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近藤聡乃 『うさぎのヨシオ』 : 意外に不器用な「器用な作家」

書評:近藤聡乃『うさぎのヨシオ』(ビームコミックス・2012年刊)

以前に、デビュー作を含む第1短編集『はこにわ虫』青林工藝舎・2004年)を紹介した、近藤聡乃の初連載(4コマ連作)マンガである。

内容的には、漫画家になることを夢みるうさぎのヨシオの、アルバイト先である喫茶店「メリイ」の同僚ミカちゃんや経営者のカメのメリーさんらとの交流を経て、漫画家デビューし初単行本を刊行するまでの姿を描いている。つまり、自伝的な要素の含まれた作品だ。

『はこにわ虫』のレビューで少し詳しく書いたのでここでは繰り返さないが、近藤は、「ガロ系」という言葉を生んだ、個性派マンガ雑誌『ガロ』(青林堂)の後継雑誌である『アックス』(青林工藝舎)の新人賞を受賞してデビューした作家であり、その受賞作である「小林加代子」は、絵柄的にも内容的にも「いかにもガロ系」な作品であった。

(デビュー作「小林加代子」より)

しかし、2000年のデビュー作から2004年までの作品を収めた『はこにわ虫』の中でさえ、近藤の絵柄の変化はハッキリと窺えるし、すでに『A子さんの恋人』KADOKAWA / エンターブレイン 2015年-2020年)では、その絵柄が、もはやデビュー作のおもかげを止めないものになっている。
私は、『はこにわ虫』のレビューで、この『A子さんの恋人』の書影を示して、

『ほとんど別人の作品。絵柄的には高野文子を思わせる』

と注釈している。

本稿で扱う『うさぎのヨシオ』も「2012年」の作品なので、一見したところ、デビュー作の頃のような、いわゆる「ガロ系」ではないのだが、しかし、うさぎのヨシオ(本名・鈴木ぴょん吉)がペンネーム「鈴木ヨシオ」で描いた作中作である「今夜の思い出」(P97〜108)の方は、むしろ第1短編集『はこにわ虫』の後半に所収の作品、つまり2004年ごろの作品と、大きく変わっているわけではない。
ヨシオのデビュー作にもなる作中作なので、故意に自身の「初期の画風」に寄せたということもあるのかもしれない。だが、それができるというのは、作者の画力が本質的なところは変わっておらず、絵柄が「変わった」と言うよりは、故意に「変えた」のであろうことも窺える。

かつての『ガロ』系の作家は、意識して「スッキリした絵柄」を避ける傾向があった。そして近藤のデビュー作もまた、まさにそんな「ガロ系」だったのだが、近藤はそうした絵柄から、今のような現代的でスッキリした絵柄に、意識的かつ技巧的に「変えた」ということのようだ。言い換えれば、近藤聡乃の場合は、多くのマンガ家がそうであるように、人気作家になって作品を量産する中で「絵も上達して、絵柄も変わっていった」というのではなく、最初から「上手かった」のであろう。
デビュー当時は本人が「ガロ系」のファンだったから、技巧的に「つげ義春」に代表される「ガロ系」の絵柄で描いて見せたのだけれど、徐々にそうした「ファン的模倣」に限界を感じて、より「自分らしく描ける」画風へと「改良していった」ようなのである。一一だからこそ、描こうと思えば、昔の絵柄で描くこともできるわけだ。

こうした、近藤聡乃の「絵描き」としての器用さは、その経歴にもハッキリとあらわれている。

近藤 聡乃(こんどう あきの、1980年 - )は、日本の女性アーティスト・イラストレーター・漫画家・アニメーション作家。千葉県出身。東洋英和女学院高等部卒業、多摩美術大学グラフィックデザイン学科卒業。ミヅマアートギャラリー所属アーティスト。ニューヨーク在住。

概要
漫画、アニメーション、ドローイング、エッセイなど多岐に渡る作品を国内外で発表している。主に少女と虫をテーマにした、白黒を基調としたコントラストで幻想的な作品を中心としている。

コミックスに『はこにわ虫』『いつものはなし』『うさぎのヨシオ』『A子さんの恋人』、作品集『近藤聡乃作品集』、エッセイコミック『不思議というには地味な話』、ニューヨークでの生活を描いた『ニューヨークで考え中』などがある。』

