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小早川明良 『被部落差別の真実 創作された「部落の仕事と文化」イメージ』 : 思考停止が〈差別〉を生む

書評:小早川明良『被部落差別の真実 創作された「部落の仕事と文化」イメージ』(モナド新書)

すばらしい本だ。
本書は、いわゆる「被差別部落」問題を扱っているし、著者自身、その出身者であるけれども、著者の「被差別部落」問題に取り組む姿勢は、偏りのない、きわめて真っ当に学問的正道をいくものであり、これを公然と批判できる正論などは、どこにも存在しないだろう。
しかしまた、その「正道をいく姿勢」が、帯文にあるように『部落問題認識のコペルニクス的転回』をもたらすものなのだとしたら、これまでの「部落差別認識」が、いかに偏向したものであったのかも、おのずと明らかなはずだ。
著者は、そうした偏向や歪みの是正に、真正面からとりくんでいる「覚悟の人」なのである。

なぜ、そうした偏向が起こるのか。その根本にあるのは「思考停止」である。
差別が「許されざること」であるのは自明の事実であり、にもかかわらず、それが「横行する現実」が常に存在している。だから、まずはその「現実を変えていく」作業が先決問題とされるのは当然であろう。しかし、「差別」という「目の前の現実」と、それを改めていくという「目の前の作業」に比較すると、「なぜ差別は起こるのか?」という「原因究明」の作業は、どうしても「二の次」扱いにされてしまい、「ひととおりの説明」がつけば、人はそれで安心してしまいがちである。まして、その「ひととおりの説明」が「魅力的なもの」であれば、人はそれ以上の「正確な原因究明」の必要性を感じない、という陥穽に陥ってしまう。

つまり「昔のこと(差別の成り立ち)を、完全に正確に再現することは原理的に不可能なんだし、その意味で学説的には色々あるのが当然だ。だから、そのどれが正しいのかという学術的議論は、不必要だとは言わないが、もっと大切なのは、目の前の現実たる差別をなくす運動なのであって、原因究明はそこまで急を要する話ではないのではないか」という考え方が、「差別の原因究明」を疎かにさせる。

その結果、生み出された「一般的な差別の起源論」として代表的なのが、「封建的身分制の残滓」と「職業に関わる、観念的な穢れ」論である。
「封建的身分制の残滓」とは、江戸時代に成立した「士・農・工・商・穢多・非人」といった身分制度が、明治の解放令以降にも残ってしまったという説明であり、「職業に関わる、観念的な穢れ」論とは、部落の人たちは斃馬牛の処理に関わる仕事(皮革関連業や食肉生産業)など、屍体や血に触る職業に就いたため「血穢に染まっている」と宗教観念的に理解され、差別の対象にされていった、というような説明である。
こうした説明は、部落差別問題においては「常識的な議論」であり、部落差別問題に興味のある人なら、専門書も含めて、何度も読まされ聞かされてきた、常識的な「部落差別の起源論」だと言えよう。
しかし、本書の著者は、これを間違いだと真っ向から断罪する。

無論、差別の原因として、そうした要素が無かったと言うのではない。そういう要素があって、一定の働きをしたのは事実だけれども、それは部落差別を生む要素としては「わかりやすい、ごく一部の要素」でしかなく、そのわかりやすさの故に「本質」だと誤解(拡大解釈)されてきたものに過ぎないし、そのことにより「もっと重要な要素(主因)」が見逃されることにもなった、と論じている。

その重要な要素(主因)とは「権力による管理」であり「資本の論理」である。
こうした視点で「社会問題」を考えるというのは、きわめて常道的であり常識的でもある。なのに、なぜそうした「当たり前の視点」からの取り組みが、なおざりにされてきたのだろうか。

それは、「権力による管理」や「資本の論理」という論点は、たしかに学問的には常道的であり常識的であっても、一般人には容易に理解できるものではないからだ。そうした視点から問題の本質を考えるためには、「目の前の問題」を見ているだけでは、まったく不十分であり、「目の前の問題」を「全体(の問題)」のなかで位置づけるだけの「知見と思考努力」が必要なのである。だが、これが「部落差別反対運動」には欠けていた。

