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紀里谷和明監督 『世界の終わりから』 : 人類の対する 絶望の物語

映画評:紀里谷和明監督『世界の終わりから』

なかなか評価の難しい作品である。

まず言えることは、本作は多くの「美点」を持っておりで、決して、観て損をするような作品ではない、ということだろう。

その「美点」を具体的に挙げておくと、次のようになる。

(1)主演の伊東蒼の「存在感」が、とにかく素晴らしい。これは、この映画を観た者の一致した評価で、異論は、探しても出てこないほどのものだ。

私は、伊東を本作で初めて知った。
「顔の造作」自体は、特別に「美人」ということはないし、特別に「愛らしい」というわけでもない。むしろ、時代劇の村娘とか、中国の田舎娘みたいな役が似合いそうな、素朴なアジア人の顔をしているのだが、表情の演技が自然で的確だし、何より存在感がある。
主役として、この映画の「要石」を堂々とつとめて、どのベテラン俳優にも負けていない。まわりに盛り立ててもらうのではなく、まさに「主役」と呼べる存在感を持っているのだ。これは、本当にすごいことだと思う。

また、あまり指摘されていないことだと思うのだが、彼女の「声」が、とにかく良い。
もちろん「声の演技」も素晴らしいのだが、「声」自体が、聞く者の情動に訴える「非凡な力」を持っている。
予告編には、彼女の、劇中における主題的なセリフが多く収録されているが、それは、この「声」だけで、予告編を見る者を強く捕らえるはずだと、監督が正しく認識していたからであろう。

(2)映像センスが良い。この監督には、たしかに、カッコイイ「絵」を撮るセンスがある。そして、近未来SF映画としても、日本の特撮ドラマにありがちな、安っぽさがない。CGを使った部分は、ハリウッド並みとまでは言わないが、日本映画の水準を楽々と超えていると言っても、決して過言ではないだろう。

(3)大雑把に言えば「人類社会の終末の危機に、たちむかう少女の物語」で、ジャンルとしては「近未来SFファンタジー」ということになるが、いずれにしろ、ストーリーがよく練りこまれていて、日本映画によく見られる、安直さがない。
SFに慣れていない人には、やや難解な部分もあろうが、私としては十分「期待水準に達している」という評価になる。

(4)端的に言えば、本作のテーマは「人類は、存続するに値するのか?(このまま、自業自得で滅んでも良いのではないか?)」というものである。

普通の作品なら、ホンネでは「人間なんて滅んだ方がいい」「人間は、おのずと滅ぶしかない、度し難い存在だ」と思ってはいても、そこは「娯楽作品」として、「でも、人間にも、こんな美点はあるのだから、それだけでも生かす価値がある!」というような「言い訳」を付け加えて、無難にまとめてしまうだろう。つまり、結論的には「人類は生かすに値する」という「タテマエ」に落ち着く作品が、大半なのだ。

ところが本作は、あきらかに「人類は、滅ぶべくして滅ぶしかないし、このままなら滅んだ方が良い(その方が、スッキリするし、これ以上、無用の苦しみを持続させる意味があるとは思えない)」という監督の「ホンネと気分」が、とてもストレートに表れた作品で、全編をうすく覆うその「絶望感」によって、非凡に素晴らしい作品となっている。

言い換えれば、本作はかなり「正直な作品」であり、「偽善的」ではないところに、作り事ではない「非常の力」を持ち得ているのである。

このように、私はこの作品を、基本的には、きわめて肯定的に評価しており、点数をつけるなら「90点」ということにもなろう。
レビューを書く気にもなれなかった、昨年のアカデミー賞受賞作である『エブリシング・エブリウェア・オール・アット・ワンス』ダニエル・クワン&ダニエル・シャイナート監督)などより、3倍も面白かったと断言できる。

ただし、「90点」というのは、満点ではないし、注文をつけたい部分が無いとも言えない。「もう一踏んばり、頑張って欲しかったな」と思った部分も無かったわけではなかった。

