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樋口恭介 『構造素子』 : 〈失われた世界〉への鎮魂歌

書評:樋口恭介『構造素子』(ハヤカワ文庫)

若い読者に、この作品のリアリティは伝わりにくいだろう。相応の年齢になると、それまで当たり前に存在していた、あの人やこの人が次々と死んで、いなくなってしまう。テレビでよく見ていた歌手や俳優、学生時代の友人や先輩後輩、あるいは、会社の上司先輩や同僚部下。そして、両親。時には、兄弟姉妹や、不幸にして自分の実の子を失ってしまうことだろう。

人は普通、そういう「日常」に埋め込まれた人たちが、いきなりいなくなってしまうとは思わない。
例えば、ある日突然に起こる失踪なども、この日常というものの信頼性が、いかに脆弱な基盤しか持っていないかを思い知らせるだろう。
いなくなった理由がはっきりとしているという意味では、それほどではないとも思える「人の死」も、しかし「なぜ、選りに選ってあの人が、そんな理由で、いま死ななければならなかったのか(いなくなってしまうのか)」という「答えのない問い」を生まずにはおかない。

私たちは「当たり前の日常」に生きているつもりだし、そう信じられなければ、精神を病んでしまうだろう。言い換えれば、人はその「無根拠な日常」を無根拠なままに、信用して生きるように作られているのだ。
それは、人間以前の小動物や虫けらだった頃に形成された心理的な防衛機制かも知れない。いきなり、踏み潰されたり叩き潰されたりするかも知れないなどと怯えながら、生きることなどできない。車を運転しながら、次の瞬間、自分が、助手席の妻が、あるいは子供が、挽き肉のようになってしまうなどという可能性を、普通は誰も考えない。

しかし、人はやがて歳をとり、自分を含めて、誰もがこの世界からいなくなってしまう、という当たり前の事実に、折に触れて接することになる。
いつまでも、一緒にいるはずだった両親が、いつの間にかいなくなっている。いや、思い返せば、両親はそれぞれ人生を時間軸に沿って生き、その先で必然的に死んだことを「理解」することはできる。不条理な死でさえ、それは確率論的必然だと理解することもできる。
しかし、実感としては、いるはずの両親が「いつの間にかいなくなった」と感じてしまう。

無論、これは両親だけの話ではない。
テレビでよく見ていた歌手や俳優、学生時代の友人や先輩後輩、あるいは、会社の上司先輩や同僚部下。時には、兄弟姉妹や、不幸にして自分の実の子だって、そうなのだ。
記憶の中で、彼らは当たり前に、笑ったり怒ったりして、当たり前に生きている。しかし、彼らはもう、この世界にはいないのだ。

そして、いずれはこの自分も、そんな存在になってしまう。いや、そういう非存在になってしまう。
これは、当たり前のことだ。しかし、なんと不思議なことなのだろう。私のいない世界。いや、私の世界を構成していた、すべての人がいない世界。それでも、この世界は、連続しているという意味において「同じ世界」だと言うのだから。

メタ・フィクションとは、自己言及性の文学であり、それは内省の文学である。それは「私とは何か」「この世界とは何か」を問うてしまう感性のための文学である。
だから、この世界が、いま信じている「この世界のまま続くだろう」と感じ、信じている若い人たちには、こうした「解離感」を実感することなど困難かも知れない。

だが、相応の年齢に達した者の記憶の中には、たしかに「いなくなった人たち」が生きている。その、密やかな声が聞こえている。だから、この世界の、当たり前の永遠性に対して、ただ理性的に疑義を持つだけではなく、そんなものにリアリティを感じられなくなってしまうのだ。

いま、こうしてこの作品を読んで、楽しんだり楽しめなかったり、読み終えて、褒めたり貶したり人たちも、いずれ消えていく。その言葉の痕跡は、どこかでいつかまでは残るだろうが、そうした膨大な声は、しんしんと降り積もってゆき、いずれは誰も顧みないし、顧みることもできなくなるだろう。

すべてはいずれ失われ、私も失われているだろう。そんな不思議を、この作品はよく伝えてくれる。

この本を読んでいた私は、すでに失われ、この本の感想を書いている私も、まもなく失われて、「今の私」ではない「過去の私」となってしまう。

これは少しも宗教的な話ではないのだけれど、なんと不思議なことなのだろうか。

初出:2020年7月5日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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