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イ・ジュンイク監督 『金子文子と朴烈』 : 信念に殉じた人たちの背中

映画評:イ・ジュンイク監督『金子文子と朴烈』2017年・韓国映画)

今年は「関東大震災」から100年ということで、大震災直後に発生した「朝鮮人虐殺」事件を扱った森達也監督の『福田村事件』が公開されるなど、あらためてこの事件が注目されている。

個人的な記憶としては、1988年に公開された実相寺昭雄監督作品『帝都物語』で描かれた、「関東大震災」のイメージが強く残っている。特に、ミニチュア特撮による「浅草十二階」こと「凌雲閣」の倒壊シーンが、強く印象に焼きついているのだ。
これはたぶん、凌雲閣のデザインのモダンさに併せて、「浅草十二階」が江戸川乱歩の名短編「押絵と旅する男」などに印象的に描かれており、ずっと大阪在住で「浅草」という土地に馴染みのなかった私が、浅草に「乱歩ワールド」的な異世界感を持っていたからであろう。凌雲閣は、その象徴的なメルクマールだったのである。

(映画『帝都物語』より)

さらに言うと、荒俣宏による『帝都物語』の同名原作小説の初版である角川ノベルス版は、マンガ家・丸尾末広の個性的な装画によって飾られ、この小説の妖しげな魅力を何倍にも引き立てていたのだが、その丸尾が同じ頃、関東大震災にまつわる「甘粕事件」をモチーフにした無惨絵を発表しており、その背景に描かれていたのが、倒壊した「浅草十二階」であった。これが『帝都物語』のイメージとも重なって、強く印象に残ったのであった。

甘粕事件(あまかすじけん)は、関東大震災直後の1923年(大正12年)9月16日、アナキスト(無政府主義思想家)の大杉栄と作家で内縁の妻伊藤野枝、大杉の甥橘宗一(6歳)の3名が不意に憲兵隊特高課に連行されて、憲兵隊司令部で憲兵大尉(分隊長)の甘粕正彦らによって扼殺され、遺体が井戸に遺棄された事件である。
軍法会議の結果、甘粕正彦と同曹長森慶次郎ら5名の犯行と断定されたが、憲兵隊の組織的関与は否定された。
亀戸事件と共に代表的な戒厳令下の不法弾圧事件で、地震の混乱で発生した事件の1つ。

Wikipedia「甘粕事件」)』

関東大震災の混乱に乗じて、虐殺されたのは「朝鮮人」だけではなく、「社会主義者」など、国家権力の側から「反社会分子」だと見られた人たちも含まれていたのだが、私の中では、この「伊藤野枝大杉栄」のイメージが「金子文子朴烈」のそれと曖昧にダブって記憶されていたのである。

私は、2006年の在特会(在日特権を許さない市民の会)」の設立以降、インターネット世界に跋扈した「ネット右翼=ネトウヨ」の、「在日」外国人、特に、南北朝鮮人と中国人に対する「差別」に強く反発し、彼らネトウヨ のネット言説に反抗して、長らく喧嘩を繰り返してきた人間である。だから、当然のことながら「東京大震災における朝鮮人虐殺事件」についても、否応なく興味を持ってきた。
つまり、私の中では、関東大震災を背景として、江戸川乱歩と『帝都物語』と「甘粕事件」と「朝鮮人虐殺」が、一種の観念連合をなしていたのである。

朝鮮人虐殺を描いた「関東大震災絵巻」

以上のような事情で、私は大杉栄に興味を持って、その著書を数冊読んだし、金子文子についても、(読んだことのなかった伊藤野枝のイメージとダブらせながら)その印象的なタイトルの著書『何が私をこうさせたか 獄中手記』(岩波文庫)を何度か購入している。まるで戦前の探偵小説のタイトル、浜尾四郎橘外男のそれのようではないか、などと感じたものだ。
だが、金子文子の本は、購入する度に積読の山に埋もれさせてしまい、いまだに読んではいない。

今回、イ・ジュンイク監督の『金子文子と朴烈』が、2019年の日本での初上映以来のリバイバル上映となったのは、無論、「関東大震災100年」と、たぶん『福田村事件』の公開に併せて、ということだったのだろう。私もそれで、この2本の映画を同日に観たのであった。

 ○ ○ ○

そんなわけで私は、金子文子については、なんとなく程度のイメージはあったものの、朴烈については、まったく無知だったし、名前すら記憶してはいなかった。この映画を観て、いわゆる「朴烈事件」のあらましを初めて知ることになったのである。