したがって、ここからは、無い物ねだりの「注文」をつけさせてもらおう。

前述のとおり、この作品は「人類に対する暗い諦観」が、わりあいストレートに出ている点で、凡百の「SF映画」を超えた「切実さ」を持っていた。
主人公の「ハナ」が何度も発する、「なんで、私がこんなに苦しまなければならないのか」という問いは、じつに根源的なもので、昨今、語られるようになった「反出生主義」と、軌を一にしている。
つまり、「反出生主義」の思いである「生まれてこなかった方が良かった」というのを、「いっそ滅んでしまった方が楽だ」というふうに裏返されたかたちで表現しており、その意味で「時代の空気」を的確に捉えた、きわめて「リアル」な作品だと、そう言えるだろう。

ただし、それでも、物語を成り立たせるための最低限のものとして、最後の最後に「ささやかな希望」を語っているところで、私にはやはり「不徹底」だと感じられた。

もちろん、それがないと「身もフタもないお話」になってしまうから、「圧倒的に暗いテーマ」を際立たせるために「ささやかで非力な希望」を描くというのは、理にかなった作劇法だとは思うものの、個人的には、その「ささやかで非力な希望」も踏まえた上で、やはり「人類は、滅ぶべくして滅ぶ種」というところまで明示的に描く、ということをして欲しかった。
一一「そんな救いのない暗い映画を、いったい誰が観るのか」という現実問題は、別にしてである。

 ○ ○ ○

それにしても、前述のとおりでこの映画は、この種のSF映画としては、「日本映画」の平均水準を大きく上回った「佳作」であると言えるのだが、それにもかかわらず、監督である紀里谷和明は、本作をもって監督業を引退すると、宣言したらしい。事実だとすれば、もったいないことだと、私は思う。

じつは、私が紀里谷和明の作品を観るのは、これが2本目である。前回見たのは、紀里谷の監督デビュー作である『CASSHERN』(2004年)だ。
『CASSHERN』は、私なども子供の頃に視たテレビアニメ『新造人間キャシャーン』を実写映画化した作品だったが、期待に反してこの作品は、監督の「美意識」全開、かつ、それが空回りした作品だった。
つまり、原作アニメのファンはもとより、普通の映画ファンや映画関係者からも、まったく評価されなかった失敗作だったのである。

それで私は「この監督の作品は、二度と観なくていいや」と思ったし、その後、そんな思いを撤回させるほどの話題作もなかった。だから、私はこれまで紀里谷の新作を観なかったわけだが、今回その気になったのは、映画館で見た「予告編」に惹かれたからである。

この「予告編」の魅力とは、まず前述したような「映像美」であり、それにかぶさる主人公の女子高生・志門ハナの、情感に訴える切実な問いかけと、その悲劇性をいや増して伝える卓抜なBGMである。それらが相まって「これは(あの紀里谷監督の作品のようだが)観ねば」と感じさせられたのだ。
そして、この判断は間違っていなかった。本作は、「悲劇的な物語」が嫌いでなければ、ぜひ観て欲しい一作に仕上がっている。

『事故で親を亡くした高校生のハナは、学校でも自分の居場所を見つけられず、生きる希望を見いだせない日々を送っていた。ある日、ハナの前に政府の特別機関と名乗る男が現れ、男から自分の見た夢を教えてほしいと頼まれる。まったく心当たりがない男の依頼に混乱するハナ。そしてその夜、ハナは奇妙な夢を見る。』

しかしまた、だからこそ、映画作家として明らかに成長していた紀里谷監督が、この作品を持って引退するというのは、もったいないことだと思うのだ。

一一いったいなぜ、彼は引退などしなければならなかったのだろうか。

 ○ ○ ○

このレビューを書くために、いくつかの映画紹介サイトをチェックしたところ、作品の紹介文に『(紀里谷和明監督の)最新作にして最後の作品』という文言があるのに気がついた。
どうやら、「最後の作品」というのは、よくある「宣伝文句のレトリック」などではなく、監督がそう公言したもののようなのだ。

それで、少し調べてみると、紀里谷監督は、本年(2023年)5月6日放送の『マツコ会議』(日本テレビ系)に出演した際にも「引退宣言」を行っており、その理由として「嫌われることに疲れた」というような弱音まで漏らしており、どうやらこれは本気の言葉のようなのである。

では、当然気になる、この「嫌われること」とは、どういうことなのか?

