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つくみず 『シメジ シミュレーション 02』 : ちゃんとしてなくても全然いい気がする。

書評:つくみず『シメジ シミュレーション 02』(MFC キューンシリーズ・KADOKAWA) 

本作第1巻のレビュー(「理想の友達・理想の世界」)で、私はこの作品を「ひきこもり(社会的退却)」になっている主人公の「癒しによる社会復帰の過程を描く物語」だという解釈を示した。
主人公しじまが社会復帰するために、まず必要だったのが、彼女を「全肯定」してくれる友人の登場だったのではないか、ということだ。
そこで私は、この物語の先読みをして、主人公のしじまが、夢から醒めた現実の世界で、今度は、現実のまじめちゃんと出会いなおし、しじまの方からまじめちゃんと友人になることで、前に進めるようになる、というラストを予想した。だが、これはいささか、先走りすぎたようである。

本巻では、大きな展開はない。しかし、そうした中でも注目すべきは、

 (1)ユニークな学生たちの登場
 (2)もがわ先生の穴掘りの結末

の二つである。

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(1)について言えば、私はこれを「正しい生き方などない」ということを象徴したものなのではないかと理解した。
若者たちの「ひきこもり」の原因の多くは、社会が求める「正しい生き方」の押し付けにあると言っても、間違いはないだろう。その「押しつけ」とは、社会が押しつける「真っ当な生き方」、学校が押しつける「学生としての正しい生き方」、そしてクラスメイトたちの押しつける「(協調性のある)まともな子であること」。
最後のものは、しばしば語られるところの「スクール・カースト」などにも関連していて、要は「友達関係において、その暗黙のルールの中に収まる人間であれ(空気を読んで、自分の身の程を知った行動をせよ)」といった押しつけ(抑圧)である。

こうしたものの重圧に堪えられなくなった子供たちが、やむなくそうした社会から退却する。つまり、引き篭もることで、自身を守るのである。

しかしながら現実には、ずっとひきこもってもいられない。社会がそれを許してはくれないし、何より「なぜ、悪くもない私の方が、退かなければならないのか」という、自身に内在する「倫理的要請」もあるからで、人は何らかのかたちで、社会との折り合いをつけなければならないし、その結果としてベストなのは、自身を偽らずに社会の中で生きていける自分になる(成長する)ことであろう。
そして、そうした自分になるために必要なのが、第1巻で描かれた「全肯定してくれる人」の存在であり、さらに本巻で描かれる「正解は無い=人と同じでなくて良い」という世界認識なのではないだろうか。

(2)については、先行レビュアーの「Amazon カスタマー」(※  現「くまモン」)氏も注目しており、これを「分業化による心の喪失」という視点から論じておられたが、私は、心理学的な観点から「穴を掘る」ということと、もがわ先生がその前にやっていた「無意味なものを作る」という行為を結びつけて考えてみた。

もがわ先生のとらわれていた問題とは何か。私はそれを(1)の問題と関連する「正しさ」の問題ではないかと思う。つまり、人は「意味のある生き方をしなければならない」という「正しい生き方」の抑圧に、もがわ先生は苦しんでいたのではないだろうか。

自分の作るものには「穴が開いている=抜けている=中身がない=空虚で社会的な価値がない」。そのことに、もがわ先生は「罪悪感」を感じるようになったのではないか。なぜなら「教師なら、生徒の手本になれるように、ちゃんと生きなければならない(意味のある生き方をしなければならない)」という「倫理的要請」を感じていたからであり、そう感じながらも、とうてい「まともな先生」にはなれない「穴の空いた」自分に、罪悪感を感じていたのではないだろうか。だからこそ「飲酒による麻痺(現実逃避=退却)」を求めてしまった。

しかし、その一方、自分の「生きる意味」を見出したいという欲求から「穴を掘る=掘り下げる=深い意味・深く隠された意味(真理)を掘り出す」という行為にとらわれてしまったのではないだろうか。
しかしまた、もがわ先生の「意味を求める」ための「穴を掘る」という行為は、逆説的だった。なぜなら、もがわ先生は「心に空いた穴」を「埋めたくて、穴を掘っていた」からである。

だが、旧友や生徒たちの助けを借りて、その「穴」を突き抜けた先で与えられたものとは、何だっただろう。
私はそれを「穴が開いてても良いんだよ。それも面白いじゃないか」という「存在の肯定」だったのではないかと思う。

(1)の問題について書いたように、画一的な「正しい生き方」なんてものはない。だから、頭にしめじが生えていても良いし、目玉焼きが乗ってても良い。それを無理に引き剥がす必要なんてないし、むしろそれは危険な自己否定にもなりかねない。また、タコの妹を大切にしてても、魚の被り物を被ってても、信仰を持ってても良い。ぬいぐるみを背負っていても良いし、本が大好きで自分は美少女だと確信しながら留年してても良い。あるいは、当たり前にバンドにハマった青春でも良い。
同様に、大人であろうと「穴が開いていても良い」のである。

人間は「より良き自分」を目指す前に、まず「自分を肯定すること」が出来なければならない。そのために必要なのは、何でもありで失敗の許される試行錯誤の期間、正解を出さなくても咎められない、猶予期間としての「モラトリアムの時間」なのである。

もがわ先生は、きっと真面目すぎて、十分な「モラトリアムの時間」を通過してこなかったのだろう。その反動が、大人になってから出てしまったので、「穴を掘る」という「無意味なこと」に取り組む必要があったのではないだろうか。

こうして見てくると、この第2巻で、主人公であるしじまの前で展開されるのは、いろんな「モラトリアムの時間」である。
「ただちに正しく判断して、正しく生きよ。失敗はゆるされない」と、厳しい要求を突きつけてくる、この過酷な世界に出る前に、人には誰しも、それに潰されないための「盾としての自己肯定感」を身につける必要があり、それを育てるのに必要なのが、「モラトリアムの時間」なのだ。

本巻は描いているのは、そうした「時空」なのではないだろうか。

 (※ 本稿タイトル「ちゃんとしてなくても全然いい気がする。」は、本巻帯文からの引用です。)

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初出:2021年1月28日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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