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高橋哲哉 『日米安保と 沖縄基地論争 〈犠牲のシステム〉を問う』 : 「沖縄米軍基地の本土引き取り」に 反対する 〈陰謀的レトリック〉に抗して

書評:高橋哲哉『日米安保と沖縄基地論争 〈犠牲のシステム〉を問う』(朝日新聞出版)

「沖縄米軍基地の本土引き取りなんて話を、まだしていたのか」と思った人は、まだ「マシ」な方かもしれない。

なぜなら、少なくとも「米軍基地本土引き取り論」の存在自体は、知っていたからだ。
「本土」の人間の大半は、沖縄を「観光地」くらいにしか思っていないだろう。テレビで、ごくたまに報道されるから「米軍基地の存在」くらいは知っていても、沖縄の歴史は無論、米軍基地問題の詳細などには興味がなく、おのずと「米軍基地の本土引き取り論」なんてことまでは聞いたこともない、というのが「普通」だろうからだ。

しかし、私たち「本土」の日本人の99パーセントは、「日米安保」体制を支持しており、したがって米軍の日本領土内での駐留も認めている。にも関わらず、その基地は(日米安保条約が結ばれた頃には、主権回復をしていなかった)沖縄に集中しており、その弊害を、私たちは沖縄に押しつけたままにしているのだ。
また、それにも関わらず私たちは、沖縄の現実を見ようともしないどころか、無意識にではあれ、その「嫌な現実」から目を背けてさえいる。

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目の前で、いじめに遭っている子供を見れば、助けに入るか、助けに入ることはできないまでも、少しは「嫌な気分」にはなるだろうし、助けに入れない自分の不甲斐なさに「自己嫌悪」くらいはおぼえるだろう。それが当たり前の「良心の呵責」というものだ。
しかし、同様のいじめが、自分の手の届かないところで行われていれば、仮にそれを知らされて、自分が何もしなくても、特段「嫌な気分」にもならなければ「良心の呵責」をおぼえることもないだろう。なにしろ、自分は、助けたくても助けられないところにいるからだ。
したがって、他所で行われたいじめをテレビなどで知らされれば、むしろ正義感を発揮して、テレビの向こうの、いじめの当事者たちを批判し、被害者に同情するだろう。そして、自身の正義感に、どこかで自己満足をおぼえることだろう。

そんなわけで、「嫌な現実」は「手の届く場所」にあってもらっては困る。自身が、それに対して「できることを何かしたのか?」という「行為責任」を問われるからである。
だからこそ、「嫌な現実」は、遠くのことであってほしいし、できることなら目にも入ってこないでほしい。そもそも、知らないことに対しては、責任など持てないのだから、他者から責任を問われることもない。そう考えるからこそ、人はそうした「嫌な現実」から、意識的に、あるいは無意識的に目を逸らして「知らないでおこう」とし、そのことで「責任回避」を目論むのである。

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だが、普通に問題意識のある人なら、沖縄の「米軍基地問題」の「存在」を、知らないなどということはあり得ない。
難病で日々苦しんでいるとか、失職して仕事探しに日々奔走しているとか、あるいは、休みのたびに友人を集めてバーベキューパーティーをやっているような人は別にして、普通の生活を営んでいる人なら、沖縄の「米軍基地問題」の「存在」を知らないことなどないはずなのだ。

だから、そうした「本土の普通の人」の中には、沖縄の「米軍基地問題」を捉えて、「政府」の対応を批判する人ならいるだろう。それなら、少なくはないはずだが、しかし、その時、そうした人の多くは、「沖縄vs日本政府」の問題について、「中立的な立場」から「批評家」的に、日本「政府」の対応を批判しているだけで、自分自身の「個人責任」の存在の方は、すっかり忘れているのではないだろうか。

日本人が「日本政府」の問題のある政策を批判するのは、第三者的な「正義」や「善意」からなされるのではなく、日本国民の一人として「日本政府」の政策に「責任がある」からである。批判してもしなくても良い「第三者」ではなく、批判しなければならない「当事者」だからなのだが、そのことを忘れて、第三者的に「評論家」のような批判をしてはいないだろうか。
私たち「本土」人が、日本「政府」の政策を批判するのは、「第三者」としてではなく、「当事者」としてである。つまり、沖縄への「米軍基地押しつけ」という「差別」や「いじめ」に類することを、日本「政府」が行なっており、それを私たち「本土」人が批判する場合、私たちは、「評論家」や「検察官」や「裁判官」ではなく、「差別」や「いじめ」を行なっている「政府」の「指導責任者」であり「共犯者」として、言わば「政府」を「自己批判」しているのだということを、忘れてはならない。

