私の 澁澤龍彦 : 磯崎純一 『龍彦親王航海記』
書評:磯崎純一『龍彦親王航海記』(白水社)
非常に完成度の高い、篤実な「澁澤龍彦伝」であり、今後は本書が、澁澤龍彦研究のひとつの基盤になるであろうことは間違いない。
澁澤晩年の担当編集者としての直接体験を盛り込みつつも、基本的には、膨大といって良いほどの澁澤関連の文書資料を読み込み、これをよく整理していて、決して主観に流されてはいない。本書が「伝記」であり、「評伝」と称さない所以である。
そんなわけで、本書の評価はこれで十分であろうから、あとは本書で紹介された、いくつかのエピソードについて、個人的に思ったところを書いておきたい。それにより、結果として、本書に紹介された、「澁澤龍彦らしい」エピソードのいくつかを、より身近に感じていただけることにもなるはずだ。
(※ なお、以下の「引用文中の引用文」については、段落としできず、原文にある1行空けだけなので、ご注意いただきたい)
私の場合、基本的には、澁澤龍彦の文章(『高丘親王航海記』は別にして、主にエッセイ)のファンであって、翻訳の方には、さほど興味がなかった。
それでも、澁澤自身の著作として『サド復活』『サド侯爵の生涯』『城と牢獄』などがあるし、澁澤を語る上で決して落とせない、かの「サド裁判」もあるから、マルキ・ド・サドについては、多少の興味も持った。
というか、サドを読まないことには、澁澤がどんなものに惚れ込んで、どう評価していたのかが掴めないので、何冊かは読んでみたわけだが、ハッキリ言って退屈。とうてい、面白いなどとは思えなかったのだが、澁澤はこういう「極端に変なの」を面白いと言っているのだと、そうわかっただけでも、読んだ価値は、たしかにあった。
私はコレクター気質の人間だったから、ユイスマンスの『さかしま』は、面白かったとは言えないまでも、とても興味深く読んだ。
また、美術部にいたこともあって、もともと絵画には興味があったから、澁澤が『幻想の画廊から』や『幻想の彼方へ』などで紹介した画家たちについても、好きとまでは言えないが、サドと同様に「澁澤は、こういう変なのが好みなのか」ということで興味を持つことはできた。
さて、肝心のジャン・コクトーなのだが、私は長らくコクトーに興味がなかった。澁澤が初期に翻訳した作家だと知ってはいたが、澁澤が、そこまでコクトーを好きだったという認識までは無かったのだ。
私がコクトーに興味がなかったのは、まずコクトーに関しては、澁澤に教えられる以前から、有名な作家として、その名前だけは知っていたからで、そのため、かえって「澁澤の好きな作家」という印象が薄く、単に「有名な作家」というイメージだったからだろう。
また、私は「詩オンチ」を自称する人間なので、「詩人」と呼ばれる人への興味が薄かったということもあろう。
さらに言うと、澁澤龍彦という人は「好きなものについてしか書かない」ということ信条としているから、逆に言えば、澁澤が「好きだ」と書くのは当たり前のことで、それがどれくらい好きなのかがわかりにくかったということもある。
サドのように、その作家だけで何冊も本を書いているのなら、否応なくその作家が、澁澤にとって重要な存在だというのはわかるが、コクトーを表題にした澁澤自身の著作は無かったし、前述のとおり、私自身、澁澤の翻訳書にはさほど興味がなかったから、結果として、澁澤にとってのコクトーの大きさを、ずっと見落としてきたのである。
ところが、昨年退職して自由になる時間が増えたため、それまでは読書を優先して自粛していた、映画を頻繁に観るようになった。そして、そんなところへ、たまたま「ジャン・コクトー映画祭」という、コクトーの映画作品を集中的に紹介する上映イベントがあったので、「コクトーは『恐るべき子供たち』くらいしか読んでないけど、映画なら楽だから、ちょっと観てみるか」という気楽な気持ちで、『オルフェ』『美女と野獣』『詩人の血』などを観ることになった。