見てのとおりである。

『はこにわ虫』のレビューでは、近藤が「個展」で発表した一枚絵(タブロー)「呼ばれたことのない名前」(2019年)の画像も紹介しておいたが、これなどは、とうてい「マンガ家のイラスト作品」ではなく、立派な「現代アート」に仕上がっており、近藤の「画家」としての力量をうかがわすに十分な作品だと言えるだろう。

(「呼ばれたことのない名前」)

一一だが、こんな器用な近藤聡乃なればこその、悩みや葛藤のあったことが、本作からはうかがえるのである。

 ○ ○ ○

例えば、ヨシオが(青林工藝舎と推測しうる)マンガ出版社に最初に原稿の持ち込みをして、編集者から言われたのが、

つげの影響を受けて、奇をてらった感じが、ありきたりか……

(P34、第49話「ありきたり」)

という、近藤のデビュー作「小林加代子」を知っている読者には「いかにも、そうだろうな」というものであり、さらにヨシオが何度か持ち込みをする中で編集者から言われるのが、

絵は上手いんですけどね……

(P49、第73話「通れない」)

というもので、これも、ほとんどそのまま近藤聡乃への評価だったのだろうというのがうかがえる言葉である。

たぶん、以上のようなことから近藤は「つげ義春のモノマネではない作品」「自分なりの画風と内容の作品」というのを模索した結果として、絵柄を変えていくのと同時に、漫画という形式には止まらない「表現」に挑戦していったということなのではないだろうか。
自分には何ができるのか、自分らしい「表現」とは何なのか。一一そうした模索葛藤を経て、近藤は現在の「作風」を作り上げていったのであろう。

近藤聡乃の「絵柄」が、デビュー時の「つげ義春」風から、現在の「高野文子」風へと変わっていった理由をうかがわせるエピソードがある。
喫茶店「メリイ」の経営者であるメリーさんと、従業員でヨシオの同僚のミカちゃんが、お客さんに出す「店の年賀状」のデザインを考えていた時、絵の描けるヨシオに、ミカちゃんが「描いてよ」と言ってきて、ヨシオが仕方なく引き受け、その翌年の干支に合わせて、無難に「虎じまの富士山」の絵を描いたのだがこれが不評で、メリーさんから「なによこれ。もっと漫画家志望の意地を見せないさいよ」と挑発されて、ヨシオが描いたのが「ラムちゃんのトラビキニ姿」であった。つまり、高橋留美子の漫画『うる星やつら』の主人公、鬼っ子宇宙人のラムちゃんの絵である。

(左から、ミカちゃん、ヨシオ、メリーさん)

これには、ミカちゃんからは「ちょ〜〜うまいね〜」、メリーさんからは「……何もみないで描けるのね」という感想を返され、ヨシオは慌てて、言い訳するように、こう言うのである。

『たっ、高橋留美子先生は、線がきれいだから、模写したことがあるだけだよ!』

(P44、第67話「第1案」)

これは「模倣的な上手さ」を自慢できないヨシオの、オリジナルであることへのコンプレックスが言わしめた「言い訳」であろう。

そこから、ヨシオが住んでいる「トキコ荘」の大家さん(古書店「一刻堂」店主。飼い犬の名は無論、ソーイチ郎さん)である鈴木トキコさんも加わって、高橋留美子ならやっぱり『めぞん一刻』の音無響子さんだとか、いや、やっぱり一番いいのは、つげ義春の『紅い花』のキクチサヨコだ(ヨシオ)とか、ヨシオが密かな恋心を寄せ、「メーテル」似だと漏らしたことのあるお客さんの話が出たので、やっぱり『銀河鉄道999』松本零士のメーテルだ(ヨシオ)とか、それならあれを描いてよ、これを描いてという調子で出てくるのが、楳図かずお『おろち』の同名ヒロイン(ミカちゃん)だとか、あだち充『タッチ』の浅倉南(メリーさん)や、江口寿史『ストップ!!  ひばりくん!』の大空ひばり(メリーさん)、さらにミカちゃんが、それならと池田理代子『ベルサイユのばら』のオスカルをなど所望。そんな名前が挙がったあげく、最後は、全部乗せのごちゃごちゃした年賀状になるという、そんなエピソードある(P43〜46、第66話「辰よりまし」〜第72話「最終案」)。

