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翁長雄志 『戦う民意』 : 〈政治家〉の言葉と魂

書評:翁長雄志『戦う民意』(角川書店)

翁長氏が亡くなって一年。沖縄に負担を強いてきた「本土の人間」の一人として、私は「沖縄には常に心を寄せよう。寄せねばならない。そして、それからどうすべきか」という、責任意識を持っている。今頃この本を読むのも、翁長氏の危惧した「流行」からではなく、辺野古の工事が始まり、本土での報道がすっかり影を潜めてしまった今でも、「沖縄の良心」そして「日本の良心」の一人であった、翁長氏の意志と遺志を知らねばならない、という意識があるからだ。
もちろん、私は、沖縄のことだけを考えて生きているわけではない。私が、責任を持たねばならないことは、他にも色々あって、例えば、日本人としての東アジアへの責任、宗教に関わったことのある者としての責任、あるいは、家族や友人への責任などなど。

沖縄の歴史や、沖縄のおかれた現状とその理不尽さについては、すでに大筋の知識を持っているけれども、それはこの問題のごく限られた一面でしかないだろう。じじつ、一般的な「沖縄問題」とは別に、翁長雄志という「沖縄の一政治家」の目を通した沖縄問題は、またすこし違った様相として見えてくる。つまり、沖縄問題とは、万人に同一なものではないのだ。

本書を読んで考えたことは、いろいろとある。
そのなかで、まず書いておきたいのは、本書のタイトルにもある「民意」の問題だ。

本書で翁長氏は、選挙によって「米軍基地の辺野古移設反対」という「民意」は示された、と主張しているが、それに対して、レビュアーの中には『票数は約6対4です。仮に9対1や8対2なら、『オール』沖縄と高らかに声を上げても良いかも』しれないが、4割は同意していないのだから、そんなものは『オール』でもないし、「民意」とは言いがたい、と反論している人もいる。

「民意」という言葉は、きわめて曖昧なものだ。
たしかに『6対4』では、けっこう伯仲しているとも言えるだろう。しかし、事の本質は、「割合」の問題、「数」の問題、ではない。『6対4』の6が「民意」ではないのなら、『9対1や8対2』の9や8もまた「民意」ではない、とも言える。反対者が一人だけでも、やはり、残りの全員の総意も「完全な民意」とは言えない。そもそも、民主主義は「少数意見を尊重」してこそのもので、多数決は、止むなくなされる妥協策にすぎず、多数意見に「正義」があるわけではないのである。

そして、そのことは、ほかならぬ翁長氏自身が指摘するところでもある。

『「民主主義は多数決の独裁政治だ(※ そうであってはならない)」と私は言っています。沖縄の国会議員数は全体から言えば、わずか一〇〇分の一ほどです。多数決が正義なら沖縄の民意はたちまち蹴散らされていきます。』(P90)

翁長氏はここで「民意は多数決によって確証されるものではなく、正義のあるところに民意がある」と言っているのである。
つまり、翁長氏と仲井真氏との対決となった知事選で、翁長氏が『6対4』で勝ったというのは、「数が、正義を証明し保証した」という意味ではなく「正義としての民意を、今回は数が示していた」というにすぎない。かりに翁長氏が負けていたとしても、多数決とは無関係に「正義としての民意」は、変わらずに存在するのである。
(※ ちなみに、翁長氏が選挙で掲げた「オール沖縄」は、無論「沖縄人全員」という意味ではなく、「政治党派を超えた、立場としての沖縄(主義)」という意味である。したがってこれも「数」の問題ではない)

では、「正義としての民意」とは、何か?
それは「道理」である。

例えば「国土のわずか0・6%の面積しかない沖縄県に米軍専用施設の総面積の73・8%が集中している」とか「講和条約締結において、日本政府は沖縄を人身御供にした」といった、本土政府の数々の差別的政策が、そもそも「道理としての正義」に反するものであり、そんな「反正義」を「批判する声」こそが、「正義」としての「沖縄の民意」なのであって、それをしない声は「沖縄の民意」ではないのだ。
言い変えれば、「不正義としての理不尽」を受け入れたり、あまつさえ支持したりするような声とは、「沖縄の声」ではなく、「抑圧された声(奪われた声)」だということなのである。

もちろん、こうした言い方は、非常にわかりにくいものだろう。文字を字面でしか読めない人には、こうした屈折表現は理解できなくて当然だ。
だが、翁長氏は、文筆家ではなく「政治家」なのだ。思っていることを、そのまま表現すればいいという立場ではないのである。つまり、翁長氏の発言は、すべて「政治家」としての配慮に規定されているということを、読者は認識しておかなければならない。でないと、翁長氏の「狙い」は読めても(読まされても)、「真意」は読み取れないだろう。

『 野党(※ 自民党の議員)だった私は、県議会でも激しく(※ 革新系知事であった)大田知事をやり込めました。たとえ五一対四九で選んだ政策であっても、政治の場でやりあうときは一〇〇対〇になります。「四九は理解できるが、五一は理解できない」という打ち出し方はあり得ません。だから、大田知事の政策が七割理解できたとしても、一〇〇対〇で厳しく臨みました。』(P169)

