panpanya 『模型の町』 : メタ視点と〈当事者性〉の喪失
書評:panpanya『模型の町』(白泉社・楽園コミックス)
年1冊ペースで刊行されている、ユニークなマンガ家・panpanyaの、2022年の新刊である。
いつもの面白さではあるけれども、やや物足りなさもあり、気になる部分もあった。
これは、私がpanpanyaの過去の作品集を順不同に読んで、比較的初期の作品集も最近になって読んでいるからこそ気づく、panpanyaの「変化」からくるものなのではないかと思う。
1ヶ月ほど前に読んでレビューを書いた、2015年刊行の第3著作である『枕魚』のレビューにも書いたことだが、panpanyaの作風は、
言い換えれば、新しい作品ほど、「感傷性」が薄く「暗いノスタルジー」が失われて、カラッとしており、基本的に「明るいリラックス」を感じさせる。
もちろん、この「変化」を、歓迎するか否かは「読者の好み」なのだろうが、こうした変化を、わりあい肯定的に捉えてきた私でも、本巻『模型の町』まで来てしまうと、やや「枯れすぎ」た感じがして、物足りなさを否めなかった。
やはり、panpanyaには、「異世界探訪」と「日常の細部にやどる幸福」のバランス、「不安定感」と「安心感」の兼ね合いを保持して欲しいと思うのだ。
そうした意味で、panpanyaの「変化」を象徴する作品が、本巻の表題作にもなっている「模型の町」連作であろう。
主人公のクラスメイトが、夏休みの「自由研究」作品として、「町内のジオラマ模型」を作って提出した。その模型には、実際の町をそのまま縮小したがごとく、本物に忠実な家々が立ち並んでいるばかりではなく、各店舗の看板や電柱、郵便ポストといったものまでが、可能なかぎり忠実に作り込まれている。一一これが「模型の町」である。
「模型係」である主人公の少女は、先生に言われて、その一抱えほどの大きさである「模型の町」を片付けるため、資料室に運ぶのだが、そこで、町の中の「模型の家」を、ひとつ紛失してしまう。
叱られるのを覚悟で先生にその旨を報告したところ、その家を新たに作って補ってくれれば良いと先生に言われて、主人公は「失われた家」のリメイクに取り組むことになる。
主人公とその友人は、「模型の町」を上から眺めて「どんな家だったんだろう? その家の前を何度も通っているのに、思い出せない」と悩むのだが、このままではいっこうに埒が明かない。
そこで、主人公が思いついたのは、「模型の町」を上から見下ろしているのでは、どうしてもリアリティに欠けるから、自分が「模型の町」の住人になったつもりで、つまり、頭の中で自分を「模型の町」サイズに縮小して、「模型の町」に入っていけば、もっとリアルな視点が得られ、「失われた家」についても思い出せるのではないか、というアイデアであった。
そこで、本作の中では、それまでは、小さな「模型の町」を見下ろしている、原寸大の主人公たちが描かれていたが、視点を変えたことにより、「模型の町」が普通の町のようなサイズ感で描かれ、その空にあたる部分に、大入道のごとく町を見下ろしている、主人公たちの巨大な顔が描かれる。
そして、主人公がシュシュシューツと縮んでいく描写がなされた後、彼女は「模型の町」の中に立って、くだんの「失われた家」の空き地に立ち、友人とともに、あれこれと頭を捻るのだ。
さて、この「模型の町」という作品が、panpanyaの「変化」を象徴するというのは、どういう意味か?
それは、panpanyaの初期の作品では、語り手である主人公の少女は、基本的に「迷宮的異世界」に隣接した「現実世界」に住んでいたのであり、だから、いつの間にか「異世界」に迷い込むこともできたのだが、この「模型の町」では、「異世界」が「模型の町」として「対象(オブジェクト)化」されており、そこに「意図せず迷い込む」のではなく、「自覚的・方法的に入っていく」ことになる、という大きな違いがある、ということだ。
つまり、今の主人公は、基本的には、かつての「異世界」とは「切れた」現実世界に住んでおり、「異世界」を、いつ迷い込むとも知れない、「身近な世界」だとは感じていない。
もはや、そういう「異世界」は、「模型の町」と同様、「対象化」され「相対化」されて、言うなれば「頭の中で、操作可能なイメージ」となっており、「異世界」に対する、今の彼女の視点は、言うなれば「神の視点」としての地位を得て「安定」してしまっている。だから、本作品集『模型の町』には、初期作品にはあった「不安定感」や「感傷性」が失われて、善かれ悪しかれ「安定」してしまっているのである。
そして、これは、panpanya自身も半ば気づいている、「喪失」なのではないかと思われるのだが、その証拠として挙げられるのが、本作品集初所収の短編「解消」である。
この作品では、ある日突然、先生から「学校の引越し」が告げられ、主人公たち生徒は、自分の机と椅子と荷物を抱えて、校舎が建て替えられるまでの間「間借りする別の学校」へと移動する。
翌朝、主人公は寝ぼけて、もとの学校に行ってしまうが、すでに校舎の解体作業が始まっていた。
校舎の新築を待ちながらも、やがて主人公たちは間借りしている学校に馴染んでゆき、ついにはその学校で「卒業式」を迎えることになる。
そこで主人公は友人に、とうとう校舎の新築が間に合わなかったねと話すのだが、友人の反応は奇異なものであり、どうやら、もとの学校のことのことを完全に忘れてしまっているようなのだ。
そこで主人公は、ひさしぶりに、もとの学校があった場所に一人で行ってみると、そこには新しい校舎どころか、そもそも学校など影も形もなく、真新しい分譲住宅が立ち並ぶ、新興住宅地になっているのを知るのである。
つまり、この物語が描くのは、「喪失感」なのではないだろうか。
かつては「当たり前に身近なものとして存在し、自分も馴染んでいたもの」が、しばらく離れていた間に、いつの間にか失われていた。
新興住宅地の前に立つ主人公のこの「心内語」は、「私のもとの学校はここに建っていたのであり、いずれ自分は建て替えられたその学校に戻るものだと、どうして私は、そう思い込んでいたんだろう?」という意味であり、もはや自身の記憶の方が間違っていたように感じられているのだ。
本当はそこに「もとの学校など無かった」というのが「真実」なのだとしても、それで今の自分が困るわけではない。
そう頭では理解しながらも、どこかで存在していると思っていたものが存在しないという「喪失感」に、主人公は、次のようにつぶやいて、その場を離れるのである。
(2022年10月3日)
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