しかし、そうした「主権者としての責任」に多少は無自覚であっても、いちおう「自分たちの政府」に責任を持って「物申す」人は、「なにも考えていない人」に比べれば、比較にならないほど「マシ」であるというのは、論を待たないだろう。
だから、より問題なのは「日米安保を支持する、本土の人間の大半」が「何にも考えていない」という事実の方なのである。

沖縄人が、本土から「忘れられている」という被害者意識を持つのは、まったく正しい現状認識だ。事実として、「本土」人の9割以上が「沖縄の米軍基地問題」になど興味を持ってはいないし、ましてや「米軍基地の本土引き取り論」なんて聞いたこともないはずだ。
仮に、そんな話を小耳に挟んだことがあったとしても、「そう言えば、ずいぶん前に、そんな話を聞いた記憶があるけれど、まだそんな議論が続いていたの?」と驚くのが関の山なのではないだろうか。

だが、高橋哲哉は「本土」人の一人として、その「責任」のゆえに、2012年に『犠牲のシステム ―― 福島・沖縄』を刊行して以降10年経った今日まで、倦まず弛まず「米軍基地の本土引き取り論」を訴え続け、それに反対する人たちとの論争を続けてきた。
これは「物忘れ(勝手ボケ)がひどい」という「日本人の国民性」からすれば、驚異的な責任意識であり、その持続性・一貫性だと言えるだろう。敵対する人たちは「しつこい」と評するかも知れないが、この「粘り強さ」こそ、高橋哲哉が、哲学者の哲学者たるところなのだ。粘り強くない哲学者など、語義矛盾だからである。

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本書は、高度に論理的な「本格ミステリ」のような本である。

本書冒頭で示される「謎」とは、沖縄に米軍基地を押しつけている現状を改善するために、基地を本土で引き受けるべきだという高橋哲哉の、そして多くの「沖縄人の声」を否定するように、さも沖縄の側からなされたかのようなかたちで「米軍基地の本土引き取りは、沖縄人として拒否すべきだ」などと持ち出される、「基地引き取り」論への、批判・拒絶の存在だ。

そして、この一見して「不可解な主張」が、「本土側の都合」ではなく、少なからず「沖縄の意志」ででもあるかのように語られる際に現れる、「高橋哲哉批判」の正体とは、いったい何なのか。

一一こうした「謎」を、批判された高橋哲哉自身が、名探偵のごとき快刀乱麻の論理性で解読し、敵手の「デタラメ」ぶりを、論理的に打ち砕いてみせたのが、本書である。

ただし、エラリー・クイーンの「精緻極まりない論理的なミステリ」が、単純な「びっくり箱」を期待する一般読者には、少々敷居が高く「難解」だと評されるように、本書もまた、精緻に論理的であるが故に、ロジックを追う習慣のない人には「難解」だと感じられるかも知れないし、そうした「難解」さの故に、感情的な反発を受ける恐れはあろう。

明晰であるというのは、しばしば妬みややっかみによる反発の対象になるということであり、高橋哲哉には、そうした意味で、強すぎるが故の「弱点」があるのだが、高橋は、読者のそうした「俗情」に媚びることを知らず、ただただ誠実に、論理的に語る。そこが、「俗情との結託」ばかりを意図する敵手には、ある意味では好都合だとしてもだ。

したがってこれは、「論理的・倫理的な正しさ」と「俗ウケねらいの派手なレトリック」との戦いだと言えるだろう。本書上で展開されている高橋哲哉の戦いとは、大西巨人の次の言葉、そのものなのである。

『 果たして「勝てば官軍」か。
  果たして「政治論争」の決着・勝敗は、
  「もと正邪」にかかわるのか、
  それとも「もと強弱」にかかわるのか。

  私は、私の「運命の賭け」を、
  「もと正邪」の側に賭けよう。  』

       (大西巨人「運命の賭け」より)

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一見、沖縄を尊重するものであるかのごとく語られる「米軍基地の本土引き取り」拒否論という奇妙な主張には、例えば「沖縄の苦しみを、本土の他の場所に押しつけることは、沖縄人のやさしさに反する」だとか「引き取り論は、日米安保体制という本質的問題を曖昧化してしまう」とか「基地は、沖縄から出ていけば良いという問題ではない。基地のない世界を実現するまでは、本土引き取り論などという胡魔化しに与することはできない」とか「沖縄が本土の犠牲だとする立場は、沖縄を犠牲の牛馬のごとく見下す立場に立ったものだ」とかいったものがある。