こちらも、結果としては、面白いとまでは言えなかったものの、「コクトーとは、こういう傾向の人か」という程度のことはわかった。
そしてその上で、興味ぶかかったのが、同映画祭用のパンフレットに再録されていた澁澤龍彦のエッセイ「コクトーの文体について」で、これを読んで、どうして私にはコクトーが楽しめないのか、そして澁澤がコクトーの何に惹かれていたのがよくわかり、澁澤に対してコクトーの持つ重要な意味が、ようやく理解できたのである。
澁澤がこのエッセイで書いているとおり、澁澤にとってのコクトーの魅力とは、
といった、言うなれば「白い軽やかさ」であり、これは、むしろ澁澤晩年の個性に通じるものなのである。
さて、ここでやっと、磯崎純一『龍彦親王航海記』からの引用(2)につながるのだが、私の中の澁澤龍彦像とは、長らく「サド紹介者から『高丘親王航海記』の作家へ」というものであり、言い換えれば「重く暗く妖しげなものから、それらを脱ぎ捨てた軽やかな透明さへ」というものだった。
そしてこれは、昨年読んだ、巌谷國士による澁澤論集である『澁澤龍彦考』でも、おおよそ裏づけられたと感じていた。
ところが、引用(2)を見れば、澁澤龍彦の遍歴とは「サドから『高丘親王航海記』へ」つまり「黒から白へ」ではなく、サドの「黒」の前に、コクトーの「白」であったというのがわかる。
つまり、澁澤の遍歴としては「白から黒を経て、白に回帰した」というのが、正しい理解だということに、ここで初めて気づかされたのだ。
しかし、(2)で興味深いのは、澁澤のコクトーへの興味愛着は、ずっと変わらず継続したものではなく、一時はほとんど失われていたも同然だったという事実だ。
つまり、この事実が示すのは、巌谷國士が言うように「澁澤は、成熟することによって、軽みを身につけていった」というよりは、もともと「軽さ」や「白さ」というものをその本質として持っており、だから最初はコクトーに惹かれたのだが、その時期を越えると、澁澤は「自分に無いもの」つまり、サドに象徴されるような『もっと荒々しい、男性的な、混沌の闇の中にを手探りして行くような、一口に言えば、垂直的な思考様式』ものに惹かれるようになった、ということであろう。
だがまた、それは澁澤本来の「体質」から出るものではなかったから、最後はまたコクトーに通ずる「白い軽さ」へと回帰していったと、そう考えるべきだと気づいたのである。
そして、この「白から黒を経て白へ回帰」という「円環的(螺旋回帰的)な」澁澤龍彦の遍歴を考える場合に重要となるのは、澁澤は終始、コクトーの個性を、単純に「白い軽さ」として好意的に理解していて、じつは、コクトーも「それほど単純なものではなかった」ということに、気づいていなかったらしい点である。
私は、先の「コクトー映画祭」の後、コクトーと澁澤龍彦の関係性に興味を持って、読みやすく手に入りやすい『コクトー詩集』(堀口大學訳)を読んでみた。
そして、たしかにコクトーは「白い人」ではあったけれども、コクトー自身には「黒」に惹かれる部分があったというのを、確認することができた。
つまり、『コクトー詩集』を読む以前に、先に紹介した拙レビュー「「ジャン・コクトー映画祭」をめぐって:ジャン・マレーと澁澤龍彦」で、コクトーが「濃厚に男っぽく耽美なジャン・マレー」に惹かれたという事実から、次のようなコクトー理解をすでに引き出していたのだ。
この「読み」が、コクトーの「詩」作品でも裏づけられたのである。
ということである。
そして、少なくとも、サドやブルトンの「黒い魅力」に惹かれていた頃を含めた「それ以前の澁澤龍彦」は、コクトーのこうした「黒に惹かれた部分」に十分気づいてはおらず、自身が、やはりコクトーをなぞるようにして「黒」に惹かれている、という事実に気づいていなかったという事実が、引用(2)において判明した。