このエピソードからうかがえるのは、

(1)好きな作品が、けっこう古い。
(2)好きな絵柄が、おおむね「ガロ系」と「スッキリ系」の2系統に分かれる。

という2点であろう(正確には、楳図かずおは『ガロ系』ではないが、それに隣接した「オドロ系」)。

(1)についていうと、この物語は、著者自身をデビュー前をモデルにしているため、どうしても描かれるネタが古くなっているということ。
例えば、ヨシオのマンガ描きは、ケント紙にGペン、墨汁、スクリーントーンという、昔懐かしい完全アナログで、私が高校生の頃にやっていたのと、まったく同じ。現在の、タブレットを使ってパソコン上でというのとは、隔世の感がある。

また、高橋留美子、あだち充、江口寿史というメンツも、私が中学高校生くらいの頃に人気作家となった人たちで、思い出すのは、島本和彦の自伝的漫画『アオイホノオ』で、主人公で、大阪にある大作家芸術大学1回生の焔燃(ほのお もえる)が、「すごい新人が現れた!」と驚愕するのが高橋留美子であり、その頃ブレイクした作家として、併せて言及されるのがあだち充なのだが、この作品の時代設定は「1980年代初頭」なのだ。
島本和彦は、私より一つ上の1961年生まれなので、島本が「大作家芸術大学」のモデルである大阪南部の「大阪芸術大学」に通っていた頃、私は同じ大阪でも北部に位置する高校で漫画部に所属していた当時のことだから、このあたりの雰囲気は、とてもよく覚えているのだ。

(島本和彦『アオイホノオ』より、庵野秀明登場。島本と同時期に大阪芸大に在籍していた)

したがって、この内容からすれば、本書作者の近藤聡乃も、私と同世代か少し上くらいなのだろうかと思って「Wikipedia」を確認してみると、意外にも「1980年生まれ」と判明。私よりもひと回り以上も若いというのがわかった。
つまり、近藤聡乃の趣味は、年齢不相応に「古くさい」のである。

このほかにも、テレビアニメ『サザエさん』についてのマニアックな言及もある。
本作で言及される最も新しいキャラクターは、アニメ『新世紀エヴァンゲリオン』の綾波レイだろうが、この作品とて1995年のもので、他のものよりはぐっと新しいが、それでも2012年刊行の著作での言及としては、いささか古い作品ではあろう。
だがまあ、こうした「古風」好みだからこそ、近藤は「遅れてきたガロ系」としてデビューし、絵柄や作風を変化させていくことにもなったのではないだろうか。

(2)については、実際のところ、近藤は「ガロ系」と「スッキリ系」の両系統が好きで、デビュー当時は、つげファンとして、もろにつげ風の作品を描いたけれど、それが編集者からも「模倣の域を出ない」と指摘され、自分の画風と作風を模索する中で、もう一方の極である「スッキリ系」の研究を進め「高橋留美子(あだち充、江口寿史)の模写」などもしたのではないか。一一そして、模写したその中には、少し遅れてなのかもしれないが「高野文子」なども含まれていたのではないかと推測するのだが、いかがであろう?(ほかには、竹宮恵子吉田秋生なども含まれよう)

そうこうするうち、ヨシオは喫茶店「メリイ」の客寄せパンダとしてアルバイトに入った、音楽をやっている美青年「つばさ君」と知り合うことになる。
彼は「作詞作曲」もやっていることから、「ストーリー」作りに困っているヨシオに、そのアイデアを提供するのだが、それがヨシオの感性にピッタリとハマり、そうして描き上げたのが、前記のデビュー作「今夜の思い出」ということになる。

ヨシオは、お話を作ろうとあれこれ頭を捻って工夫するのだが、どうもその結果が思うようなものにならない。
ところが、つばさ君の「原案」あるいは「原作」は、イメージ優先のセリフが少ないものであり、かえってそれがヨシオにインスピレーションを与えて、独自の「幻想的」な作品を生むことになるのである。
そして、このあたりの作風こそが、まさに第1短編集『はこにわ虫』後半の収録作そのままなのだ。一一つまり、この頃すでに、近藤聡乃には「つばさ君」に当たる人物が「実在」したのではないかと、私は推測している。

