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ジェームズ・ガン 監督 『ザ・スーサイド・スクワッド』: ジェームズ・ガンの〈悪ガキ〉たち

映画評:ジェームズ・ガン監督『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』


 (※ 一部、映画のネタバラシをしますので、未鑑賞の方はご注意ください)

DCコミックスの「スーサイド・スクワッド」ものを原作とした映画の第2弾。前作の監督は、デイビッド・エアーだったが、今回は、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズなどで高い評価を受けた、ジェームズ・ガンが監督をつとめた。

私は、デイビッド・エアー監督の前作も観ているが、正直「イマイチ」だと感じた。だから、この2作目も、ジェームズ・ガンが監督していなければ、きっと観ていなかったはずだ。
私はもともと、バットマンやスーパーマンのような「孤高のヒーロー」が好きであり、「チームもの」は好みではなかった。そのせいで、ほとんど見ている「マーベル・シネマティック・ユニバース」の中では例外的に『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』シリーズを観るのが遅れてしまった。評判の良い『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』を観る気になったのは、ガンがマーベルをクビになるという大騒動で、初めてガンの人気に注目したからだ。そしてその結果「もっと早く観ておくべきだった」と反省させられたので、今回は「チームもの」ではあれ、ガンの作品として、早くから観る気満々だったのである。

ちなみに、デイビッド・エアー監督の『スーサイド・スクワッド』を観たのは、ひとえにバットマンとジョーカーへの興味からであった。

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とにかく、本作は活劇として面白かったし、やはりジェームズ・ガンらしい、ユーモア溢れる会話の妙が光っていた。
ただし、デイビッド・エアーの『スーサイド・スクワッド』と同様に、やっぱり私が引っかかったのは、主人公である「悪党」どもが、基本的には「いい奴」らだった、という点である。

いくら「極悪犯罪者」だと言っても、娯楽映画の主人公であれば、読者の共感を呼ぶキャラクターでなければならないというのは、十二分に理解できる。しかし、それでも彼らを「極悪人」と呼ぶ気には、どうしてもなれない。「極悪人」であり、かつ「共感できるキャラクター」であることを求めるのは、無茶なのであろうか。

ただし、どのような人間を「極悪人」と呼ぶのか、それを「定義しなおす」ならば、この難問を解くことも可能なのではないだろうか。

例えば、本作の主人公となる「ブラッドスポート以下の7人の極悪人チーム」(極悪人には含まれない、リック・フラッグは除く)は、基本的には「人殺しの極悪人」ということになっているし、それぞれ性格的な問題を抱えているとは言えるだろう。
しかし、そうした性格的な問題は、せいぜい「困った奴」「迷惑な奴」「嫌な奴」「傍迷惑な奴」という程度であって、「凶悪残忍極悪非道」というようなものではない。だからこそ、平気で「人殺し」をするけれども、人柄的には「憎めない」のである。

つまり、彼らが「極悪人」と呼ばれるのは、「平気で人殺しができる」からであって、日常的な「性格」の問題ではないのだ。「人殺し」とそれに類する「凶悪犯罪」さえしなければ、彼らはおおむね「変な奴」ということで済まされうるキャラクターなのである。

しかしまた、彼らが、「人殺し」とそれに類する「凶悪犯罪」を平気で行うことのできる「異常性格者」であるという事実は否定できない。彼らが「現実」に存在していたなら、彼らは間違いなく「極悪人」だ。

だが、彼らが存在しているのは「フィクションの世界」であって、「現実の世界」ではない。だから彼らの場合は、「人殺し」をしたからといって、いちいち良心の呵責に悩まされることはない。活劇の登場人物が、いちいちそんなことに悩んでいたら、活劇は成立しないのだから、これはフィクションの中でだけ認められた「特権」なのである。

また同様の理由で、私たち観客も、彼らの「人殺し」をいちいち倫理的に責めたりしないし、殺された人たちや、その家族に同情したりもしない。
殺す方も、フィクションの中の「役割的人物」なのであれば、殺される方は余計に、その「背景」を欠いた、殺されるために登場する「役割人物」に過ぎない。そのため私たちは、「極悪人」たちの殺戮行為を、倫理的に問うたりしないし、それが許されてしまうのである。

しかしながら、基本的に「人殺し」とそれに類する「凶悪犯罪」が許された、この「極悪人」たちの世界において、それでも「いい奴」と「悪い奴」が存在するのだが、両者を区別する基準とは、いったい何なのだろうか?