もちろん、差別された人たちが、血の涙を流し、怒りにうちふるえる「目の前の現実」においては、「客観的な視点」の確保は容易なことではない。それは著者自身も重々承知しているのだが、しかし、その「当事者意識」に縛られつづけていると、物事は正しく見られなくなることもあるし、それで道を誤ることもある。どんな人間であれ、どんな正当な怒りであれ、頭に血の登った人間は、物事を適切に判断することが困難になるのである。
だから著者は、被差別部落の仲間たちに対して、あえて「スティグマ(聖痕)」をふりまわすな、自身が「特別な人間」だと考えすぎるなと警告する。つまり、被差別部落民もまた「ただの人」であり、特別に劣ってもいなければ、特別に優れているわけでもない。その「ただの人」が、特別に蔑視されていることが問題なのだ、という現実を、まずは正しく理解しなければならない。
そして、それができれば「差別の起源論」として「封建的身分制の残滓」や「職業に関わる、観念的な穢れ論」といった「一面的な説明」がいつまでも担がれることにもならず、本質を見誤ることにもならないと、著者は言う。

「一面的な説明」にとらわれて「本質」を見誤ることの、最大の問題点とは何か?
それは「差別の(改訂的)再生産」を看過してしまうことになる、という点である。

間違ったところや一点にばかりに注目しているということは、肝心なところを見落としているということであり、そうであれば、見落としているところで「差別が新形式によって再生産」されることになるのだが、それに気づかず、あるいは気づくことが遅れて、再び三たび、痛手をこうむることにならざるを得ない。これは理の当然なのだ。
だから「目先の問題」と「わかりやすい説明」だけにとらわれて、いつまでも「問題の本質」の探求を怠っていると、結局は「権力と資本の論理」という圧倒的な脅威に裏打ちされた「差別」に打ち勝つことはできない、ということになる。だからこそ、著者は「難しくても考えよ、思考停止に陥るな」と訴えるのである。

したがって、こんな著者を「現実知らずの、頭でっかちの学者」だなどと思ってはいけない。
著者は、誰よりも「反差別への熱い思い」を持っていればこそ、「安直な政治主義」という主流派の態度に抗って「理想を捨てるな」と説くのである。

『 人はよく「それは理想論だ」なんていう。しかし、理想を捨てて、ちょっと低いところの要求を実現して、個人の尊厳が守られるのだろうか? 高い理想をもたない、つまり思想が貧困だから現実に迎合するんだよ。ある人からわたしは教えられた。どんな絶望的な状況下でも、希望を失わない人が生きて、解放を実現すると。』(P272)

そして、こんな著者の理想を支えているのは、次のような現実への直視とそれへの思いなのである。

『 わたしは被差別部落出身で自殺した人のことを、個人で知り得た限りメモしている。
 忘れず、いつか無念を晴らすために。すべてが部落差別の結果だとはいわない。しかし、24人もいる。結婚差別は多い。仕事がきまらないで悲観した人もいる。
 結婚のさいも、就職のさいも、たかがしれた理由で、人をかんたんに排除する。しかも、その理由があきらかに部落差別による忌避なのかどうかがわかりづらく、責任追及もできない。初婚と再婚のときの両方で身元調査された部落出身者もいる。

一一 たかが知れた理由……ですか。(※ 質問者)

 そう、結婚のときに口にだされる「世間体」もくだらない。さらに(※ 差別を正当化する、経済的口実としての)「人的資本」や「生産性」なんて、人間の価値となんの関係もない。たかが知れているよ。』(P215)

『たかが知れている』理由によって、悲嘆の中で死に追いやられる「ただの人」たちがいて、『たかが知れている』理由によって、悲嘆の中での死に人を追いやって、痛みを感じることのない「ただの人」が大勢いる。この度しがたい「人間の愚かしさ」という『絶望的な状況下でも、希望を失わない』と著者は、死んでいった人たちにそう誓っているのである。

初出:2019年3月19日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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