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中野美代子 『契丹伝奇集』 : 野暮な「文学」などではない〈オブジェとしての奇譚〉

書評:中野美代子『契丹伝奇集』(河出文庫)

河出書房新社からの初文庫化かと思ったら、1995年に文庫化されたものの新装版であった。初版は1989年で、版元は日本文芸社である。

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私は本書を、初版の日本文芸社版単行本から贖っている。それまで名前も知らなかった出版社から、『契丹伝奇集』『鮫人』『ゼノンの時計』と、とびきり豪華な装幀の中野美代子の本が、いきなり続けざまに刊行されたからなのだが、とりわけ最初の『契丹伝奇集』のインパクトは大きかった。

より正確に言えば、『契丹伝奇集』や『鮫人』は、「中華」世界を舞台にした小説集と戯曲集らしく、派手なくらいに煌びやかで豪奢な装幀の函入り本だったのだが、特に目を惹いたのは、布装の書籍本体で、使われている布地が、文学書には類を見ない豪華華麗なものだったのである。
一方、函の方は、意匠そのものは悪くなかったものの、コーティングされたつるりとした紙質が意匠には合っておらず、その点だけが装幀デザイン上のミスとして、私にはとても残念に思えたのだった。

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ともあれ、極めて豪華な装幀本であるにも関わらず特に高価という訳でもなく、出版社の中野本刊行にかける意気込みが十二分に感じられたので、ひとまず「これは買っておかねばならない本だ」というのが、当時の私の率直な気持ちであった。読むのはいつでもできるが、こんな美しい本は、新品ピカピカのうちに購入して所蔵しておかなければならない、と考えたのである。

だから、買ってすぐに硫酸紙でカバーを掛けたら、それで一安心してしまい、今日まで読む機会を逸してしまった。
『契丹伝奇集』の初文庫化の際には、すでに中野本のコレクションを始めていたはずから、それも購入しているはずなのだが、結局はその時も読まずに死蔵してしまったため、今では、購入したのかどうかの記憶さえ定かではないのである。

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中野美代子を初めて読んだのは、今は亡き福武文庫から刊行されていた『カニバリズム論』だと思う(初版単行本タイトル『迷宮としての人間』。1970年代当時、面白い本を出していた潮出版社からの刊行で、村上芳正の装幀が印象的だった)。

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この『カニバリズム論』がとても面白かったし、高山宏が、本文庫『契丹伝奇集』に収められた、本書単行本刊行時に寄せた書評「『契丹伝奇集』をめぐって 奇譚を口実にポップ・マニエリスム」で『ポスト澁澤龍彦の一番手と目されている中国文化史家、中野美代子氏』と書いているとおりで、私は、大好きな澁澤龍彦周辺の文学者として中野美代子に注目し、その著作を片っ端から蒐めだしたのだった。
そして、今思えば、中国や中国文学に興味のなかった私が、中野美代子に惹かれたのは、中国文学の特殊モチーフとしての「桃源郷=異界訪問譚」、「壺中天・胡蝶の夢=メタフィクション」、「仙人・仙術=脱俗」といったところが、本質的に私の好みと合致していることを、中野の著作が教えてくれたからであろう。

中野美代子の著作は、翻訳書や共著を除くと40冊ほどになるが、たぶん、私はそのすべてを所蔵している。一一所蔵しているのだが、読んだものはごく一部だった。
昔の読書ノートによると、前記『カニバリズム論』の他に『孫悟空の誕生』『南半球綺想曲』『耀変』『中国人の思考様式 - 小説の世界から』の5冊だけ。これに今回の『契丹伝奇集』を加えても、わずか6冊(他に、弟子の武田雅哉との共編書『中国怪談集』も読んではいる)。
昔読んだ5冊の中で、はっきりと印象に残っているのは、最初の『カニバリズム論』と、久生十蘭のパスティーシュ長編小説『南半球綺想曲』だった。本文庫『契丹伝奇集』所収の『耀変』は、初版の響文社の単行本(古本)で読んでいるのだが、内容をほとんど記憶していなかった。当時の私にはあまり楽しめなかったということであろう。