つまり、澁澤龍彦自身の認識としては、単純に「白から黒を経て白へ回帰」した(白→黒→白)と表現できるのかもしれないが、実際には、最初の「白」には、すでに「黒への希求」が折りたたまれたかたちで隠されていたのであり、決して単純に「自分に無いものを求めた」とか「自分の個性とは反対の個性を求めた」といったことではなかった、ということになるのである。
コクトーがそうであったように、澁澤龍彦にあってもまた、最初の「白」には、すでに「黒」が隠されており、その隠されていた「黒」が表面化して、表面的には「白」に立ち勝った時期もあったものの、結局は「黒」一色に染まってそこに安住することがなかったというのは、澁澤もまた最初から「白と黒の両面」を併せ持っていたからであり、自覚していなかった「黒」を十分に展開した後には、それで満足して、再び「白」に振れた、ということなのではなかったろうか。
言い換えれば、澁澤は、本質的に言うならば、「白一色」だった時期もなければ、「黒一色」に染まった時期もなかったし、そこから「白一色」に回帰した、というわけでもなかった、ということだ。
時期によって、どちらかの「色」が表面化したとはいうものの、それはどちらか一方だけが「本質」であり、他方は「かりそめのもの」だったというような話ではなかった。その意味では、澁澤龍彦と言えども、単色では表象し得ない「複雑なもの」を終生にわたって持っていた、ということになるのである。
ここで面白いのは、「反体制」である澁澤龍彦が、「反動」すなわち今で言う「保守」の代表的な論客であった「福田恆存」を、高く評価している点である。
だが、じつはこれも、当たり前の話なのだ。
澁澤が、このころ露骨に「反体制」で「アナーキー」だったのは、「イデオロギー」としてそれを信奉していたということではなく、言うなれば「自分の遊びの邪魔をするものへの反発」が、その本質だったということなのだ。
だから、澁澤龍彦にとっては、本質的には「進歩派か反動派か=リベラルか保守か」といったことは、問題にならない。
澁澤が言いたいのは、要は「俺の邪魔をするな」ということでしかなく、その意味では「やりたいことを自由にやるために、言いたいことを言う」者にこそ澁澤は「共感」するのであり、この場合、「進歩派」に対して、当時は「反主流派」であり、そのために「反動」呼ばわりされていた、ある意味では「反体制派」であり、しかも舌鋒鋭い論客としての「福田恆存」に、澁澤は「自分に近いもの」を見て高く評価した、ということなのだ。
つまり、澁澤龍彦という人の判断基準は「(自分が)面白いか否か」であり、その意味では、世間的な「正邪善悪」には、まったく興味がない。だから、裁判の結果にも、最初から頓着しなかった。
そんな人だからこそ、サドの、破壊的なまでの「我が道を行く」に共感したのであり、その意味で澁澤は「政治的」ではまったくなく、素直に「やりたい放題・好き勝手」であり、その意味でおのずと「喧嘩好き」であったとも言えるだろう。「みんなで仲良く」ではなく、その方が「面白い」と感じていたのである。
また、このことは、本書の別のところで、何度か指摘されているとおりである。
澁澤は、しばしば仲間たちと酒宴の馬鹿騒ぎをし、そこでは仲間同士の大喧嘩もあったのだが、澁澤は、それを止めるのではなく、むしろ喜んで「もっとやれやれ」と囃し立てたのである。
なお、私は、『澁澤龍彦全集』はもとより『稲垣足穂全集』や『森茉莉全集』なども所蔵しているが、そんな中での異色の「全集」として、『福田恆存全集』を所蔵していることも、ついでながら付記しておこう。澁澤が福田を褒めていたというのは、今回初めて知ったことである。