本作『金子文子と朴烈』「あらすじ」は、次のとおり。

『1923年、東京。社会主義者たちが集う有楽町のおでん屋で働く金子文子は、「犬ころ」という詩に心を奪われる。この詩を書いたのは朝鮮人アナキストの朴烈。出会ってすぐに朴烈の強靭な意志とその孤独さに共鳴した文子は、唯一無二の同志、そして恋人として共に生きる事を決めた。ふたりの発案により日本人や在日朝鮮人による「不逞社」が結成された。しかし同年9月1日、日本列島を襲った関東大震災により、ふたりの運命は大きなうねりに巻き込まれていく。 内務大臣・水野錬太郎を筆頭に、日本政府は、関東大震災の人々の不安を鎮めるため、朝鮮人や社会主義者らを無差別に総検束。朴烈、文子たちも検束された。社会のどん底で生きてきたふたりは、社会を変える為、そして自分たちの誇りの為に、獄中で闘う事を決意。ふたりの闘いは韓国にも広まり、多くの支持者を得ると同時に、日本の内閣を混乱に陥れていた。そして国家を根底から揺るがす歴史的な裁判に身を投じていく事になるふたりには、過酷な運命が待ち受けていた…。』

しかし、これだけでは、この事件の広がりが理解できないだろうから、「Wikipedia 朴烈事件」からも、その経緯を紹介しておこう。

朴烈事件(ぼくれつじけん、パク・ヨルじけん)は、1923年に逮捕された朝鮮人無政府主義者の朴烈とその愛人(内縁の妻)でもある日本人の思想家の金子文子が皇室暗殺を計画したという大逆事件と、その予審中の風景を「怪写真」として世間に配布させて野党の立憲政友会が政府批判を展開したという付随する出来事。朴烈・文子事件とも言う。
実際にはテロ事件は発生しておらず、未遂の事件が大逆罪に問われ有罪となったのは予審や大審院での朴烈と文子の言動や担当官吏の思惑によるところが大きい。また事件は、むしろ政治利用された面が大きく、実体の伴わないものであった。

事件の概要

検挙と裁判
朴は朝鮮人の無政府主義団体である黒濤会を結成して中心となっていたが、大正天皇の写真を壁に張り、ナイフで刺したのを尾行の刑事に見られたことから、関東大震災後の1923年9月3日に金子とともに検挙され、上海から爆弾を入手し天皇暗殺を計画したとして1925年10月20日に起訴された。
1923年9月1日に起きた関東大震災の2日後、戒厳令下に朝鮮人が民衆によって私刑を受けた震災後の混乱期に、朝鮮人無政府主義者・朴烈と愛人の文子が治安警察法に基づく「予防検束」の名目で検挙され、東京淀橋警察署に連行された。
当時の警察・司法当局は、かねてから朝鮮民族主義と反日運動を主催してきた朴烈が「朝鮮人暴動」を画策し、爆弾テロを企図していたとして、朝鮮人殺害に対する国際的非難を浴びた場合の弁明や私刑に参加した日本人が起訴に至った場合の情状酌量を与える大義名分とすることで事態を収拾することを計画していた。
予審を担当した東京地方裁判所判事の立松懐清が、翌1924年2月15日に両名を爆発物取締罰則違反で起訴したが、司法当局は朝鮮独立運動家や社会主義者らへの威圧を目的として、起訴容疑を大逆罪に切り替えることとし、立松もこれに同意した。一方の朴も「(関東大震災がなければ1923年秋に予定されていた)皇太子裕仁親王の御成婚の儀の際に、大正天皇と皇太子を襲撃する予定であった」とする大逆計画を認める素振りをした。これについては、収監中の朴烈と文子が並んで予審法廷に立てられてなおかつ取調中に朴の膝に文子が座って抱き合うという行為に出ても立松らが見てみぬ振りをするなど、「大逆事件を告発した司法官」としての出世を望む立松と「朝鮮民族独立の英雄」としての名声を得て死ぬ事を希望した朴烈の思惑の一致があったとする説もある。
朴烈は1925年5月2日に、文子は同年5月4日にそれぞれ大逆罪に問われて起訴された。
翌1926年3月25日、両者に死刑判決が下され、続いて4月5日に「天皇の慈悲」と言う名目で恩赦が出され、共に無期懲役に減刑された。ところが朴烈は恩赦を拒否すると言い、文子も特赦状を刑務所長の面前で破り捨てたと言われている。文子は7月獄中で自殺した。

