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中野美代子 『なぜ孫悟空のあたまには輪っかがあるのか?』 : 学問の本来性

書評:中野美代子『なぜ孫悟空のあたまには輪っかがあるのか?』(岩波ジュニア新書)

中野美代子『西遊記』関連書は、『西遊記の秘密 タオと煉丹術のシンボリズム』『西遊記 トリック・ワールド探訪』に続いて、これが私の3冊目となるわけだが、中野の『西遊記』関連書は他にもあって、おおむね次のようになる。

・『孫悟空の誕生 サルの民話学と「西遊記」』(1980年)
・『西遊記の秘密 タオと煉丹術のシンボリズム』(1984年)
・『孫悟空はサルかな?』(1992年)
・『西遊記 トリック・ワールド探訪』(2000年)
・『『西遊記』XYZ このへんな小説の迷路をあるく』(2009年)
・『なぜ孫悟空のあたまには輪っかがあるのか?』(2013年)

しかし、上は、タイトルに「西遊記」または「孫悟空」というワードが入っているものを挙げただけで、例えば「三蔵法師」を扱ったものなどは外している。実質的には、実在の玄奘三蔵についての本のようだったからだ。

しかし、そのあたりも挙げると、次のようになる。

・『中国の妖怪』(1983年)
・『三蔵法師 三千世界を跋渉す』(1986年)
・『天竺までは何マイル?』(2000年)

ここで『中国の妖怪』を挙げたのは、私自身が同書を読んでおり、そこに『西遊記』に登場する「妖怪」への言及があることを知っているからである。
言い換えれば、タイトルだけでは『西遊記』への言及の有無がわからないため、ここに挙げることができなかったものが、他にもあるかも知れない。なにしろ中野は、日本で唯一の『最遊記』の全訳者であり、その権威だからである。

しかし、私が中野美代子という人を敬愛するのは、その研究の根幹となる部分が、生き生きとした「知的好奇心」であり、それが幾つになっても揺るがない点である。また、そうした点で中野は、「学者」であるだけではなく、澁澤龍彦に連なる「趣味人」でもあり得ている。

どんなにジャンルであれ「学者」の世界というのは、まず「正確さ」や「確かさ」、つまり「論拠」というものが重視される。言い換えれば「科学的でなければならない」ということ。「芸術家」や「趣味人」のように、「直観」や「想像力」を働かせるだけでは、それは「学問ではない」と言われてしまう。

たしかにそれはそうなのだけれども、往々にして「学問」がつまらなくなるのは、「好奇心」や「空想の楽しみ」といった「初心」を蔑ろにして、無味乾燥な「資料調べ屋のルーチン」に堕してしまうからではないだろうか。
だからこそ、多くの場合「学者は学者、趣味人は趣味人」と分化してしまいがちなのだが、中野美代子の場合は、そのたくましい想像力とバイタリティによって、両者を両立せしめ、それを「中国文学」学会にも認めさせてしまったのだから、その非凡性は推して知るべしなのだ。

 ○ ○ ○

さて、今回読んだ『なぜ孫悟空のあたまには輪っかがあるのか?』は、「岩波ジュニア新書」というレーベルから刊行されていることからも明らかなように、若者向けの『西遊記』入門書を意図して書かれたものである。
だが、だからといって舐めてはいけない。本書には、中野のこれまでの『西遊記』研究の、いちばん面白い部分が、整理され、凝縮され、そのうえで噛み砕いて書かれているのだから、読みやすいというだけで、舐めて良いような本ではないのである。

「あとがき」によると、『西遊記』のガイドブックを意図して書かれたのは、『西遊記 トリック・ワールド探訪』『『西遊記』XYZ このへんな小説の迷路をあるく』に続く、本書が3冊目ということであり、言い換えれば、これまでに書かれた、それ以外の『西遊記』関連書は、基本的には「研究書」だということである。

もちろん、中野は常に、多くの人に『西遊記』に興味を持って欲しいと考えているから、ことさらに研究書研究書したような堅苦しい書き方はせず、いかにもこの人らしい「べらんめえ調」を織り混ぜたりもしている。
だが、内容的には「研究の最新の成果」を語っていて、例えば『西遊記の秘密 タオと煉丹術のシンボリズム』などは、読んで、すっと頭には入ってこない、複雑かつ難しい部分もないわけではない。なにしろ、書いている中野自身が「最先端の部分で、新たな可能性を模索している段階」なのだから、素人が読んでわかりにくい部分があるというのは、むしろ当然なのだ。

その点、本書のような入門書は、それまでの研究成果を踏まえ、しかもそれが、すでに「こなれたもの」になった段階で書かれたものだから、わかりやすい。「入門書」だからわかりやすいのではなく、学説的に完成度が高まり、洗練され練り込まれた見解が書かれているから、わかりやすいのである。

したがって、本書に書かれていることの大半は、これまで読んだ2冊の中で、おおむね語られていることではある。しかし、にもかかわらず、とても面白く読むことができたのは、これまでは一知半解だった点について、復習を兼ねた整理ができて、より深く理解でき身についたという感覚を持つことができたからであろう。なんとなく知っているというのではなく、大筋であろうと「わかった」という感覚が持てるようになった点で、満足を得ることができたのである。

