ヒーローもの」のような「苦さ」がないというのも、また当然のことであろう。

現在のアメリカ映画を代表する「英雄」と言えば、例えば、アイアンマンキャプテンアメリカスーパーマンバットマンといった、アメコミを原作としたヒーローたちだろう。

(映画『バットマンVSスーパーマン ジャスティスの誕生』より)

だが、周知のとおり、彼らには、多かれ少なかれ「陰」がある。
アイアンマンは「武器商人」だったし、キャプテンアメリカは「海外派兵された兵隊」であった。スーパーマンは自身の出自を隠さなければならない「異邦人(移民)」であったし、バットマンは「腐ったアメリカへの絶望を抱える戦士」であった。

だから、彼らの物語は、見かけ上は「痛快なアクションもの」であったとしても、ストーリー的には、どこかに必ず「陰」があって、むしろ、その陰影によって「ヒーローたちの孤独な闘い」を、魅力あるものにしているのだとも言えるだろう。

それに比べれば、インド映画である『RRR』は、権力と戦う『水戸黄門』である。わかりやすく言えば、きわめてシンプルな「勧善懲悪」の物語なのだが、しかし『RRR』の主人公たちは、『水戸黄門』のように「印籠=権力=アメリカの後ろ盾」によって勝つわけではない。彼らは、自分たちの力で闘い、自分たちを解放する。『RRR』は、そういう物語なのだ。
だからこそ、裏も表もなく、突き抜けた「明るさとパワー」を持ち得ている。

『RRR』のそんな「明るさ」に魅了されながら、しかし私は、「ではなぜ、日本では、こんな映画が作れないのか?」と自問せずにはいられなかった。その答えはわかっているのに、それでも問わざるを得なかったのだ。

『RRR』は、抜群に面白い「娯楽映画の傑作」であった。もう、それで十分ではないだろうか。

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一一なぜ、日本では、こんな映画が作れないのか?

日本は戦争に負けて「無条件降伏」し、占領を受け入れた。
しかし、戦勝国の思惑が交錯した結果とは言え、占領国アメリカのおかげで、民主的な国家を築くことができたし、長らく平和を享受することもできた。驚異的な経済発展を実現することもできた。

つまり、占領国アメリカに「搾取され、虐げられる」どころか、アメリカの主導する「西側」の一員に組み込まれて、「東側」に対する「盾」であり「前線基地」としての役目を担うことで、経済的な栄華を誇ることができたのである。

一一本土のための「犠牲」として、アメリカに差し出された、「沖縄」は別にして、だ。

東西冷戦における「西側陣営」に組み込まれることに反対した「反米左翼運動」が、アメリカの手先と化した自民党政府によって叩き潰されて以降、多くの日本人にとってのアメリカは、もっぱら「憧れの国」だった。
日本に「民主主義」と「平和」をもたらしてくれた上に、日本を守ってくれる「頼りになる友人」でもあれば、カッコいい「カウボーイ」であり「スーパーマン」ですらあったのである。

(マッカーサーと昭和天皇)

だが、これらは、日本国民の多くが見ていた「日米関係の上っ面」でしかなかった。
仔細に見ていけば、日米は決して「対等な友人」などではなかった。今となっては、「友人」だの「兄弟」だのと言っていた頃の、なんと楽天的で幸せだったことか。まさに「無知の幸福」である。

しかし、すでに明らかになったように、戦後の日米間には、はっきりと「勝者と敗者」の落差があった。それが、日本国民には隠されていたため、その「屈辱」を味わうことはなかったものの、その裏では、ドイツなどの敗戦国ですら見られないような、差別的な「地位協定」が結ばれ、今も結ばれたままであり、各種の密約によって、日本国民はずっと、自国の政府からも欺かれたままである。結局、戦後の日本は、一度だって「独立」したことのない、アメリカの属国だったのだ。

日本人は、一度として、自分の力で「自由」と「尊厳」を勝ち取ったことがない。
敗戦時だけではなく、明治維新においても「上からの制度改革(革命)」において、曲がりなりのものではあれ、「自由と平等」を「投げ与えられた」。
「自分たちの尊厳」を、一度として「自分の力」で勝ち取ったことがないからこそ、日本人は、心の底からの「自負」や「自信」を持つことができない民族になってしまった。

私たち日本人は、『RRR』がエンディングで誇ったような「民族独立の英雄」を、一人として持つことができなかった。だから、『RRR』のような、「独立神話」の物語を作ることができないのだ。

日本人が「独立」をついて描くとすれば、それは「革命家」や「独立運動家」といった存在ではなく、「裏で頑張ったらしい」政治家たち、といったことになる。
史実的に、相当疑わしいというか、むしろ露骨に「美化された、実在の政治家」あたりしか、描くことができないし、それは多分に「アリバイ作り」的なものでしかなく、『RRR』のようなまっすぐな映画など、作りようもなかったのである。

(左が白洲次郎、右が吉田茂)
(ドラマ版の、白洲次郎と吉田茂)

もしも、日本が、もっと屈辱的で露骨な占領政策を受け、搾取と差別に苦しんだ末に、相応の犠牲を払った上で、アメリカから独立していたら、日本は、どんな国になっていただろう? そして、どんな映画を作る国になっていただろう? 不平等な「日米地位協定」ではなく、平等な条約が結ばれていたら、日本はどんな国になっていただろう?

もしかすると、そんな日本では、「自衛隊」ではなく「日本軍」が存在しているかもしれないし、「核兵器」だって持っているかもしれない。
つまり、必ずしも、今の日本より「良い国」になっているという保証など、どこにもないのだけれど、しかし、だからと言って、「自力での独立」を果たさなかった結果の「負の面」について、考えなくてもいいということにはならないだろう。

インドは、『RRR』を作るような「自信にあふれた大国」になったけれども、その「自信」と「明るさ」は、この先も、インド国民を幸せにするという保証はない。

実際、現在のインド首相であるナレンドラ・モディは、ヒンドゥー至上主義者であり、イスラム教徒や仏教徒に対する差別政策を進めているという。
無論、すでにインドは「核兵器」も保有しているし、経済的な発展だけではなく、そうした軍事的イニシアティブにおいても、インド国民は自信を深めているのではないだろうか。

だとすれば、『RRR』の「明るさと自信」の裏にあるものは、必ずしも喜ばしいものばかりではないのかもしれないのだが、これは、落日国家の国民のひが目なのだろうか。

むしろ、そうであれば幸いなのだが、「自信満々に勝ち誇っている」人たちが、いつか「他国民」を当たり前に見下すようなことになるのだとしたら、そんな「自信」など、持てないままで良いのかもしれない。

『RRR』の主人公たちが「美しかった」のは、彼らが「自由を抑圧する権力」と闘う人たちだからであって、単に「超人的に強かった」からではないだろう。
本当なら、物語の中で、何度も死んでいなければならないはずの彼らが、最後まで生きて勝利を手にしたことについて、「幼稚な絵空事」だと観客たちが馬鹿にしなかったのは、彼らが、いつでも「虐げられた者」の側に立って闘った「神話的な人物」だったからなのだ。

実際、作中でも、ラーマは「たとえ、敗れて目的が果たせないことになったとしても、正しいことのために命を賭けるべきなのだと、ビームの教えられた」という趣旨のセリフを吐いていたが、この物語が「美しい」ものであり得たのは、そうした「勝敗を超えたところの、理想と人倫」を、まだ持っていたからではないだろうか。


(2022年12月1日)

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