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トッド・フィリップス監督 『ジョーカー』 : 凡庸な〈悪〉は、 ジョーカーに非ず

映画評:トッド・フィリップス監督『ジョーカー』

この映画が、あの「ジョーカー」を描いたものとしては、失敗作としか呼べない理由は、ハッキリしている。
その理由とは「主人公であるアーサーが、ジョーカーに変貌する理由が、非常にわかりやすくて納得できる」という点にある。鑑賞者の多くが、アーサーに「同情共感できる」という点にあるのだ。

なぜ、これが「致命的な欠陥」なのかと言えば、ジョーカーとは『DCコミックス『バットマン』に登場する最強の悪役(スーパーヴィラン)』(Wikipediaより)だからだ。
つまり〈悪〉を象徴する者、〈悪〉を人間として形象化したものが「ジョーカー」であって、彼は簡単に「理解できる」ようなものであってはならない。彼は「〈悪〉という、底知れない深淵」でなければならないのである。

それなのに、本作では、そんなジョーカーを「世間並みの、可哀相な犯罪者」つまり「凡庸な悪」にまで引き下ろしてしまった。日本犯罪史の中で喩えれば、本作に描かれた「アーサー=ジョーカー」は、金嬉老や永山則夫と大きく違わない、「平凡な人間」にまで引き下ろされてしまったのである。

本作は、ジョーカー役のホアキン・フェニックス(故リバー・フェニックスの実弟)の鬼気迫る演技が絶賛を浴び、第79回ベネチア国際映画祭のコンペティション部門で、最高賞の金獅子賞を受賞した。
本作の主人公である「ジョ-カー」とは、無論『バットマン』の悪役(敵役)である、あのジョーカーなのだが、本作はそういう「ヒーローもの」路線ではなく、あくまでも「人間を描く」というシリアス路線で撮られた作品であった。つまり「悪に堕ちる、リアルな人間を描く」ということを目指して撮られ、高い評価を得られた作品だと言えるだろう。

だが、仮にそうだとしても、つまり「悪に堕ちる、リアルな人間を描く」という点においてすら、本作はまだまだ甘く、その意味で、期待はずれな作品だった。

本作は、「恵まれない環境におかれた真面目な男が、世間の悪意や不幸にさらされることで、狂気に陥っていき、やがて、悪の化身であるジョーカーへと変貌していく」というお話なのだが、要は「こんなひどい目にばかりあえば、こうなっても(アーサーがジョーカーになっても)仕方ないよね」という作りになっており、たしかに観客の共感(同情)は得られようが、結局のところ「〈悪〉の象徴的存在であるジョーカー」にまで堕ち切ることの、説得力に欠けるのだ。

屢説するなら、「悪の化身」とも呼ぶべきジョーカーに変貌する(させる)ためには、単に「恵まれない環境」や「世間の悪意や不幸にさらされる」だけではダメで、「人間の善意」や「愛」にさらされても、なお「悪」を選ぶという、そこまでの説得力がなくてはならない。
そうでなければ、そういうもの(「人間の善意」や「愛」)に接した時に、あっさり「改心」してしまうかもしれず、そんなものでは、到底「真の悪」とか「悪の化身」などとは呼べないからである。
つまり、常人には理解できないほどの「心の闇=人間存在の闇」を描いてこそ、ジョーカーという「特異なキャラクター」を描く意味もあるのだ。

無論、監督は、あくまでもジョーカーを「人間」として描いたのだろう。つまり「完全な悪(そのもの)」ではない存在だ。
しかし、それなら「ジョーカーである必要性」があったのか、というのが、私の不満なのである。

たしかに、ジョーカーの笑いの陰には「恐怖」や「慟哭」があり、その意味で、彼のどこかにはまだ「人間」的な部分が残っているのかもしれない。しかし、それでも、彼の「徹底的に傷ついた心の闇」を、そんな「わかりやすい理由」に還元してよいものだとは、私には思えない。

何をどうしても「救われない魂」というものを描いてこそ、ジョーカーを描く意味があるのではないかと、私にはそう思える。
本気で「悪に向き合う」とは「分かりやすい説明を与えて、勝手に理解した気になる」ことではないのではないだろうか。


初出:2019年12月18日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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