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斎藤幸平 『新人世の「資本論」』 : 「イデオロギー」に非ず、 これは〈サバイバル〉だ。

書評:斎藤幸平『新人世の「資本論」』(集英社新書)

本書について「マルクスが、どうのこうの」と言っている人は、それがマルクス肯定派であれ、マルクス否定派であれ、いずれにしろ、能天気で単細胞な、馬鹿である。
本書に語られているのは、「コミュニストは大絶賛! ネトウヨは大反対!」といった、そんな「のんきな話」ではない。

本書に語られているのは、「マルクスの理論か否か」に関わりなく、「選択の余地は無い」という切迫した問題意識なのだ。思想信条(イデオロギー)の話ではないのである。

本書の問題設定は、きわめてシンプルだ。
要は「人類を破滅させないために、何をなさねばならないのか」ということ、それだけである。

 ○ ○ ○

近年、気候変動の激しさを実感する人は少なくないだろう。若い人はともかく、相応の年齢に達した人なら「昔は、夏でも35度を超える日など滅多になかった」「昔は、夕立はあっても、ゲリラ豪雨のようなものはなかった」「昔は、甚大な被害をもたらす大型台風が、毎年のように襲来することなど無かった」と、そう感じているはずだ。たしかに、近年の気候は、確実に「異常」である。いや「異常が常態と化した、危機的な状態」だと言うべきだろう。

こうした「異常」は、日本に限った話ではなく、世界的なものであることを、誰もが知っているし、くりかえすが、「あの年は」とか「この年は」とかいった限定的・例外的なものではないことも知っている。近年は、例外なく「異常な気象が、常態化している」のであり、これが「危機的なもの」でなくて、いったい何であろうか。

この「異常気象の常態化」は、思想・信条にかかわりなく、物理的「事実」として、共通了解できるものではないかと思う。

しかし、その「原因」が「二酸化炭素の過剰排出による、地球温暖化」なのか否かという話にはなると、途端に、思想・信条の話になってしまう。
それを認めてしまうと、経済活動に支障を来すような対策が求められて、これまでどおりに金儲けをしたり、恵まれた生活を続けたりすることの困難になる人が出てくるからだ。

そういう人たちは、世界規模の問題や、未来の話ではなく、まず目先の自分の生活防衛に走り、あらゆる理屈と手段をこうじて、「異常気象の常態化」の原因は「二酸化炭素の過剰排出による地球温暖化、ではない」とか、「長期的スパンで見れば、そもそもこれは、異常気象の常態化ではなく、これまでも繰り返されてきた、恒常的な気候変動の一部に過ぎない」などと言って否定するだろう。「だから、無理をしてまで対策をとる必要はないし、逆に拙速な対応は、百害あって一利なしだ」と。
だが、問題は、そんな「楽観論」に、人類の未来を賭けることなどできるのか、ということなのである。

私は、リベラリストであって、コミュニストでもなければ、国家主義者でもない(まして「ネトウヨ」などではない)。要は、個人主義の自由主義者であるから、「国家」や「共同体」に統制束縛されるのも嫌なら、「みんな」で相談して決めよう、みたいな話も面倒である。つまり、基本的には、放っておいてほしいのだ。干渉しないで欲しい、というタイプなのである。
しかし、こういう個人主義は、社会が安定していないかぎりは「あり得ない」というくらいのことは、嫌々ながらも自覚している。だから、社会存立の条件である地球環境がどうしようもなく毀損せれ、個人主義の余地が無くなる、というのであれば、私のような人間でも、社会の安定(策)に協力せざるを得ない。「地球規模における、生物層の物理的危機」は、主義や思想や信条の問題ではなく、生物としての物理的必要性の問題、「サバイバル」の問題だからである。

本書で語られているのは、決して「難解」な話ではない。
ただ「感情的には、受け入れ難い」話なのだ。

本書で語られていることを、ごく簡単にまとめると、

(1) 地球の資源(あるいは、人類に利用可能な資源)は、有限である。
(2) エントロピーは、増大する一方である。
(3) 資本主義は、エントロピー増大の、過激な「加速装置」である。
(4) 資本主義は、エントロピーの過激な増大を、弱者(外部)への転嫁によって隠蔽するシステムである。
(5) よって、人類が「延命」を望むのであれば、資本主義を捨てるしかない。