怪写真の浮上
だが、事件はこれで終わりではなかった。7月29日になって予審中に朴烈と文子が抱き合っている写真が政界や報道関係に公開される。これはもともと刑死を覚悟した朴烈が母に送るために撮らせたというが、写真の存在を知った西田税が、第1次若槻内閣の転覆を計画する北一輝の意向を受けて入手・公開したものであった。これに世論は騒然とし、司法大臣の江木翼が暴漢によって汚物を投げつけられる事件も発生して、立松懐清は責任を取る形で免官された。
事態を重く見た衆議院では、野党立憲政友会の森恪や小川平吉らが取り締まりの甘さと国体観念の薄さを材料に、若槻内閣(与党憲政会)を追及する姿勢を見せて帝国議会は空転し、1927年1月18日には立憲政友会・政友本党が内閣弾劾上奏案を上程した。
ところが前年の暮れ(1926年12月25日)に大正天皇の崩御という事態を受け、国民が喪に服している時に政争とは如何なものかという意見が与野党から寄せられ、1月20日に若槻禮次郎(内閣総理大臣・憲政会)・田中義一(立憲政友会)・床次竹二郎(政友本党)が急遽、議会内で3党首会談を開き「政治休戦」が成立、世論もこれを支持したために北や西田の期待した倒閣の思惑は外れることになった。
しかし裁判の中で、写真の撮影日が政友会を含む護憲三派を与党とする加藤高明内閣時の1925年5月2日であり、若槻内閣に責任がないことが判明したにもかかわらず、加藤高明内閣で法相を務めた小川平吉は田中内閣の鉄道相となっても憲政会を攻撃し続けて政争の具とした。

判決後
恩赦を希望しない受刑者、しかも大逆罪の有罪者で改悛の意思のない者への減刑については政府を批判する声が多く、世論も批判的であった。しかし憲法学者の美濃部達吉が政府の判断を適正であったと新聞紙面で弁護している。
1926年7月22日から翌日にかけて、文子は宇都宮刑務所栃木支所で看守の目を盗み、格子に麻縄を結びつけて縊死したと発表された。文子の遺族は自殺を信用せず調査を求めたが、看守側の妨害もあって死亡の経緯は不明のままとなった。
朴は第二次世界大戦後の1945年10月27日まで獄中にあって、釈放後は民団の結成に関与したが選挙で敗れて韓国へ渡り、朝鮮戦争時に北朝鮮に捕虜として連行され、1974年に71歳で刑死したと言われている。』

(「怪写真」と呼ばれた予審取調中に撮影された写真)

ほぼ全文を長々と引用したが、この「Wikipedia」の説明からすると、私の印象では、映画『金子文子と朴烈』は、かなり歴史的事実に忠実に作られている。
もちろん、事実関係に関する「解釈」については、視点の違いによって、おのずと相違はあるし、そもそもこの映画では、二人は「ヒーロー」として描かれているのだから、そこで当然、ニュアンスの違いは出てくる。

しかしながら、いずれにしろこの二人が、並大抵の人物でなかったのは、確かなことであろう。
二人して「死刑からの減刑を拒否する」というのは、朴烈に『「朝鮮民族独立の英雄」としての名声を得て死ぬ』という強い思いがあったから、という説明では不十分なものであり、また、そんな愛人に最後まで付き合おうとした金子文子の思いを説明するにも、まったく足りないものであると思うからだ。要は、信念があったからと言って、刑死の覚悟など、誰にでもできることではないということである。

(朴烈(中央)と不逞社の仲間たち)

じつのところ私には、この映画について、あまり語るべきところがない。「映画」としては、とてもよくできた「歴史的英雄の実話物語」だけれども、いまさら「この映画に学ばなければならない」ところなどなかったからだ。

ただし、それは、この映画を評価しないということでない。
要は、「学ぶ学ばない」ではなく、「やれるかやれないのか」を問われたのだ。「映画」以前に実在した二人の生き様が、私個人にその覚悟を厳しく問うてくるものだったのだ。
「彼らのように生きられるか?」という自問の切迫性においてこそ、本作は私をつかんで離さない作品だったのである。