普通に考えれば、これは「バッシング」を受けてきた、ということのようで、どうやら紀里谷は、デビュー作『CASSHERN』を発表した際に『映画なんて、尺が長いだけ(※ で、大したことない)』というようなことを口走って、大方の反感を買ったようなのだ。

そして、そうした反感を、20年来、ずっと引きずって来ており、作る映画作る映画への「悪意評」が絶えることなく、また、作品がヒットすることもなったため、こんにちまで、意地でも頑張って映画を作り続けてきたが、「消えぬ敵意」の前に、ついに膝を屈した、というようなことらしい。

で、たしかに、無名に等しい新人監督が『映画なんて、尺が長いだけ』なんて、生意気なことを言えば、反感を買うのも当然の話なのだが、しかし、その反感が、20年近くも継続したのは、ちょっと異常なことではないかと、私には思われた。

「若気の至り」として、そんなこともあるだろうから、もう時効として許してやって当然であり、まして本作のように、ちゃんとした映画を撮れる監督に成長したのだから、その実力だけでも認めてやるべきなのではないか、と思ったのだ。

(孤独)

しかし、紀里谷監督が、どうしてここまで嫌われるのか、そのプロフィールを見て、私なりに「これではないか」と思える「仮説」を立てることができたので、それをここでご紹介しておきたい。

この「仮説」は、これが「真相」であるという「証拠」もないかわりに、これが「誤解」だと断ずる証拠もないだろう。
正確に言えばこの「仮説」は、それが「すべてではない」にしろ「真実の一端」であるのは確実だ、と私は思っている。
だからこそ、書いておく「意義」があると、そう確信しているのである。

 ○ ○ ○

「紀里谷和明」のプロフィールは、「WIKIpedia」によれば、次のとおりである。

紀里谷 和明(きりや かずあき、1968年4月20日 - )は、日本の映画監督。KIRIYA PICTURES所属。本名:岩下 和裕(いわした かずひろ)。

略歴
熊本県球磨郡あさぎり町(旧免田町)出身。1968年、熊本県・宮崎県で手広くパチンコ店を経営する岩下兄弟社代表の父・岩下博明と、軍人の娘である母・道子の長男・和裕として生まれる。免田町の小・中学校に進学したが、1983年、中学2年終了と同時に中退し、単身アメリカのサンディエゴに向かう。マサチューセッツ州にあるアートハイスクール、Cambridge School of Westonに進学して、デザイン・音楽・絵画・写真などを学ぶ。卒業後の1987年にパーソンズ美術大学(Parsons The New School for Design)環境デザイン科に進み建築を学ぶが、2年で中退。学生時代当初はビジネスマンを目指していたが、英語が通じない時に自分が描いた絵を渡して喜ばれた経験からアートの世界を志向するようになった。21歳のときデザイン会社を設立するもうまくいかず、ヨーロッパやアフリカを放浪。大学中退後の5年間は、自ら「暗黒の時代」と語っている。
NY在住時26歳のときに知り合いから頼まれた音楽雑誌『VIBE』用の作品をきっかけに写真の仕事を始め、ジェイ・Zなど多くのアーティストの写真を手掛けるようになる。以降、日本国内外でPV制作も数多く手掛ける。CM、広告、雑誌のアートディレクションなど幅広く活躍。
撮影を通じて知り合ったシンガーソングライター・宇多田ヒカルと2002年に結婚。しかし、5年ほど経った2007年に離婚した。ふたりの間に子どもはいなかった。
2004年、子供のころ好きだった『新造人間キャシャーン』を映画化し、映画監督デビュー。2009年には2作目『GOEMON』を制作し、明智光秀役で俳優としても出演。2012年チェコで、クライヴ・オーウェン、モーガン・フリーマン出演の映画『ラスト・ナイツ』を撮影、2015年公開。
毛皮反対プロジェクト - 『毛皮製品の残酷な生産実態を伝える映像』を創作し公開する。 「美しいものと、醜いものを合わせたものが毛皮…その生産現場は残酷。この違和感に忠実になってほしい」と紀里谷は語る-2014年10月
対話形式の自己啓発小説「地平線を追いかけて満員電車を降りてみた」(文響社)が2020年8月6日に出版される。総制作日数は四年半。
短編映画製作プロジェクト『MIRRORLIAR FILMS』に参加。 MIRRORLIAR FILMS Season2ではショートフィルム「The Little Star」を監督-2022年2月劇場公開。
Season3では山田孝之監督のショートフィルム「沙良ちゃんの休日」で俳優として参加する。女優南沙良と共演-2022年5月劇場公開』

