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汝、弱き者よ:嶽本野ばら論

書評:嶽本野ばら『もえいぬ 正しいオタクになるために』( 集英社)『落花生』(サイゾー

嶽本野ばら、ひさびさの長編小説『純潔』を読んで感心した。その前に読んだのは、たぶんエッセイ集『もえいぬ』で、これも刊行時(2012年)に、とても面白く読んだ。つまり『純潔』は、7年ぶりの嶽本野ばらだったわけである。

ちなみに私は、嶽本野ばら信者ではない。「乙女」でもなければ「オタク」でもない。

また、嶽本野ばらの小説の全部がぜんぶ楽しめたわけでもない。
「自己陶酔」や「自己憐憫」が感じられる作品には共感できないので、私が面白いと思うのは、もっぱら、彼の描く「自分の信じるものをつらぬく者の姿」なので、『純潔』はとても私好みの小説だったし、『もえいぬ』も私の好みのエッセイ集だった。「だれが何と言おうと、自分の信じるところを貫く」という点で、両者は一貫していたからである。

ただ、『純潔』にからんで読んだ、文芸評論家・川本直の文章(嶽本野ばらは気高き理想という旗を掲げる一一『純潔』論)に、

『「乙女のカリスマ」と呼ばれていた嶽本野ばらは、二〇〇九年頃から「敵だとすら思っていた」オタクカルチャーに傾倒していた。二〇一二年に上梓された『もえいぬ――正しいオタクになるために』はオタクとしてのマニフェストだ。二〇一六年には「可愛いに死す――男子追放宣言」(『落花生』所収)というエッセイでオタクからの離脱を綴っている』

とあって、その「再転身」の理由が気になったので、このたび『もえいぬ』を再読し『落花生』を初読して、両者を読み比べてみた結果、嶽本野ばらという人の素顔が、以前よりはわかったように思えた。
『もえいぬ』は最初の逮捕から復帰したあとに書かれたもので、『落花生』は二度目の逮捕からの復帰第1作である。

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前記のとおり、『もえいぬ』の面白さは、嶽本野ばらが、それまでの看板である「乙女のカリスマ」をかなぐり捨ててまで「オタク」道を邁進する、その一途さであると言えるだろう。
じっさい、そこまでやらずともよかろうにと思うほど、「ガチオタ」を目指す姿は、その徹底性において私の好みに合致していたわけだが、いま読み返してみると、やはり「何もそこまでしなくても」つまり「なぜ、そこまでするのか」という、一抹の疑念を禁じ得なかった。

初読の頃に思ったのは、嶽本野ばらの「判官贔屓」が、一応の社会的認知をうけた「ロリータ」ではなく、社会的蔑視の中にあると感じられた「オタク」の方へ向かったのだろう、ということだった。
しかし、実際のところ、嶽本がオタクに開眼した頃には、すでにオタクへの社会的蔑視は、さほどのものでもなくなっていたはずだ。だが、もともとオタクを敵視し、そして蔑視していた嶽本だからこそ、そこに「後ろめたさ」やら「罪滅ぼし的な心理」やらがはたらいて、過剰にオタクに同化しようとしたのではないか、というのが、私の診たてであった。

嶽本は、オタクへの「敵視」は認めても、「蔑視」は認めていなかったはずだが、それは自分が世間の蔑視と闘ってきた立場のつもりだったのに、そうと知らず一方では、世間並みの蔑視をしていたという事実を、どうしても認めたくなかったからであろう。
嶽本は、どうしても「弱者」の側、「被害者」の側に、自身のアイデンティティを置きたかったのである。自身を、か弱き姫君を守る「騎士」であると思いたかったのではないだろうか。

しかし、今回『もえいぬ』を再読してみて感じたのは、嶽本のオタクへの入れ込み様は、対象が、以前には蔑視していたオタクだからということ、つまり「対象の問題」だけではなく、やはりもともと、良くも悪くも「徹底しなければ気が済まない」「突き詰めなければ気が済まない」という嶽本の個性が、悪いかたちで出たからではないかと感じられた。