普通なら「悪玉」は「卑怯な手」を使うことを辞さず、「善玉」はそれを選ばない、といったところで「線引き」がなされるのだが、基本的に敵味方の双方が、「人殺し」とそれに類する「凶悪犯罪」を平気で犯す「極悪人」たちの世界においては、そうした基準を採用するわけにはいかない。だとすれば、本作における「いい奴」と「悪い奴」を区別する基準とは何なのだろう。

私はそれが、「子供の味方か否か」にあった、と見ている。
本作に特徴的なのは、まさに「子供」に対するこだわりだったのだ。

具体的に言えば、

(1)ブラッドスポートは、結局のところ、娘思いの父親だった。
(2)ハーレイ・クインは、好きになった男が、しかし「目的のためなら子供でも殺せる」と言ったことで、男を「クソ野郎」と見限って殺してしまった。
(3)ピースメイカーは「平和のためなら、誰でも(子供でも)殺す」と公言する「歪んだ正義感」の持ち主であったために、仲間を裏切る人間でもあった。
(4)ラットキャッチャー2は、父親の愛によって育まれた優しい娘であり、そもそも「極悪人」でもなんでもなかった。
(5)ポルカドットマンは、母親の歪んだ育て方のために、母親への憎しみに囚われ続けた、可哀想な息子だった。
(6)キングシャーク(ナナウエ)は、見かけこそ厳ついサメ人間で、人間が大好物という困った怪物だが、性格的には無邪気な子供そのものであった。

このように、主人公である超人(?)たちは、裏切り者となるピースメイカーを除けば、全員なんらかのかたちで「子供の側」の人間であり、要は「子供の味方」だったと言えるし、その点で彼らは、他の「極悪人」たちとは違って、「ヒーロー」たり得たのではないだろうか。

人殺しもするし、汚い手を使うときもある。他人を人間だと思わないこともしばしばだが、しかし「子供」を害することだけはしないし、子供を害するものだけは許さない。
この一点において、彼らは「主人公」たりえ、「ヒーロー」たりえ、そして「いい奴」だと評価しうる存在であり得たのではないだろうか。

そして、この点に、ジェームズ・ガンの「個性」であり「特徴」があるのではないか。

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ガンの作品は、『ガーディアンズ・オブ・ギャラクシー』2作と今回の『ザ・スーサイド・スクワッド “極”悪党、集結』の3作しか観ていないが、他の諸作品でもきっと、よく見れば「子供」の存在がカギになっているのではないかと推察する。
キングシャーク(ナナウエ)の描き方に典型的に表れている、ガンの「子供(っぽさ)」への愛着が、例えば「無邪気なまでに残酷な殺戮シーン」などにも表れているのではないか。

子供というのは、無邪気に悪気もなく、生き物を殺したりすることがあるが、ガンにはそれと同様の「無邪気さ」があるのではないだろうか。
まただからこそ、「DCエクステンデッド・ユニバース」のどの作品を撮っても構わないと、作品選択を白紙委任された時、ガンが、いわゆる「正義のヒーロー」ではなく「スーサイド・スクワッド」の無茶苦茶な奴らを選んだのも、同様の理由からではないだろうか。
つまり、子供の自由奔放さを解放するには、「責任感のある正義のヒーロー」ではなく「無茶苦茶な悪党たち」の方がやりやすいと考えて、ガンは、あえて「スーサイド・スクワッド」を選んだのではないだろうか。

(2021年8月20日)

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