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『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス1 ミノタウロスの皿』 : 私の食卓

書評:『藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス1 ミノタウロスの皿』(小学館)

大型書店で雑誌コーナーで『SFマガジン』誌をチェックしたら、「藤子・F・不二雄のSF短編特集」をやっていた。また、新刊マンガの棚には、当巻を含む「藤子・F・不二雄 SF短編コンプリート・ワークス」の2冊が並んでいた。
「ああ、『SFマガジン』は、この新シリーズのタイアップ企画をしたんだな」と思ったのだが、どうやら正確にはそうではないらしい。Amazonの、本書「紹介文」に、

『23年、TVドラマ化を機に、藤子・F・不二雄のSF短編シリーズ全110作品+αを単行本全10巻に再編集し、装いも新たに刊行!』

とあるから、テレビドラマ化に併せて、藤子Fの「SFマンガ」の新編集コレクションが刊行され、それにあわせて『SFマガジン』でも特集が組まれたということのようだ。

「ようだ」とか「らしい」などと書いているのは、『SFマガジン』を贖う気がなく、書店でパラ見したけだからなのだが、私のようにモノクロアニメの時代から、藤子不二雄作品に親しんできた人間のとっては、いまさら藤子Fの「SF短編マンガ」の総解説だとか、藤子不二雄というと必ず登場する辻村深月の対談だかインタビューだかいった内容だけでは、まったく新味に欠けて、いまさら読む気にはならない。
その意味でこの特集は、(『ドラえもん』を別にすれば)ドラマによって「藤子SF」に初めて接する若い読者のためのものだと言えるだろう。

(ちなみに、10年前なら、藤子ファンのSF作家・瀬名秀明も、きっと登場していただろうが、もはや瀬名は、SF界には存在しないも同然の扱いになっているのであろう。村の掟なのかどうかは知らないが、恐ろしいことである)

ともあれ、こう書いておきながら、私は藤子Fの「SF作品」をほとんど読んでいない。と言うか、藤子不二雄のマンガを、ほとんど読んでいないはずだ。
なぜなら、前述のとおり、幼い頃から藤子アニメを視てきたので、それをまた、わざわざ漫画で読もうとは思わなかったからである。多少は読んでいるかも知れないが、読んだというほど読んではいない。私の場合、藤子作品に限らず、先にアニメで接した作品の原作マンガを、後から読む気にはならないのである。

で、少年向け雑誌への掲載ではなかった、非シリーズの「SF作品」は、なおさら読んでいない。
読んだと、はっきり記憶に残っているのは、本集に収録されている、藤子のSFマンガの代表作になるのであろう「ヒョンヒョロ」だけだ。この作品は、今回の『SFマガジン』での特集にも再録されており、それだけ頭抜けた作品だということであろう。

(「ヒョンヒョロ」より)

私がこの「ヒョンヒョロ」を読んだのは、活字本を読み始めて、マンガをほとんど読まなくなった高校生の頃で、筒井康隆編の『’71日本SFベスト集成』(徳間ノベルス)によってであった。
「ヒョンヒョロ」の初出は『SFマガジン』の「1971年10月臨時増刊号」で、『’71日本SFベスト集成』の刊行が1975年1月。私がこのアンソロジーで読んだのは、たぶん1979年頃である。

この、筒井康隆編「日本SFベスト集成」シリーズは、私が初めて「SF小説」に接した思い出ぶかい叢書なのだが、さて、肝心の「ヒョンヒョロ」はどうだったかというと、あまり印象に残らなかった。

このシリーズの各巻には、マンガ作品が1、2本収録されるのだが、そうした中で特に印象に残っているのは、シリーズの第1巻に当たる『60年代日本SFベスト集成』に収録された、手塚治虫「そこに指が」で、これは今につづく私の「メタ・フィクション」嗜好を、最初に強く刺激し、衝撃を与えた作品だった。
また、「ヒョンヒョロ」と同じ『’71日本SFベスト集成』に収録されている、永井豪の不朽の名作短編「ススムちゃん大ショック」は、まさに、トラウマ級の恐ろしい作品で、私の心に「当たり前が当たり前でなくなったら」という恐怖を植えつけた傑作であった。

そんなわけで、「ヒョンヒョロ」も、いま読むととても「うまい」作品なのだが、永井豪の「ススムちゃん大ショック」と同じ巻に収録されてしまったがために、印象が霞んでしまった感は否めない。相手が悪すぎたというべきなのだろう。

だから、ほとんど内容を忘れていた「ヒョンヒョロ」を今回読み返して気づいたのは、この作品は、本集収録の他の作品が、主に「極端化」という手法によってSF的な物語を構成しているのに対し、それには止まらず、言うなれば「本格ミステリ」的な「逆転の発想」による、ラストの「どんでん返し」を見事に決めている点である。

しかも、これは「SF作品」でなくては成立しない「どんでん返し」なので、本作は言うなれば「普通のSF作品に見せかけた、SF本格ミステリ」とでも呼べる作品だったのだ(ネタを割らないように紹介しているので、説明がわかりにくい点はご容赦願いたい)。