もちろん、私は「徹底的なもの」が好きなので『もえいぬ』を楽しんだのだが、しかし「なんでそこまで」と感じてしまったのは、そこにあるべき「余裕」がなく、ある種の「病的なもの」「強迫的なもの」を感じたからだと思う。

「面白い」と感じ「可愛い」と感じれば、それに入れ込むのは当然だし、だから、オタク文化の魅力に開眼し、その快楽を追及してみようと思うのは、自然なことだ。しかし、だからといって「オタク」や「ガチオタ」といったものが、無条件に「楽しい」ものであるという保証は無いし、ましてや「正しい」もの、突き詰めるに値するものであるという保証などは、どこにも無い。
したがって、「オタク的なもの」を楽しむのは大いに結構なのだが、それは「オタクになる」とか「オタクにならなければならない」ということと、同じではない。
オタクではなくても、オタク的な作品は楽しめるし、楽しんでいいのだから、「オタクならざれば、オタク的作品を語る資格なし」などと肩肘張って考える必要など、どこにもないのである。
なのに、嶽本の「オタク」道の追求姿勢には、すなおに「オタク的なものを楽しむ」というのではない、「オタクになることこそが目的」といった、きわめて「不自然な徹底性」が感じられたのである。

なぜ、嶽本野ばら、いつでもこのように「力んで」しまうのだろうか?
どうして、もっと「テキトー」にやれないのか?
この「不自然さ」こそが、嶽本野ばらの本質的な「弱さ」なのではないか?

ずーっと「テキトー」にやれと言うのではなく、なぜ「徹底とテキトーの使い分け」が出来ないのかと、私はそこに疑問を覚えた。
なぜ「all or nothing」なのだ。なぜ「抜くべきところで力を抜く」といった「緩急」がつけられないのか。
嶽本野ばらの、そうした「融通の利かなさ」は、「強さ」ではなく、「弱さ」ゆえの「硬直性」ではないのか?
そんな疑いを抱かざるを得なかったのだ。

たしかにこれは、嶽本の二度目の逮捕という「弱さ故の醜態」を知った上での「後知恵」ではあろうが、この疑いの妥当性は、『落花生』を読むことによって、ほぼ裏づけられた。

『落花生』は、嶽本野ばらの「揺れる心」を正直に反映した、とても興味深いエッセイ集だ。

嶽本野ばらという人は、ロマンチストであって、決して理論家ではない。彼は理論というものの修辞性を耽美的に愛しているペダンティストであって、自分でも自身の理論家ぶりを信じているわけではない。むしろ、その器用さのゆえに、自分でも「胡散くささ」を感じているのだが、その一方で「美しければ、嘘でもいいではないか」という風に自己正当化してもいる。だから、彼の理屈は、二転三転する。

たぶん、彼の中では「このようにしか生きられない」という「客観的なつもりの、自己認識」と、「それもまた体の良い自己正当化の自己欺瞞に過ぎない」と告発する「情け容赦のない自己批評家」性が、せめぎあっているのだろう。
その意味で、嶽本野ばらという人は、とても誠実な人ではあるのだが、しかし、その思考が、メタレベルで自身を相対化するクールな視点をもたらすことはない。
肯定も否定も、いずれにしろ徹底的で、つまり「全肯定か全否定」しかなく、「まあ、人間だから、どっちもあるよね」というような発想はない。そんな中途半端なものは、つまらない(美しくない)から「それだけはイヤ」なのである。

しかし、そうした観点からすれば、嶽本野ばらの自己肯定と自己否定は、いずれにしろ嶽本の度しがたい「自己愛」に発するものであって、本当の意味での自己相対化ではない、とも言えよう。彼は、その徹底性という「情熱」を堪能したいのであって、「対象そのもの」に対して徹底的でありたいわけではないのである。