しかし、本書『うさぎのヨシオ』は、そうしたイメージや感性先行の作品ではなく、ごく当たり前に、日常系のユーモア「漫画家マンガ」であることや、後の『A子さんの恋人』や『ニューヨークで考え中』(2015年から連載中)もそうであるように、近藤は作風を「日常系」へとシフトしていったのではないだろうか。より「現実的で日常的なものへ」と。また、そういうところから「エッセイ漫画」も始まったのではないか。
要は「つばさ君」に当たる人物の協力を仰がないところで、自分だけで何ができるのかを模索した結果が、最新の「非幻想的な作風」といったことだったのではないだろうか。

『うさぎのヨシオ』は、ヨシオがそうであるような、擬人化された動物キャラもいるけれど、その性格設定やエピソード自体は、意外にリアルなものばかり。
例えば、普通に人間の美青年であるつばさ君は、絵も描いており、画廊で展覧会を開いたりもする才人なのだが、その展覧会は美青年のつばさ君目当てのファンが押しかけて大盛況。だが、つばさ君自身は、そんな大盛況を喜んではいない。客たちが、ろくに絵を見ていないからだ。また、よく絵を買ってくれる上得意の客ですら、ろくに絵を見ていないのだ。

(つばさ君、初登場)

こんな、つばさ君の「不満」というのは、たぶん作者・近藤聡乃の感じたことをそのまま反映しているのではないだろうか。つまり、近藤としては、あくまでも「美術画家」として「タブロー」を描いて展覧会を開いているのに、来る客の大半は、漫画家としての近藤のファン。絵を買ってくれる人すら、漫画家としての彼女のファンで、絵のことがわかって買っているのかが疑わしいし、さらにうがって言えば、漫画家として人気のある彼女の絵なら「転売」することも可能(要は、投資目的)だと、そこまで考えて買っているのではないかとも疑えるわけである。だから、スッキリしないのだ。

ことほど左様に、本作『うさぎのヨシオ』には、近藤聡乃の「リアル」が、少なからず投影されており、そこではメーテル似の「籐子さん」へのヨシオのウブな片思いが描かれる反面、そばで密かにヨシオのことを思ってくれているミカちゃんの思いには、まったく気づかないというヨシオの鈍感さも描かれているので、単純に「ヨシオ=作者」ということにならないというのは明らかだ。しかしそれでも、登場人物たちがそれぞれに「作者のリアル」を分ち持っているというのも明らかであろう。

また、「マニア」だの「ファン」だのの「知ったかぶり」の嫌らしさへの嫌悪などが近藤にもあって、「ガロ系」から離れたのではないかと疑わせる描写もある。
メーテル似の籐子さんの名前すら聞けないでいる、片思いのヨシオに苛立ったメリーさんが、店で、

そんなだから、コーヒー片手に喫茶店で文庫本を読むような、スカシた女に惚れるのよ!!

(P21、第29話「ひと言」)

と怒鳴ってしまい、店の女性客が消えてしまったというエピソードが、それだ。
これなどは、ほとんどガロ系ファンに多いサブカル女子」へのイヤミなのではないだろうか。

こうしたことからわかるのは、近藤聡乃という漫画家は、絵柄こそ千変万化の器用さを見せるけれども、物の考え方はいたって真面目で、ストーリー漫画を描く場合にも、不器用に「体験の直接的な反映」的な作品しか描けず、大ボラの吹けない作家なのではないか、ということである。

だから、私が思うには、この漫画家の漫画家としての本領とは、「画力に裏打ちされた、幻想風の短編」であるよりも、むしろ「日常において、ふと感じたものの丁寧な表現」といったところなのではないだろうか。
なにか「特別なこと」を描くのではなく、「誰もが感じながら、見過ごしたり、忘れてしまっていることを、丁寧に掬い上げる」という作風なのではないかと、私は今のところ、そう推察しているのである。

近藤聡乃については、すでにエッセイマンガを『不思議というには地味な話』を買ってあるので、そこまではこの作家につきあい、その歩みを眺めてみるつもりでいる。

(「ガロ系」が洗練されたところで、高橋葉介ふうにも見える)


(2024年1月26日)

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