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そんなわけで今回は、『西遊記』そのものについてどうこうというよりも、これまでは読み取れなくて見逃していた点、今回初めて気づいた「面白い」点を、いくつか紹介したいと思う。

『 中国人は昔から、四神(以下に挙げる四つの方向の象徴となる動物)や十二支を方向にあてはめて考える文化をもっていました。33ページの図4の内側が四神ですが、北に位置する玄武(蛇と亀がからみあったもの。 玄は黒)と南に位置する朱雀(雀ではなく、鳳凰のような架空の鳥)は、いまは無視して、東に位置する青龍と西に位置する白虎に注目しましょう。この青龍と白虎、つまり龍虎というのは、とても大切なペアなのです。』(P29)

「青龍・朱雀・白虎・玄武」という「四神」(四獣、四象、四神獣)というのは、「風水」にも使われる象徴的イメージで、「陰陽師」が大好きな京都人だけではなく、多くの人が聞いたことくらいはあるものだと思う。いかにも「厨二病」心をくすぐるアイテムなのだ。

だが、私がここを読んで、はたと思いついたのは、「阪神タイガース」と「中日ドラゴンズ」のことであった。一一もしかして、この二つのチーム名は、「風水」に関係しているのでは、という思いつきである。

(阪神タイガースがセ・リーグ優勝、18年ぶり6回目 岡田監督2度目)

先日18年ぶりリーグ優勝を決めた「阪神タイガース」は、いうまでも「西の虎」である。だが、「中日ドラゴンズ」が「東の龍」かと言えば、そうではない。中日の本拠地は、いうまでもなく、愛知県名古屋市であり、「中日」というだけあって、地理的に言えば「中部地方」つまり「日本の真ん中」であって、「東」とは言い難い。

しかしである、すでにお気づきの方もいらっしゃるかもしれないが、「風水」が本格的に導入された日本の中心都市とは、まず「京都」なのだ。一一つまり、「京都の帝」を中心として考えれば、「西に虎」「東に龍」ということになって、見事に「風水」的な配置となるのだ(!)。

ただし、では「京都」の北に「タートルズ」があったのか? さすがに野球チームで、足の遅い「亀」をチーム名とすることはできなかっただろう。
では「スネークス」なら可能なのでは? でも、ちょっと不気味すぎるか?
かといって「タートルアンドスネークス」というわけにもいかないだろう。

一方、「南の朱雀」はどうだろう。
しかし「ヤクルトスワローズ」は「東京」であって、「京の都」の「南」ということにならないのはもちろん、「東京」の南ということにもならないから、これはやはり「朱雀ではなく雀」ということでしかないのであろう。

もちろん上の話は、半分は冗談だが、半分は本気である。
「阪神タイガース」や「中日ドラゴンズ」の命名した人たちの中には、「風水」ということも頭の片隅にあった人もいて、そう名づけた可能性も、まったく無いとは言い切れないのではと、私は思うのだ。

ちなみに、それでは「読売ジャイアンツ」はどうなのかというと、これは「京都」からすれば「東蛮の巨人族(ティターンズ)」ということになるのではないか。
逆に、彼ら「東蛮」からすれば、すでに「天皇=帝」は「東京」に移ってひさしいのだから、彼らはその「天皇」を守護している、という立場なのかも知れない。

そして、そんなわけであれこれあった結果、『などてすめろぎは人間となりたまいし』(三島由紀夫英霊の聲」)ということになってしまったのではないだろうか。

一一などと勝手なことばかり言うと、関東の方からお叱りを受けるだろう。もちろん、上に書いたことは、ほぼすべて「冗談」である。
私は、筋金入りの「無神論者」であるから、「風水」なんてことはカケラも信じてはいないし、「天皇」だって、初めからずっと人間だったと確信している。

ただ、人間というのは、こういう「想像力」を働かすものであり、それがしばしば「本気」になってしまうこともあるというのは、知っておくべきことだろうとは思うのだ。

 ○ ○ ○

『 (※ かつて中国では)ある王朝が二、三百年あるいは四百年ほどつづきますと、その王朝が腐敗し、末期的な症状が出てまいります。そうなると、「この王朝をたおし、新しい王朝を建てよという天命がくだった」と主張し、仲間をあつめて行動に出る人物が登場し、じっさいに新しい王朝を建てます。そうなると、皇帝の姓が変わりますね。これを「易姓革命」といいます。姓を易え(かえ)、天命を革める(あらためる)、という意味です。
 「革命」ということばは、いまでは、支配されていた階級が、支配していた階級から国家権力をうばい、それまでの社会の秩序や体制を変えるという意味でつかわれることが多く、たとえば、フランス革命などがそれにあたります。これは、revolutionという外国語を訳すときに、「易姓革命」の「革命」を、意味がすこしずれるのには目をつぶってあてたからなのです。
 ところで、日本の天皇家には、姓がありません。ですから、日本には易姓革命はおこりえない、ということになっていますが、古代には不明な点が多いので、よくわかりません。』(P58〜59)