喩えて言えば「人を愛したいのではなく、愛の炎に自分が焼かれたいだけ」なのだ。
つまり、愛する相手(対象)は「道具」であって、それは「ロリータ」でも「オタク」でもかまわない。その時々、自分を燃え立たせてくれる、自分を唯一無二のものとして、その存在意義を確認させてくれるような対象であるのなら、それで何だっていいのである。

クリスチャンの文芸評論家・ドニ・ド・ルージュモンは、著書『愛について エロスとアガペ』において、「トリスタンとイズー」の物語を構造分析して、次のように指摘している。

『 彼(※ トリスタン)は自分自身の悲痛に不憫をもよおす。《愛する人》(※ イズー)のことなど思わない。彼女(※ イズー)は方は恋人(※ トリスタン)とともにいるよりも、王(※ 二人を引き裂く、イズーの夫・マルク王)のそばにいる方が幸福であり、モロワの森で(※ トリスタンと)同棲生活をしているよりも、恋の不幸の中に生きる方が幸福でいられる。……』(平凡社ライブラリ版上巻・P72)

『彼ら(※ トリスタンとイズー)が愛しているのは恋愛であり、愛するという事実そのものである。そして彼らは、愛をはばむものこそは、二人の心の中にしっかと愛を植えつけてくれる事情を、こころえているといわぬばかりの振舞いをする。それも、死という絶対の障害にあう瞬間に、愛をかぎりなくたたえるためなのだ。』(同P73)

『(※ イズーに)夫(※ マルク王)がなかったならば、二人の恋人は結婚するよりほかなかったであろう。ところで、トリスタンがイズーを妻にするということなどは、とうてい想像もできない。彼女は人妻になれるタイプの女ではない。それというのも、結婚してしまえば、それまでの彼女(※ 手の届かないが故に、情熱を燃え立たせる対象)ではなくなるので、夫(※トリスタン)の愛情は消えてしまうからである。トリスタン夫人、こんなことが考えられようか! これは情熱の否定、すくなくとも、われわれが問題にしている情熱の否定である。闘争もなくして栄冠をかちえる衝動的な恋愛情熱は、その本質からいっても永続性をもたないものである。これは、燃焼のあとまでも輝きつづけることができない火花である。ただ、その焼痕だけは忘れがたいものとして残るし、恋人たちはこれを永久に引き延し、よみがえらせようと願うのだ。だからこそ、彼らはつぎつぎに降りかかってくる危難に挑んでゆく。しかも騎士の武勲は、それを片っぱしから征服してしまう。そこで彼は、さらに神秘的な、さらに深遠な、さらに内的といえる冒険をもとめて、遠国に旅立つのだ。』(同P78〜79)

『 情熱は苦悩を意味する。情熱は忍従することを意味する。責任ある、自由な人格にたいする宿命の優越を意味する。愛の対象よりも、愛そのものを愛すること、情熱をそれ自体として愛することは、アウグスチヌスの《愛することを愛していた》から現代のロマンティスムに至るまで、苦悩を愛し求めることにほかならない。情熱恋愛とは、われわれを傷つけ、勝利によってわれわれを滅ぼすものを欲望することである。』(同P87〜88)

『 相思の愛というのは、トリスタンとイズーが《愛し合っている》、すくなくとも、彼らがそう信じているという意味である。また、彼らが相互に、模範的な節操をまもっていることも事実である。ところが、彼らを《支配する》恋愛が、その具体的な現実そのままに、相手への愛ではないところに不幸がある。なるほど、二人は愛しあっているが、しかし、各人の愛は相手からではなく、自己から発して相手におよぶ愛にすぎない。こうして彼らの不幸の原因は、双方の自己愛に仮面をかぶせた、見せかけばかりの相互性にあるのだ。』(同P91〜92)