エンタメ文芸ジャンルの混交が進んで、「特殊状況ミステリ」という、言うなれば「SFやファンタジー的世界設定における本格ミステリ(的なひねり)」が流行している昨今なら、こういうアイデアもさほど珍しくはないのかも知れないが、この当時としては、まさに「意表をつく作品」であったのは間違いない。
また、ラストシーンの「静かな詩情を帯びた恐怖」も深い余韻を残すものとして、この作品を「完璧な名作」に仕上げていると言えるだろう。
本集を読んでわかるのは、「ヒョンヒョロ」のような抜きんでた傑作は、天才作家である藤子Fと言えども、描こうとして描けるものではない、という事実である。

本集の収録作品は、次のとおり。

・「ミノタウロスの皿」
・「カイケツ小池さん」
・「ドジ田ドジ郎の幸運」
・「ボノム=底ぬけさん=」
・「じじぬき」
・「ヒョンヒョロ」
・「自分会議」
・「わが子・スーパーマン」
・「気楽に殺ろうよ」
・「換身」
・「アチタが見える」

この中で、読んだことがあるのは、「ヒョンヒョロ」の他には、たぶん表題作の「ミノタウロスの皿」だけではないかと思う。しかし、この作品にしても「読んだことがある感じがする」程度のことだ。

本集全体を通して言えることは、けっこう時代を反映した「社会派」の作品が多い、ということだ。
作品執筆当時に、作者が接した「社会の変化」や「新風俗」的なものに対する違和感を、前述のとおり「極端化」の手法でグロテスク化して、その「違和感」を社会に対して突きつけていた、とそう言っても良いだろう。

ただ、「ヒョンヒョロ」にしろ「ミノタウロスの皿」にしろ、これらの傑作に言えることは、時代を越える「本質的な問題提起」をなし得ている、ということであろう。

「ヒョンヒョロ」は、言うなれば「人新世」後の渺渺たる世界を予感させる作品だし、「ミノタウロスの皿」は「人類という種の特殊性」が何を意味するのか、意味しないのかといった哲学的な思索へと、読者を誘う。単なる「人のことは言えないよ」的な「逆転の発想」や「価値の相対化」を超えた、本質性を帯びてしまっているのである。

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こうして考えていくと、「極端化」(今の言葉で言えば「加速化」的と言えるかも知れない)の手法を用いた藤子Fの「SF作品」が、「あっと驚く」本格ミステリと同様に、「テレビドラマ向き」だというのは、理解しやすいところであろう。要は、そうした作品に接して、多くの人は「ああ、驚いた」「そう来るとは、思わなかった」と、単純に感心できるからである。

しかし、こうした「鑑賞姿勢」に決定的に欠けているのは、藤子FのSF作品に、はっきりと刻印されている「社会性」である。

「極端化」でも「逆転の発想」でもいいが、読者を「あっと驚かせる」という手法とは、「当たり前を相対化する」ためのものである。

私たちが「当たり前」だと感じていることが、しかし、突きつめて考えた場合「本当に当たり前だろうか?」という懐疑的思考をうながす、いわば問題提起のための手法なのだが、しかし、藤子F原作の「SFドラマ」を楽しむ人たちは、果たして「考える」ことをしているだろうか。
「本格ミステリ」を楽しむように、単に、思考の「裏をかかれる」ことに「痛快さ」を感じているだけなのではないか。そのようにして、ひたすら「消費しているだけ」であり、ほとんど何も考えていないのではないだろうか。

こうした状況を、藤子・F・不二雄が生きていたなら、どんな「SFマンガ」に仕立てただろう?

例えば、「ミノタウロスの皿」を、テレビドラマとして視ている二人がいる。

「この主人公って、何もわかっていないね」
「でも、わかっていないのは、みんなそうなんじゃないかな? ふつう私たちは、自分たちが食べる側の存在だというのを、まず疑わないからね」
「たしかにそうだ。『進撃の巨人』がショッキングだったのは、人間が食われる側だったからなんだろうね。昨今は、動物倫理学といったジャンルもあって、人間が無用に他の動物を苦しめることの是非なんかが、問われているそうだよ」
「ペット問題とかは、まさにそうだよ。人間の欲望と都合だけで、動物を飼い殺しにしておきながら、大切な家族だとか、愛を注いでいるとか言っているような人は、自分の、人間としての身勝手さが、ぜんぜんわかってない」

彼(彼女)らは、食事をしながら、ドラマについての意見交換をしており、目の前の皿に乗っているのは「野菜」ばかり。
彼らはヴィーガンだったのである。

だが、次回のドラマが、この「ミノタウロスの皿」の二番煎じである、「植物人間」を扱った作品だったら、彼らはその作品を、どう評価するのだろうか?

その「植物人間」は、切られれば「体液」を流すし、なんといっても「怖いよ」「やめてくれ」なんて言葉を口にするのである。当然、その頃には、自動翻訳機も大いに進化していて……。

柄澤齊の木口木版作品)


(2023年6月22日)

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