天皇家に「姓がない」理由なんてことは、これまで考えたこともなかったのだが、ここを読んで、なるほどと思った。
中国に学び、「皇帝」に倣って「天皇」というものを考案したのだから、その際に、こうした歴史に配慮して、「天皇家」には「姓」をつけなかった、ということなのかも知れない。
だとしたら、いろいろと考えたものである。

だが、今となってみれば、たしかに「易姓革命」は起らなくても、ただの「革命(revolution)」ならば、起こることを止め得ないということにもなろう。

どちらにしろ、昔も今も、多くの人は、こうした「オカルト的な発想」で、あれこれと本気の「験担ぎ」をしている、ということなのだ。いやはや…。

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『 沙悟浄が日本では河童になっているのは、原作から見ればあきらかに誤りですが、沙悟浄はもともと水の化けもの、つまり水怪ですし、河童も水怪なのですから、まぁ、よしとしましょう。ある国のある話が、よその国につたわったとき、文化や民俗(民間でのいいつたえ)のちがいによって、変化することがあります。日本に来て河童になってしまった沙悟浄も、日本の民俗文化の産物といえるでしょう。
 中国の『西遊記』のさし絵を見ますと、沙悟浄は、普通の人間の、ひげ面のお坊さんのすがたをしております。(中略) どんな動物の化けものだったのかは、いまではすっかりわからなくなりましたので、そっとしておくのがよさそうです。』(P118)

私も、沙悟浄河童だと思い込んでいた。実際、日本で『西遊記』がアニメや実写ドラマになる場合、沙悟浄を河童として描くことが多いからであろう。

1978年のテレビドラマ版『西遊記』

だが、中野が言うとおり『最遊記』では、沙悟浄は「水怪」ではあっても「河童」だとは、ひとことも書かれていない。
たしかに、沙悟浄が、三蔵の「西天取経」の旅のお供として弟子になった際、三蔵は沙悟浄の頭のてっぺんの毛を剃って「沙和尚」という名を与えたという記述はあって、要は「頭を剃って仏門に帰依した」ということであり、決して「河童の皿」として、頭頂部に毛がなかったわけではない、ということだったのである。

だが、ここまではいい。しかし、私は上の『中国の『西遊記』のさし絵を見ますと、沙悟浄は、普通の人間の、ひげ面のお坊さんのすがたをしております。』の部分を読んで、ハタと気づいたことがあった。
長らくの謎であったことの、これはヒントなのかもしれないと。

どういうことかと言うと、アニメ『悟空の大冒険』の沙悟浄は、河童ではないのだ。

幼い頃、私は『悟空の大冒険』(杉井ギサブロー監督・1967年)を楽しく視ていたのだが、ひとつだけ引っかかっていたことがあった。それは、猪八戒は当たり前に豚なのに、沙悟浄が河童ではなく、ひげづらの人間のおじさんだったことである。なぜ、河童ではないのか?

Wikipedia「悟空の大冒険」を見ても、そこまでの説明はない。
徹底的に調べれば、この作品で沙悟浄が人間として描かれた理由が判明するのかもしれないが、そういう「資料調べ」よりも、あれこれ想像する方が私の性分にあっているから、それ以上調べる気はない。
だがここで、少なくともひとつ言えるのは、『悟空の大冒険』で、沙悟浄を河童として描かなかったのは、決して誤りではなかった、という事実である。

(沙悟浄:頭のてっぺんが平らなのは、「皿」を暗示しているのだろうか?)

私の記憶によれば、『悟空の大冒険』の沙悟浄は、長髪に髭を蓄えたおじさんで、たしかあちこちを掘り返して「お宝」だか「金脈」だかを探していた「トレジャーハンター」あるいは「山師」かなんかだったと思う。
したがって、原作の「水怪」とは、真逆の「山」あるいは「土」「金」属性だし、頭を丸めていないという点でも違う。つまり、三蔵のお供はしているけれど、仏門に入っているわけではない、いかにも俗人なのだが、この設定には、何か深い意味があるのだろうか?

「山」とか「土」「金」などというと、中野ファンとしては、すわ「五行関係か!?」などとも思ってしまうが、そのあたりは難しくて面倒くさいので深追いはしない。
ただ、私としては、『悟空の大冒険』が沙悟浄を「ひげづら人間」として描いたのは、図象的には間違いではなかった、という事実を知って、面白いと思い、嬉しくも感じたのである。

そして、そう気づかされると、『悟空の大冒険』のメインキャラクターの中では、最も魅力に欠けるキャラクターであった沙悟浄が「何をしていたのか」それを、少し詳しく確認したいという興味が湧いてもきた。

まあ、それを実際に確認する機会がおとずれるかどうかは別にして、この「一文にもならない知的好奇心」こそが、大切なものだということを、中野美代子は、『西遊記』の探究を通して教えてくれたのだと、私はそう思っているのである。


(2023年9月18日)

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