もちろんここで、ルージュモンは「情熱=情熱恋愛」を否定的に扱っているのだが、私がこの引用文を持って何を言いたいのかご理解いただけよう。
要は、嶽本野ばらの「弱者への愛(過剰な思い入れ)」は、この種の「情熱」なのではないか、ということである。

だからこそ嶽本は、適度に対象を愛するとか楽しむといったことが出来ない。愛するものそのものよりも、むしろ愛するものの存在を道具として「困難」な状況を仕立て上げ、それに立ち向かっていく「悲壮な騎士」としての自分に酔っているのではないか。
だからこそ、不必要なまでに「ガチオタ」という「世間の無理解にさらされがちな存在(被差別存在)」と同一化しなければならない、などと思いこんだのではないか。ただ、オタク的楽しみを堪能するだけでは、彼は「被差別存在」にはなりえないからこそ、「ガチオタ」にならなければ「意味がない」と感じたのではないだろうか。

つまり「乙女のカリスマ」とは、「非差別存在」的な読者との「共依存」関係の、聞こえのいい「別名」でしかなかったのではないだろうか。

『 理由というものは、言い訳ですよ。本当の原因を認めたくないから作る体のいい嘘の告白ですよ。成績が悪いのは問題を解く能力がないのが原因であり、勉強に身が入らなかったとか、違う範囲を勉強していたとかは、可能な限り、自分の印象を取り繕いたい姑息な掏り替えですよ。でも、他人への糊塗を、本物の原因を認識するのが恥ずかしいから自身にもしてしまう。ずっと疎んじていたのに、どうして、彼を好きになってしまったんですか? 一回だけキスをさせたら意外に気持ちよくて……。自分に対しても情けない本性は、愛だとか優しさだとか耳当たりのいいものに変えておきたい。どうせ結果が同じなら、原因は少しでもカッコいいほうがいい。
 でもそうして原因と理由をごちゃ混ぜにし続けていると、何時しか自分で自分が、解らなくなっていくのですよ。そうしたかったのか、そうしたほうがよく思われるからそうしようとしたのか、何故、腹を立て、悲しみ何故、悦んでいるのかが曖昧になり、これに関しては泣いておけ、誰かに決めて貰わないと泣くことすら出来なくなるのです。(略)
 挙げられる理由が多い程、それは偽りの原因ですよ。これもこれこれも、こんなにも条件が揃ったから仕方がなかったのだと、人のせいにしているのですよ。誰かに従ったとしても命令を受け入れる最終決定を下したのは貴方なのに。』
(『落花生』所収「パソコンの修理をする前に」P91〜92)

これは、自身を「壊れたパソコン」に喩えてなされた、自己批判である。
平たく言えば「自分のダメさ」を、周囲や環境のせいにして正当化してしまう自分の「卑劣な欺瞞性」を批判しているわけだが、これは単に「違法薬物使用」の話だけではない。
嶽本野ばらが「乙女のカリスマ」になりおおせたことも、「ロリータの味方」であったことも、「ガチオタになろうとした」ことも、ぜんぶ、その理由とは「あとづけの自己正当化」でしかなかった、ということである。

そして、この「自己批判」は、嶽本野ばらの本質を突いたものであり、きわめて誠実なものであるからこそ、嶽本野ばらファンは、その誠実さに「さすがは、野ばらちゃん」「野ばらちゃんは変わっていなかった」と感動して、賛嘆するのだが、しかし、嶽本野ばらの問題性は、そこまで見切って「悲劇的な自己批判」を書いてしまっているというところにあり、そして、そんな「欺瞞的な自身の身振りを、すでに嫌悪している」という、「自己言及の無限後退」的なジレンマに陥っている点なのである。