これを読めば「なるほど」と思う人は、決して少なくないはずだ。その理由を「口にしずらい」としても。

つまり、端的に言えば、紀里谷は「(金持ちの)パチンコ屋のせがれ」であり、そのおかげで「ろくに学校を卒業もしないまま、海外での放浪生活をし、そのなかでビジュアルセンスを認められ、ニューヨークでアートデザイナーとして活躍」し、さらには、当時「世界に誇る日本のアーティストとして注目の的だった、歌手の宇多田ヒカルと結婚して、その後、映画制作の下積み経験もないまま、いきなり映画監督デビューした」という、とにかく「恵まれた人」だったから、多くの人に「妬まれ」てしまい、そこへ例の「失言」をしたものだから、怒涛のバッシングを受けることになった一一というようなことだ。

事実として、紀里谷には「(生まれながらに)カネと才能」があったし、そのうえ「イケメン」でもあったから、日本では無名に等しいにもかかわらず、宇多田ヒカルというスーパースターと結婚することにもなった。

しかし、その「財力(実家と嫁と人脈)」に物を言わせて、いきなり劇場用長編映画を作ったまでは良かったが、そこで「才能ある、自信家の若者」らしく生意気な発言をしてしまい、「(日本の)世間」を敵に回してしまった、というわけだ。

それでも、映画の出来が良ければ、その「嫉妬に由来する敵意」をねじ伏せることもできたのだろうが、いかんせんデビュー作『CASSHERN』の出来は、その独特のビジュアルセンスは認めるとしても、それが映画表現としては昇華されておらず、いかにも「どうだ、スゴイだろう」という感じで、「独りよがり」の域を出ないものでしかなかった。

そこで、かねてより、紀里谷の経歴に反発を感じていた「凡人」たちが、ここぞとばかりに彼をバッシングした。一一と、大筋こういうことではないだろうか。

しかし、これだけでは、彼が20年近くもバッシングにさらされ続けた「理由」としては、いかにも弱い。

では、彼が、こんなにも長く「嫌われ続ける理由」とは、いったい何なのであろうか?

(終末の先の未来)

それは「WIKIpedia」を見てもらえばわかるとおり、彼が、映画監督デビュー以来現在まで、たった5本の映画しか撮っておらず、その間にミュージックビデオなどの仕事をしているとはいうものの、それだってそれほど多いようには見えず、それで「大儲け」しているようには見えないのに、彼が「金に困っている様子がない」ように「見える」、という点であろう。

つまり、紀里谷は、宇多田ヒカルと離婚した後も、やはり余裕のある「アーティスト」生活を続けており、金に困るといった様子が、まったく見られないという、その点で、彼への「妬み」は、いつまでも解消されないのである。