これはなんとも痛ましいやりとりだ。特に、澁澤にわかってもらえなかったと了解せざるを得なかった三島由紀夫の、その寂しげな様子が、見捨てられた子供のように痛ましく感じられる。
私自身は、まぎれもなく「趣味人」だから、澁澤の「反俗」「反政治」というのは、よく理解できる。澁澤は、ずっと遊んでいたい人であり、この世にあっても、遊ぶことに賭けた人だったのだと言えるだろう。
一方、三島の方は、もっと「常識人」だった。「大人になろうとした人」だったと、そう言い換えても良い。
彼自身、本来なら「美に耽溺する趣味人」であってもよかったのだが、その「美への欲望」は、「虚構」の中に縛り止めておけるようなものではなかった。「現実の自分(肉体としての自分)」や「現実の社会」に対しても、「美的であること」を求めざるを得ない人だったのだと、そう言い換えることもできよう。
だから、三島としては、澁澤の、童子のごとき純粋な「美的世界への耽溺」を、理解できないわけではなかったものの、ただ、自身としては、それだけで満足することが、どうしてもできなかったのであろう。
そして三島は、こうした自身の「過剰な情熱」が、「現実」へと向けられたことを『「鋼鉄のやさしさ」とでもいふべき tendernessを追求』と表現せざるを得なかった、ということではないだろうか。
三島にしてみれば、澁澤の「浮世」に対する態度は、あまりにも「冷淡=愛を欠いたもの=子供の残酷さ」だと映っていたのではないだろうか。
「バルチェスの流行」に対する澁澤の、わかりやすく「大人げない」態度が、愉快である。
自分が「これは凄いぜ」と触れ回っていた頃には、皆は「なんだ、またシブサワが、変なものを持ち上げ始めた」といった感じで冷淡だったくせに、ブームになるや否や、猫も杓子も「すごいすごい」と言い始める、そんな調子のいい「軽薄な豹変」ぶりには、もううんざりだ。バカどもは、わかりもしないまま、勝手に騒いでいればいい。僕は関係ないからな! 一一と、そういう態度である。
無論、こうした子供っぽさは、私にもある。「流行りもの」に群がる人たちのバカっぽさには、心底、嫌悪を禁じ得ないから、例えば「新海誠のアニメが、大ヒット中」とかいっても、「あんなもんを褒めているのは、鑑賞能力のない、流行りものが好きな俗物だけだ。あんなもんが、どれだけ大ヒットしようが、どれだけ稼ごうが、所詮、ゴミはゴミである。そのファンも含めてな」という態度になってしまう。
「『感動しました!』か? けっ!」というのも、澁澤のいう『そういう蒙昧主義的言辞を信じる気はとてもなれない。いっぺんに興ざめがして、へえ、そうですか、と挨拶するしかない。』というのと、まったく同じことなのである。
もっとも、私の中には、三島的な「浮世への愛」もあるから、「興味のないもの」に対しても「公正たらん」とする、気持ちはある。
澁澤のように「嫌いなものには、洟も引っ掛けない」という態度ではなく、「嫌いなもの」であっても、「内実・実力」があるものであれば、それについては、自身の「好み」を排して「公正に評価しよう」と努力する。
また、そうなればこそ、「ゴミが、過剰に高い評価を受けている」と判断すれば、口を極めて批判することにもなるのであって、これは、この「浮世」に対する、私なりの『「鋼鉄のやさしさ」とでもいふべき tenderness』なのである。
つまり、「ふにゃふにゃベタネタした優しさ」ではなく「鋼鉄のやさしさ」であり、こうしたところが、私は、澁澤よりは、「三島」寄りであり、「ジャン・マレー」寄りであり、「黒」寄りであるということなのであろう。
かつて私が「黒孔庵」と号したのも、決して故なきことではなかったのだ。
ともあれ、以上が「私のとっての澁澤龍彦」なのである。
(2023年4月30日)
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