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そんなわけで、中野美代子の代表小説集であろう『契丹伝奇集』を今度こそ読もうと、今回の新装文庫版を贖い、ついに読了することができたのである。

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さて、肝心の『契丹伝奇集』だが、本作品集には、中編、短編、掌編が収められており、長いもので70ページほど、短いものだと1ページのものだが、博覧強記の手練れ中野美代子が、「趣味」で書いた「小説」の密度は、生半可なものではない。

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中野美代子は、基本的には中国文学者で、北海道大学の名誉教授になった研究者である。岩波文庫の『西遊記』全10巻の個人訳も成し遂げており、日本を代表する中国文学研究者なのだ。
だが、その文学的な造詣の広さ深さは、中国文学の範疇にとどまるものではなく、またその筆の立つこと、並大抵の小説家の及ぶところではない。自身、博覧強記で知られる高山宏は、前記の書評の冒頭でこう書いている。

『 古今東西の正史秘史に通じ、ポスト澁澤龍彦の一番手と目されている中国文化史家、中野美代子氏の多彩の面目躍如たる綺譚集、一読魅了とはこのことである。中国、アラビア風の幻想物語の語り口の達者なことはこれは氏の専門だから別段改めて驚くまでもないが、描かれる世界に応じて文体自体くるりくるりと万華鏡のごとくに変幻とどまることを知らぬ自在無碍に、作品世界に湿潤にのめりこむことをよしとしない乾いたマニエリスムを感じて気持が良い。作品世界を完全にコントロールしきり、これと遊び抜くところが、好くにしろ嫌うにしろ、中野綺譚世界の本領である。私小説は嫌いと私自身ことわっているが、そんなことは作品一篇を読めば一読明瞭である。』(P339)

これを解説すると、中野美代子の小説というのは、日本文学における「小説」とは、明らかに趣が違う、ということなのだ。

「ストーリー」で読ませるわけでもなければ、今風に「キャラクター」で読ませるわけでもないのは無論、日本の「文学」的に「人間を描く」わけでもなければ、「人間の内面」やその「葛藤」を描いたり、何らかの「テーマ」を追求したり「掘り下げたり」するものでもない。
中野美代子の小説は、徹頭徹尾、「作者」は無論、「人間」とも切れたところに成立した、純粋に美的な「譚」の結晶体なのである。人間的な部分を極力排除して、純粋な「譚」へと結晶化させられ、作者からも切り離されて自立した「譚のオブジェ」なのだ。

だからそれは、読者の「共感」や「理解」を拒絶する。作者自身は無論、読者にも、作品内の「独立宇宙」へ『湿潤にのめりこむことをよしとしない』。つまり、ただただ「外から愛でる」ことだけをわずかに許す、孤高の「美的存在」なのである。

したがって、普通の「小説」を読むような気持ちで読めば、その硬質かつ魅惑的な世界に接することは、とうてい叶わない。中野美代子の「綺譚=伝奇」とは、読者サービスなどとは縁も所縁もない「冷たく近寄りがたい美姫」ごとき存在であり、通俗下賤の我々など、それを遠望して憧れるしかないような存在なのだ。一一高山が『好くにしろ嫌うにしろ』と断っていたのも、そうした事情からなのである。

だから、本書を評するのに「面白い」という言葉ほど、不適切なものはない。
本書に収録された作品はいずれも、超俗的に「稀有」なものであり、その意味で「有り難い」ものなのだ。

そんな作品が、「お客様第一主義」を掲げる、偽善的な「資本主義出版物」の牛耳るこの世界に慣れた読者に、広く受け入れられるものでないというのは、もはや自明であろう。
だが、それで良い。本質的に、本書のような作品は、広く喜ばれるのではなく、深い深い海底で、人知れず光芒を放っている宝玉のごときものだからである。

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初出:2021年10月1日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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