「なんで、あんな奴が、いつまでも芸術家ヅラして、セレブな生活を続けているんだ」という「妬み」は、紀里谷が宇多田ヒカルと離婚しようと、映画がヒットしなかろうと、それだけでは、消えてはくれない。
紀里谷を妬む者たちが望んでいるのは、紀里谷が「落ちぶれる」ことなのだが、そうなる様子がまったく見えないからこそ余計に苛立ち、もはや彼らにとっての「紀里谷バッシング」は、ライフワークと化した、といったことなのではないだろうか。

(悪ではなく、絶望としての無限)

では、なぜ、紀里谷は、傍目には「たいした仕事をしていない」(ように見える)のに、「落ちぶれる」こともなければ、「生活に困窮する」こともないのだろうか。

その真相は、紀里谷の個人的な友達でもない者には知りようもないことなのだが、ただ、その「内実」が知り得ないからこそ、彼を妬む者たちは、その「理由」をあれこれと、悪意を持って「推測」することになる。
そして、それによって導き出される答とは、たぶん「実家が金持ちだから、基本的に、一生カネには困らないご身分なんだろう」というようなことだ。

無論、この「推測」が当たっているのかどうかはわからないが、このように「推測」する「アンチ紀里谷」の多いだろうことは、ほとんど確実なのではないだろうか。

そして、ここからが重要なことだが、この推測には、おのずと「紀里谷は、日本人ではないのではないか」という「差別的な疑い」がつきまとっているであろうことだ。

私のこの「推測」を読んで、「ああ、そこまで書いちゃったか」と思った人がいるはずだが、私は、こここそが、「このレビューのテーマ」であると思っている。

(運命に抗うこと)

ともあれ、紀里谷の家系や血筋がどうかなんてことは、当然私も知らないし、「アンチ」たちも、きっと知らない。なぜなら、こうした問題は、通常「隠されがち」だからである。

だが、「隠される」からこそ、この種の「疑い」は、消えないまま、ずっと残してしまう。

日本人であろうとなかろうと、誰もそんなことを、わざわざ公の場で語ることはしないだろし、それは自分一人の話で済む問題でもないからだ。

無論、紀里谷が日本人であろうとなかろうと、それは、なんら誇るべきことでも恥ずべきことでもない「単なる一般的属性」の一つでしかないのだが、しかし、明らかにされないことによって、「疑惑」というかたちで生み出される「差別」がある、というのも、否定できない事実である。
つまり、少なからぬ「アンチ」たちは、紀里谷に対して「外国人ではないか」という疑いを持っている蓋然性が低くない。

説明し忘れていたが、今は必ずしもそうではないのだが、かつて「パチンコ業」を営む者には「在日」が多く、そこで稼いだ金を「北」の祖国へ送金するといったこともあったというので、例えば「ネット右翼」のような「ゆがんだ愛国心」の持ち主たちからすると、「パチンコ業」を営む者の多くが「日本人からカネを巻き上げている不逞外国人」だという認識(決めつけ)になる。

だから、紀里谷が、事実関係として「外国人」かどうかは別にして、少なからぬ「アンチ」の中には「パチンコで日本人から巻き上げたカネで、悠々自適の生活をしている」という「妄想」が広がっている蓋然性は、決して低くないはずなのだ。

しかしまた、「外国人のくせに」とか「パチンコ屋で稼いだカネで、趣味の映画を作っているくせに」などと思ってはいても、それを立証する確かな証拠はないし、「映画監督」なり「アーティスト」なりを批判するのに、そんなことをそのまま口にしたら、自分の方が「悪者」になるのは目に見えているから、紀里谷への批判は、少なくとも表面上は「作品の出来不出来」に限定されているのでもあろう。

だがまた、「本当に言いたいことを言えない」からこそ、「アンチ」たちの「妬み」は、内攻するばかりで、決して解消されることがない、ということなのではないだろうか。

 ○ ○ ○

紀里谷の経歴を見れば、彼が「若くして日本社会にウンザリしていた」のであろうことは、比較的容易に窺えるし、彼が「実力で勝負したい」と考えて生きてきた人であることも、容易に窺える。
だからこそ、「パチンコ屋のせがれではなく、一人の人間としての僕を見てくれ」という、気持ちが強かったがゆえの「ニューヨーク」だったのではないか、というような穿った見方も可能となる。