これだけだ。

前述のとおり、私はコミュニズムが好きではない。それは、「みんなで相談して」というのが「間違っている」と考えるからではない。それ自体は「正しい」と思うが、その一方で、個人的には「面倒くさい」と思ってしまう(私は「快楽主義者」だ)から、「好きではない」のだ。

しかし、すでに人類は、「好き嫌い」を言っていられる段階にはない。
人類が、永遠に生き続けることは「物理的に不可能」だったとしても、せめてこの先も、数百年くらいは生き延びたい。子や孫や、その子や孫の子や孫が、安心して暮らせる「最低限の地球環境」を遺してやりたいと思うのなら、「エントロピー増大の過激な加速装置である、資本主義」は捨てなければならない。それしかないのだ。

もちろん、著者も書いているとおり、このまま地球環境を悪化させても、「一部の大金持ちや権力者たち」は、自分たちの生活環境だけは守ることが(当面は)できるだろう。
しかし、そんなものは「地球規模の環境悪化」の前では「蟷螂の斧」でしかない。その場しのぎの「無駄な抵抗」でしかない。喩えて言うなら「ある避難施設の中にいる人以外は、みんなゾンビ」状態なのだ。いくら「中にいれば安心」と言っても、そんな「あさま山荘のたて籠り事件」みたいなことをしても、ささやかな時間稼ぎ(延命措置)にしかならないのである。

だから、私たちは、貧乏人も金持ちも権力者も、否応なく「資本主義」を捨てなければならない。
「資本主義」を捨て、「無駄な価値(=消費のため消費価値)」を捨てて、「利用価値(=生活のための実質的価値)」の創造だけに限定する、「脱成長」を目指さなければならない。

当然そうすると、今のようなかたちでの「大金持ち」や「権力者」は存在し得なくなるだろうが、それは「生き残り」のためには、仕方のないことだ。「お金持ちの快楽」も「権力者の快楽」も、すべては「命あっての物種(生きていればこそ)」だからである。

よって、私たちは「資本主義」を、否応なく「捨てるしかない」。
資本主義を捨てると「成長できない」という危惧は、問題にならない。
「成長できない」のではなく、私たちはもう「成長してはならない」のだ。「経済的成長=(人類の熱的)死」だからである。

 ○ ○ ○

ただ、一つだけ問題は残る。
それは「反緊縮」をめぐる問題だ。

著者も指摘するとおり、「反緊縮」は、基本的に「資本主義経済」の枠中での発想であり、それが「反緊縮の限界」である。

具体的に言えば、「反緊縮」の論客は「弱者を救うためには、緊縮経済政策ではなく、逆にもっとお金を刷り、そのお金を福祉やインフラ整備などに投入し、経済を好転させることが必要だ」と訴えるのだが、問題はこの「もっとお金を刷って」の部分だ。

「反緊縮」に反対する「緊縮」派は「それでは借金が増えて、経済の不健全さが進み、いずれ経済恐慌という破綻を来す」と危惧する。
しかし「反緊縮」派は「大丈夫だ。日銀などの国立中央銀行は、実質的に国家の一部なのだから、お金をいくら刷っても、その借金は、いざとなれば帳消しにできる。返す必要がないものにできるのだ。無論、無闇に刷れば良いというのではない。必要なところに必要なだけ、お金を刷って回せば、おのずと経済は好転して、利益を生むのだから、債務過剰を恐れすぎる必要はない」と説明する。
つまり、お金の交換価値を担保していない現在の経済システムにおいては、国家は「お金を、魔法のようにをパッと生み出す」ことができるし、それは「他人からの借金(必ず返さなければならない借金)」とは違い、「夫が妻から借金するようなもの」だと言うのである。
一一だが、これは本当だろうか?

