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北村みなみ 『グッバイ・ハロー・ワールド』 : 「今ここ」のために召喚される〈未来〉

書評:北村みなみ『グッバイ・ハロー・ワールド』(rn press)

じつに「気持ちよく読めて、完成度の高い、SFマンガ短編集である」一一という感想で、許してくれる人は許してくれるのだろうが、書く方としては、そんな当たり前の「感想」で納得されても、つまらない。だが、事実「気持ちよく読めて、完成度の高い、SFマンガ短編集」なのである。
そのうえ本書には、7名もの有識者(?)がコラムを寄せており、その中には、私の好きな樋口恭介などもいて、そんな7名の議論をかわしながら、自分なりの評価を語るというのは、かなりキツい仕事である。一一だが、言い訳はこれくらいにしておこう。

『 人類滅亡、環境汚染、尊厳死、全体主義社会、遺伝子改変など、ハードSF級の「重いテーマ」を扱っているのに、不思議と爽やかな読後感が伴う。北村みなみ作品を読んでいると、ディストピアとユートピアの境界が曖昧となり、これまで想像していた未来群の配列にポコポコと新しいカテゴリが追加されるような感覚を覚える。』(P140「未来の自立性を尊重する想像力」)

帯にも引用されているドミニク・チェンの言葉だが、本書所収の作品に通底する「特異性」を、よく言い当てていると思う。したがって、ここで論ずるべきは「なぜ、暗い話なのに、爽やかな読後感を残すのか?」という点なのではないだろうか。

樋口恭介は、この点について「否定的なものの肯定性を描く」ところに、北村SFの力を見ているように思うのだが、私は、この評価では不十分だと感じた。樋口は、尊厳死を扱った短編「幸せな結末」を論じて、「死」を忌むべきものとして排
除しようとしてきた、これまでの「人間的な価値観」を相対化して、「死」の中に「新たな生き方」の可能性を見いだすことで、認識世界を拡張できるのではないか、というようなことを書いており、それは決して間違いではないけれども、私の感じからすると、やや不徹底な議論に思える。

「今ここ」の問題を論じる場合は、「今ここ」に生きる人々の価値観を無視して、「生」や「死」を(あるいはそれが「ユートピア」なのか「ディストピア」なのか)論じることはできない。しかし、「未来」の話でなら、何も「今ここ」の価値観に義理立てする必要はないし、その必要から解き放たれるための形式こそが「SFだ」とも言えるのではないか。

だとすれば、例えば「生にも死にも、アプリオリな意味などない」ということでいいはずだし、そんな世界では、どんな価値観だってありだ。
「今ここ」の価値観とは違っても、「今ここ」の価値観に由来する「苦しみ」を相対化してくれる価値観を、「未来」の価値観として「今ここ」に召喚し提供することは、当たり前に「今ここ」の役立つことだと言えるのではないだろうか。
それは「今ここ」で「実用的に役立つ」ものではないけれど、しかし、いっときでも「今ここ」という桎梏から解き放されることは、行き詰まったこの時代に生きる人間には、大いに「救い」になるはずだし、それは単なる「気休めの嘘」ではなく、思弁的かつ合理的に「あり得る可能性」なのだから、「逃避」だと後ろめたく感じる必要もないように思う。

私たち人類は、そう遠くない未来に死滅するのだろうが、未来に夢を見ること自体は、決して悪いことではない。どのみち、度し難い「今ここ」とは、多かれ少なかれ付き合わなければならないのだから、「今ここ」に抗うためにも「未来の価値観」をエネルギーに利用して悪いことはない。

私たちはいずれ滅びるだろう。いや、滅びる。だが、それは、そもそも良いも悪いもない、物理的な事実なのだから、「生と死」を含め、すべてにどのような価値付けをできるかは、言うなれば「想像力勝負」であり「レトリックの問題」なのである。

本作品集は、そうした「可能性」を暗示するからこそ、「今ここ」の視点が描き出す「絶望的な未来」という重荷をから、人をいっとき解き放ち、そしてまたそれを担いで歩く力を与えてくれる、そんな「励まし」のビジョン(幻視)なのではないだろうか。

もちろん、「今ここ」の重さを知る人ほど、届かない「未来」の可能性の価値を実感できるのではないかと思うのだが、いずれにしろ、「神」は、ここにはいなくても、どこかにいると思えるだけで、間違いなく力にはなるのである。

初出:2021年7月20日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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