したがって、嶽本野ばらの「自己批判」は、無意味なのだ。彼は、自己批判することで、自身を救い出すことが出来ない。

だからこそ、他者が、彼を批判しなければならない。まさしく「おまえの言い訳や反省の弁なんて、どうでもいい。おまえは薬物に依存して現実逃避するしかなかった、自己管理の出来ない、弱い人間なんだ。平気で読者を騙し、裏切っている自分を、悲劇のヒーローに仕立てて、自己救済を目論む、卑劣で見苦しい男なのだ」と批判してくれる、「他者」が必要なのである。

この場合「読者の許し」など、何の「救い」にもならないことを、ファンは自覚すべきであろう。
そうしたファンは、結局のところ、嶽本を許すことで、自分をも許そう、救おうとしているだけなのだし、だからこそそれは「共依存」という病的な関係でしかないのである。

しかし、正直に言えば、私は「そもそも小説家なんてものは、どこか欠けたところのある、問題を抱えた人間だろう。本当に、いい人が、面白い小説を書けるわけがない。それに、本当に頭が良すぎて、自己相対化ができる人間、自己愛を冷徹に相対化できる人間は、小説など書かないし、書けるものではない」と思っているので、嶽本野ばらが、これまでどおり「偏頗で自己憐憫的で言い訳がましい、弱い人」であっても、それは別にかまわない。
嶽本野ばらが、本当の意味で成長し、大人になったとして、それで面白い小説が書けるとも思わない。彼の小説の面白さは、彼の「弱さ」ゆえの「精神の複雑骨折」から来る、自己正当化の「過剰性」にあると考えるからだ。

しかしまた、ここまで書いておいて「まあ、好きにしたらいい」というのでは、あまりに収まりが悪いので、最後にもう一押ししておくことにしよう。

『君は、自分のことを無私の革命家だと信じているだろう。確かに君は殉教の聖女を思わせる。しかし、とんでもない話だ。君の魂は傷ついた自尊心から流れ出す血と膿で溢れ返っている。なぜ君は人民を、生活者を、普通の人間たちを憎むのか。真理のために彼らの存在が否定されねばならないのだと君はいう。嘘だ。君はただ、普通に生きられない自分を持てあました果てに、真理の名を借りて、普通以下、人間以下の自分を正当化し始めただけだ。いや、君だけではない。すべての殉教者がそうしたものだ。(中略)殉教者こそが高利貸よりも計算高く自分の所有物にしがみつくのだ。高利貸が積みあげた金貨を卑しげな笑いを浮かべて撫で回まわすように、殉教者は自分の正義、自分の神を舐めまわすのだ。高利貸が、財産を奪うならむしろ火刑にしてくれと騒ぐように、殉教者は自分の財産、自分の所有物である正義の方がよほど大切なんだ。喜んで火刑にもなるだろう。ギロチンにもかかるだろう。守銭奴が一枚の金貨にしがみつくように、君は正義である自分、勇敢な自分、どんな自己犠牲も怖れない自分という自己像にしがみついているだけなんだ。(中略)君はなぜ怖いんだ。ほんとうの勇気があるなら認めてしまうんだ。君が、いや僕たちが、彼ら以下であるという事実を。彼らが豚なら、僕たちは豚以下だ。彼らが虫けらなら虫けら以下だ。豚以下、虫けら以下だからこそ、どうしようもなく観念で自分を正当化してしまうんだ。それを認めてしまうんだ。その時にこそ、微かな希望が、救済の微光が君を照らすだろう。』
(笠井潔『バイバイ、エンジェル』より)

嶽本野ばらよ、貴方は、強い人でないのは無論、特別に弱い人でもない。貴方は、単に凡庸なのだ。
弱さとは、凡庸さであり、それはスティグマ(聖痕)にはならないのだということを、肝に銘ずるべきであろう。そして、その弱さは、乗り越えられず、弱さのまま、許されるしかないのだ。それが貴方の十字架なのである。

初出:『もえいぬ』2019年9月8日「Amazonレビュー」
初出:『落花生』2019年9月8日「Amazonレビュー」
   (共に、2021年10月15日、管理者により削除)

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