一一これを読んで、中には「一理あるじゃないか。やはり米軍基地の本土引き取り論は、問題の矮小化なのではないか」と、説得されかかった人も、いるのではないだろうか。

そう。いくら本質的には「奇妙な理屈」であったとしても、それを公然と訴えるからには、それなりの「レトリック」を駆使して、「問題意識を共有しない門外漢」たちを欺くくらいのことは、しているのである。

以上のような「米軍基地の本土引き取り」拒否論については、本書において高橋哲哉が、完膚なきまでに、その「欺瞞」を暴き、論破しているから、ぜひそちらを当たっていただきたい。
一部の隙もないロジックで、敵手の欺瞞を暴いていく手際は、下手な推理小説どころではない「怜悧」さである。

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だから、むしろ私がここで問題にしたいのは、「本土」の人間が選び取った「日米安保」体制に由来する弊害を、沖縄一県に押しつけるべきではない、という当たり前の「倫理」的判断による「米軍基地の本土引き取り論」という、ほとんど議論の余地のなさそうな「正論」に対して、どうしてこのような「ゆがんだ反対論」が出てくるのか、という疑問についてである。

これは、私の「推測」に過ぎないが、「米軍基地の本土引き取り論」のような、日本「政府」やその支持者である「本土」人の側に不都合な、「わかりやすい正論」に対し「反対論」が出てきたとすれば、それは「本土」人の保身の発露であり、さらには、そうした「民意」を背景として「政府」によって仕込まれたものだと考えるべきなのではないか。
つまり「米軍基地本土引き取り論」にかかわる「高橋哲哉批判」とは、日米安保の〈犠牲たる沖縄〉という事実の、政治的な「隠蔽工作」の一端だということだ。

わかりやすく例えて言えば、「政府」の方針である「原発推進」のために、電通などの宣伝会社に大金が支払われたり、カネでなびく「学者」や「有名人」を雇って、「反原発」運動を批判させ馬鹿にさせて「無効化する」というプロパガンダ(「原発の炉心融解事故など、100パーセント起こらない」といった類の、御用学者の発言など)が現に行われたように、「日米安保体制」という日本の政治的根幹にかかわる政策を揺るがしかねない「米軍基地本土引き取り論」は、その「わかりやすい正論」性において、是が非でも潰さなければならないものだと考えられているはずなのだ。

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だからこそ、「米軍基地本土引き取り論」に対しては、少々無理のある理屈であっても、強硬に唱え続けられることになる。「嘘も百回言えば真実となる」というわけだし、これは「高橋哲哉批判」についても同断で、要は「主張の中身」ではなく「声のデカさ(回数と人数)」による印象操作によって高橋を貶め、その信頼性を落とせば、「主張の中身」において勝る必要はない、というやり口である。

無論、私のこの「読み」を、「陰謀論」だと言う人もいるだろう。
しかし、「東電」や「電気事業者連合会」やその関連企業から、多額のカネをもらって発言している「原発知識人」というのは、議論の余地なく、現に存在するし、「人間はカネに弱い」というのも、動かざる事実だ。
もちろん、中には「カネでは動かない人」もいるにはいるが、それは間違いなく「少数派」なのだから、「知識人」も大半は「カネで転ぶ」と考えるのが、常識的かつ至当なものの見方なのではないか。

だとすれば、「日米安保体制」という日本の政治的根幹にかかわる政策を揺るがしかねない「米軍基地本土引き取り論」に対して、政府を含めた多数派である「日米安保」体制維持強化派から、「カネで操を売る二流知識人」を買収するくらいのカネの出ない道理がないし、そうしたことが無いなどと考える方が、むしろ不自然であり、非現実的なのではないだろうか。

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「米軍基地本土引き取り論」反対派の論者たちが、心から自分個人の意見として反対しているのか、なんらかの「裏事情」があって「反対」しているのか。それは、本書における議論を読んでもらえば、おおよそ見当がつくだろう。

自分の信念で語っているのなら、その主張には「一貫性」があるはずだが、そうではない場合は、どうしてもロジックに無理が生じてしまい、高橋の鋭い反論を受けきれないものとならざるを得ないからである。

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初出:2021年9月8日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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