(同調圧力)

また、そんな彼だからこそ、「日本に凱旋帰国して、見返してやりたい」という意識もあったから、つい「生意気なこと」を言いもしたのではないか。「どうだ!」と、そう言いたかったという気持ちは、容易に想像できるところだとさえ言えよう。

だが、敵は「粘着質」であり、若い彼は、敵を甘く見すぎていた。

才能も地位も名誉もなく、「ルサンチマン」を抱えている人間というのは、だからこそ、「執拗さ」だけは持っていたのである。

 ○ ○ ○

また、紀里谷の経歴で、他に注目すべきは、

『毛皮反対プロジェクト - 『毛皮製品の残酷な生産実態を伝える映像』を創作し公開する。 「美しいものと、醜いものを合わせたものが毛皮…その生産現場は残酷。この違和感に忠実になってほしい」と紀里谷は語る-2014年10月』

という部分であろう。

なぜなら、「自然保護」「動物愛護」というのは、アメリカなどの「セレブ」がしばしば訴えるところだし、「ネット右翼」的な者からすれば、「左翼」的な主張だとも映るだろう。
つまり、この一点を捉えても、紀里谷は「鼻持ちならない、左翼のセレブ」だと、少なくとも「日本社会」では、そう思われてしまう恐れが十二分にある。

そしてさらに言えば、この問題は「日本社会」における「皮革加工業者」差別の問題にも繋がってきて、紀里谷への「差別的な視線」を強化することにもなっただろう。

しかし、いずれにしろ、こうした「疑い」はすべて、確証の求めようもないものだからこそ、隠微に延命してしまったのではないだろうか。

紀里谷への「敵意」の中に、こうした陰湿な「妬みと偏見」を感じた人たちは、紀里谷の力量を適切に評価し応援もしただろうが、さりとて、紀里谷への「敵意」は、多くの場合、何の確証もない「疑い」の上に成り立った「妬み」に発するものだからこそ、その「確証のない疑い」を名指して批判することもしにくかった、ということなのではないだろうか。
その結果、それは「遅効性の毒」として作用したのである。

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このようなわけで「紀里谷和明の映画監督引退」は、単に「映画がヒットしなかったから」というだけでは済まされない、日本特有の「隠微な問題」が伏在しているのではないかと私は考えるし、また、そう適切に「疑うべき」だと考える。

もちろん、繰り返すが、紀里谷和明の「実際・事実」が問題なのではない。
問題なのは、その「不透明なイメージ」であり、だからこそ、そのイメージに由来する「差別」も、よりタチの悪い「不透明な効果」を発揮しているのではないか、ということなのだ。

そして、何より「そんな捉えどころのない妖怪」を相手にしてきたからこそ、ついに紀里谷は挫折しなければならず、本作の主人公ハナのように、

「なんで、私なんですか?」
「どうして、こんなに苦しまなきゃならないんですか?」
「こんな世界、なくなればいい」

と、そう思わないではいられなかったのではないだろうか。

そして一一この「問いと思い」に対して、私は、

「君は、たまたま、この世界のスケープゴートだったんだよ、残念ながら」

と答えるしかないし、その意味で、

「この世界は、なくなってしまってもいいと思うし、きっと早晩、無くなるだろう」

と、そう答えてもいいと思っている。そうした見解を「タブー」にする気など、私にはない。

ただ、ひとつ付け加えるなら、

「正しい方法での復讐までは、否定される必要はないから、私はそれをしないまま死にたいとは思わない」

と言うだろう。

いつも書いているように、『ますます悪しくなりゆく世に中』に対する「嫌がらせとしての抵抗」まで、自分から放棄する気はない、ということである。


(2023年5月18日)

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