私は、この点について、ずっと腑に落ちなかったのだが、本書を読んで、なぜ国家は「お金、魔法のようにパッと生み出す」ことができるのか、その理由がわかったように思う。

要は、「資本主義経済下における国家の中」では、実際それは可能なのだが、じつはその「債務による資本主義経済振興策としての債務」というのは、「外部に、資本主義経済を強いることで担保されるもの」だ、ということだったのである。つまり、やはり「担保」は存在し、その担保は「外部化」されていたからこそ、一見したところ「お金を、魔法のようにをパッと生み出す」ことができた(ように見えた)のだ。
したがって「反緊縮」は、「地球規模の環境破壊」には対応できないのである。

言い変えれば、「反緊縮」の論客が、「お金を生み出す、魔法の種」の説明をしないのは、そのことを知っているからなのだ。
彼らは「目の前の、困窮している弱者」を救うために、その代価を「目の前にいない、遠くで困窮している弱者や、未来の人たち」に転嫁しているのである。

つまり、本書の「資本主義を廃棄せよ」という提案において、残されてしまう難問とは、「目の前の困窮者を救う」には、「資本主義を捨てよ」というような、若干、気の長い話は通用しない、ということなのだ。

たしかに「目の前の、困窮している弱者」を救うために、その代価を「目の前にいない、遠くで困窮している弱者や、未来の人たち」に転嫁する、というのは、ある種の「欺瞞」であり「転倒」ではあろう。
しかし、それなら、心を鬼にして「目の前の、困窮している弱者」を救うのは断念し「人類全体の救済を優先しよう」という選択が正しいのか?

たぶん、その方が賢明ではあろうけれども、それは「目の前の、困窮している弱者」を捨ておけない人には、無理な注文でしかない。これは「トロッコのジレンマ」なのである。

無論、著者は、「反緊縮」そのものに、反対してはいない。むしろ、それによって「目の前の、困窮している弱者」を救うことの必要性は認めているが、その一方で「反緊縮」論者の「欺瞞」を批判してもいる。
だが、この「欺瞞」なくしては、「目の前の、困窮している弱者」は救えないのだ。

要するに、著者の主張は「人類の未来を救うためには、資本主義は廃棄されなければならない。その意味では、それを前提とする反緊縮だけでは不十分なので、反緊縮的経済政策による目の前の弱者救済を進めつつ、最終的には資本主義経済の完全廃棄を進めなければならない」というものだろう。

これは、理屈としては正しいのだけれども、しかし、現に「反緊縮」を進めるためには、「国民の支持」が無ければ実現不可能だ、という「現実的難問」が立ち塞がっている。
だからこそ、「反緊縮」の論者たちは「資本主義経済振興策としての債務というのは、外部に資本主義経済を強いることで担保されるものだ」などとは、口が裂けても言えないし、ましてや「最終的には、資本主義は廃棄されなければならない」なんてことは言えないのだ。当面、それでは「選挙に勝てない」からである。

つまり、「目の前の、困窮している弱者」を救うためには「あくまでも資本主義の枠内での、反緊縮で大丈夫」という「嘘」のメッセージを伝えなければならない。
言うまでもなく、これは「好きでついている嘘ではない」のだが、それを「嘘」だと批難されたのでは、彼らも立つ瀬がないだろう。

だから問題は、「方便としての嘘」をついてでも「目の前の、困窮している弱者」を救いつつ、最終的には「資本主義の廃棄」を目指す、という「二正面作戦」を採らざるを得ないのではないか。

しかし、ここでも問題になるのは、この「二正面作戦」で、はたして「間に合うのか?」ということなのである。

初出:2020年10月16日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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 【補記】(2021.09.02)

以前にご紹介した、頭の悪い「ネトウヨ」が、また、私の記事を引用して、したり顔で、的外れな文章を書いていたので、元記事執筆者として、その記事のコメント欄に感想を書いてあげました。

そうした経緯とやりとりを紹介したのが、次の記事ですので、是非、ご参照ください。

私のこの記事の趣旨は、言うまでもなく「地球温暖化は、イデオロギーを問わない、喫緊の重大問題である」ということなのですが、このネトウヨ さんは、私のこの記事を引用して「左翼批判」をしている。
一一 まったく絵に描いたような馬鹿です。

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