無論、私は「無政府主義者」ではないし、「爆弾テロ」を支持するものではない。
けれども、本気で「それが必要だ」と感じたときに、それを実行することが、私にできるか。また、それで捕まったときに、彼らのような振る舞いができるのかと言えば、それは「できないだろう」としか思えないのだ。

この場合、彼らの「それが必要だ」と考えた、その中身の正当性を問うても、意味はない。
そう信じてしまったのなら、それはそれで、当人にはどうしようもないことだし、そんな「避けがたい確信」を、外から批判することで、自身の覚悟のなさを正当化しようとするのは、卑怯な自己欺瞞しでしかないからである。

私は昔から、こうした非凡な生き方、死に方をした人たちの存在を知ったとき、「自分に、それができるか?」と問わずにはいられなかったし、同時に「できないだろう」と思わずにはいられなかった。
虐殺された無政府主義者や社会主義者だけに限った話ではない。例えば、キリスト教西欧における「異端審問」などで拷問死した人たちのことが描かれたりしていると「私なら、瞬殺でゲロしてしまうだろう」と思わざるを得ない。水責めにされたり、生爪を剥がさりして、どうしてそれに耐えられるというのだろうか。

無論、耐えられずに、自白したり転向したり仲間を売ったりした人の方が圧倒的に多いのだろうことは承知している。
しかし、私には、そんな人たちを責める資格などないとしか思えないし、そうした人たちの存在を自身のアリバイに使うことなどできないから、いつでも問題となるのは、そうした逆境に耐えて生き抜いた人、あるいは、最後まで抵抗し抜いて死んでいった、少数の非凡な人たちということになる。
少数とはいえ、そんな人が実在したという事実において、私はいつでも「おまえはどうか?」と問われている気になるのだ。

私が「文筆」において、しばしば「過激な本音主義」なのも、せめて「文筆での抵抗」くらいは妥協なく貫きたいという気持ちがあったからに違いない。
それで損をしたり、人から嫌われたり憎まれたりしたところで、命まで取られるわけではないし、「他の人が臆して書けない、書くべきことを書いた」という満足感が持てる。
「信念に生き、それに殉じて死んでいった人たち」に比べれば、私の抵抗など、お遊びのようなものでもあれば、アリバイ作りでしかないのだとしても、少なくとも周囲の大半の人間に比べれば「随分まし」だと、自己満足くらいはできるからである。

そんなわけで、私としては、この映画を観て、「日本人は、歴史を直視しなければならない」とか「主人公たちの、一途な生き方に衝撃を受けた」とかいった、どこか「他人事」のような感想は持てなかった。まして「映画として」よくできているとかいないとかいったことを論ずる気になど、到底なれなかったのだ。

「信念に生き、信念に殉じて死ぬ」というのは、もちろん「素晴らしい」と思うし、「美しい」とも思う。
「いやいや、平凡な生き方こそが」などというのは、所詮、覚悟の持てない者の、誤魔化しの自己正当化でしかないと思うから、そうした立場は採らないのだが、しかし、「素晴らしい」「美しい」と思っても、それが実行しきれないであろうというところに、私の抱える苦さがある。だがまた、それくらいは引き受けて生きるという妥協しか、私の能力では不可能だと思うから、それを生きているだけなのだ。

もちろん、何も考えずに、考えなくても済む、平凡かつ無知な人生を全うすることも、それはそれなりに価値のあるものではだろう。
しかし、知ってしまったものは、忘れてしまうことも無視することもできない。なぜなら、「忘れようとしている自分」「無視しようとしている自分」「逃げようとしている自分」だけは、無視することができないからである。

(獄中で書いた自伝を、法廷で示す金子文子)

なぜ私には、金子文子や朴烈のような生き方ができないのであろうか?

無論それは、「持って生まれたもの」や「育ち」が違い、彼らのような「強靭な精神」を、私自身が育て得なかったからだろう。
だが、私にはそれが悔しいのだと思う。
どうして、彼らにできて、私にはできないのか…。

私は、それを「オリンピック選手のようには走れないのと、同じことだよ」とは思えない。
なぜなら私は「オリンピック選手」や「大金持ち」や「権力者」の「ように」なりたいとは思わないけれども、彼らのように生きたいという思いは、どうしても否定できなかったからだろう。

それほど私は、彼ら「信念に生き、それに殉じて死んだ」人たちに、魅せられているということなのだと思う。
これは、ひとつの「永遠の片思い」とでもいうべきものなのかも知れない。


(2023年9月25日)

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