これが、政治家の「物言い」なのである。
だから、翁長氏が、ある時は『6対4』で勝っても「民意が示された」と言うだろうし、その一方、仮に、ある時には相手が『9対1や8対2』で勝って「民意」を主張した場合、それを翁長氏が「それは民意などではない」と否定したとしても、それはあながち矛盾ではないのだ。

前述のとおり、翁長氏にとっての「沖縄の民意」とは、選挙の結果に関係なく、それ以前の「道理としての正義」としてあらかじめ存在するものなのであって、ただ、それを言葉として打ち出すタイミングには「政治家」としての駆け引きがある、ということにすぎない。

したがって、翁長氏を批判する者が「数字」にこだわるのは、実際のところ、問題の本質をはずした「瑣末論」でしかない。

例えば「在日米軍基地の74%が沖縄に集中しているというのは嘘」といった、ネット右翼お得意のケチの付け方は、「南京で日本兵は、中国民間人を三万人も殺してはいない」というのと同種の、「本質逸らしの難癖」でしかない。
現に、ベトナム戦争での米軍による「ソンミ村虐殺事件」の被害者数は約500人と言われているが、南京事件の場合、日本の学者の推定でも、被害者数がそれ以下ということはないのだから、立派に「虐殺」行為はあったのであるし、そもそも「虐殺」とは、「人数」の問題ではないのである。
だから、仮に「在日米軍基地の30%が沖縄に集中している」だけ、だったとしても、それもやはり「理不尽」であり「不正義」であって、「74%」だから「理不尽」であり「不正義」だという話ではないのだ。

したがって、「党派的」な人間や「イデオロギー的」な人間、あるいはそれに類した「信者」たちの「自己都合的認識」は別にして、物事を公平に見た上で何が「正義」であるのかを考えようとする者は、「数字」に惑わされて、事の「本質」を見誤ってはならない。
「沖縄の民意」としての「正義」とは、あるいは「正義」としての「沖縄の民意」とは、「数字」の問題ではないのである。
それは、アンチ沖縄の人たちがどう言おうと、あるいは翁長氏がどう言おうと、私たちは、なにが「人としての道理」であり「正義」なのかを見定める目を持たなければならない、ということなのだ。

そして私個人は、「本土の人間」として「沖縄に過分の負担をさせている」と認識しており、それは「不正義」だと考えるからこそ、「本土の人間」としての「責任」を感じるのである。決して「第三者」あるいは「評論家」的な立場で、沖縄や翁長氏を支持しているのではない。
自ら選んで「本土」に産まれてきたわけではないけれど、「本土」人として否応なく「理不尽な恩恵」を受けきてしまった、弱い人間の一人として、沖縄への「負い目」を感じているのである。また、だからこそそれは、「弱者の味方をしている私(強者)」という「誤った自己像」に陶酔できるような、そんなお気楽な立場ではないのだ。

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なお、一点、翁長氏の「政治家」として言い回しとして引っかかったのは「イデオロギーよりアイデンティティー」という言葉だ。
翁長氏は「アイデンティティー」という言葉を「沖縄人としてのアイデンティティー」と、ほとんど同じ意味で使っており、それを自明のものとしているようが、しかし「アイデンティティー」の置き(委ねる)場所というのは、なにも「地元」や「郷土」や「祖国」だとは限らない。
「アイデンティティー」とは、何にでもおけるもので、人によっては、それを「肩書き」においたり「職業」においたり「知性」においたり「肉体美」においたり「場所からの自由」においたり、時に「政治イデオロギー」においたりもできる、そんなものなのである。
だから、翁長氏の言う「アイデンティティー」は、そのまま「沖縄アイデンティティー」なのだろうが、それは一種の「沖縄ナショナリズム」なのだとも言えよう。つまり、地元として力を結集するための、一種の「イデオロギー」である。

たしかに、弱者であり、虐げられた者の立場にある現在の沖縄には、そういうものが必要であろうし、当面それが、一般的な「国民国家主義としてのナショナリズム」の「排外」傾向を持つことはないだろう。つまり「他者に寛容」でいられるだろう。なにしろ今は、差別され排除される側の立場だからだ。
しかし、どのくらい先かはわからないが、沖縄が、弱者ではなく、むしろ強者になった場合には、「沖縄アイデンティティー」もまた、ありきたりな「強者の排外主義」の根拠へと変じ得るものなのではないかと、私には危惧される。

もちろん、そんな先の心配(取り越し苦労)ではなく、いま何が有効なのかを考えるというのが政治家の発想だから、翁長氏は確信犯的に、今ここで必要なら「方便」だって使うだろう(使っただろう)。
だが、私は政治家ではないし、物事を客観的に評価し、是々非々で判断する立場の人間なのだから、「イデオロギーよりアイデンティティー」という、俗耳に入りやすい「政治的なスローガン」を、「今さえ良ければ」と、ただそれだけで支持する気にはなれないのである。

初出:2019年8月28日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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