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志位和夫 『新・綱領教室 2020年改定綱領を踏まえて』 : 日本共産党の〈思想的現在〉

書評:志位和夫『新・綱領教室 2020年改定綱領を踏まえて』(上下巻・新日本出版社)


本書は、日本共産党の「基本的な考え方と行動方針を示す基本文書」である「綱領」の、2020年最新改訂版が意味するところを解説した、志位和夫委員長による講義録である。
講義の受け手は、同党機関紙「しんぶん赤旗」の新入編集局員たちだ。

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なお私は、日本共産党党員でもなければ、シンパでもない。
私が日本共産党の存在を最初に意識したのは、かつての創価学会員時代、選挙運動における「敵」としてであった。

創価学会と日本共産党は、昔から仲が良くなかった。
その理由として、まずは日本共産党が「宗教(信仰の力)」を否定していること。マルクスの有名な言葉「宗教はアヘンである」ということで、共産党員は創価学会員を「科学的な思考のできない、遅れた人たち」だと見下していたし、創価学会員もそれを敏感に感じ取って反発していた。
また、創価学会と日本共産党は、共に「庶民派」であり、(公明党が与党入りする以前は)「反体制派」という点で共通していたため、選挙運動においても、教勢・党勢の拡大においても、いわば「同じパイを奪い合う」ライバル関係にあったからである。
双方ともに、政権与党である「自民党」を敵視していたから、一時は同じ庶民派野党勢力として協力すべきだということで「創共協定」が結ばれたこともあったが、結局はそれもうまくいかず、元の木阿弥となってしまった。

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その後、公明党が自民党と「自公政権」を組むようになり、その結果「アメリカのイラク戦争」を支持することになったため、それまでの創価学会の「絶対平和主義」を信じていた私は、堕落した公明党と、それを批判できない創価学会に失望して、創価学会を去ることになるのだが、そのこともあって、その後の私は、創価学会員であった当時よりもむしろ、自覚的な「反・自民」「反・権力」の人間となり、そうした立場から、あらためて「日本共産党」の実像に興味を持つようにもなった。

とは言え、私は根っからの「趣味人」であり、徹底した「読書家」だから、「政治」や「イデオロギー」にのめり込むということはなかった。
むしろ、創価学会を辞めたおかげで、政治や選挙に拘らなくてもよくなった分、好きな趣味に没頭できるようになったので、日本共産党への興味も、もっぱら、私の極めて幅広い知的興味(対象)の一部分に過ぎず、興味はあれども、実際には、なかなかそこまでは手が回らず、読書家として「日本共産党関連の本を読む」には至らなかった。

それでも、「思想・哲学」方面に興味はあったから、そうしたジャンルにおける無視しがたい重要人物の一人としてのマルクスについては、解説書の類を何冊かは読んできた。しかし、何しろ、その主著が、あの浩瀚な『資本論』であり、しかも『資本論』は、私の苦手な「お金の話」だったため、「聖書」やプルーストの『失われた時を求めて』といったものを、面白いとも思えないまま「読まねばならぬ」で通読したような私でも、やはり手をつけかねたのである。

しかしながら近年は、従来採ってきた「とにかく代表作から」という正面突破方式は断念して、『共産党宣言』『共産主義の諸原理』、エンゲルスの『空想から科学へ』といった短いものを読みはじめた。
そして、「共産主義」の雰囲気くらいは掴んだところで、「日本共産党」の方にも着手することにした。『資本論』を片づけてから、などと言っていたら、死ぬまで「日本共産党」にはたどり着けないからである。

そして、最初に読んだのが、宮本顕治の『日本革命の展望』(1961年刊)。同書は、戦後の共産党分裂後の「61年綱領」を解説した本で、今の日本共産党の「原点」や「基本的な構え」を示すものであり、しばしば問題にされる「共産党の暴力革命論」疑惑や「敵の出方論」について、その考えが語られた本だと聞いたからである。
そして、実際に読んでみると、「党内の異論提唱者に対する、むき出しな敵意や攻撃的論調」は気になるものの、予想していたのとは違い、しごく「当たり前」なことしか語っていない本だった。

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その次に読んだのは、不破哲三の『現代社会と科学的社会主義』(1968年刊)で、この本を選んだのは、社会党系青年組織である「社青同」にかつて所属していた、共産党嫌いの「元外交官僚」佐藤優が、同書を「共産党は、その暴力性を隠蔽するために、この歴史的理論書を絶版にしている」と、池上彰との対談書『日本左翼史』の中で語っていたからである。
つまり、隠しているのなら是非読まなければならないと思って読んだのだが、この本に書かれていることも、しごく「当たり前」な正論でしかなかった。

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そんなわけで、戦後の日本共産党を、理論的にリードしてきた、宮本顕治とその後継者である不破哲三の「代表的な著作」を読んだのなら、次に読むのは当然、不破の後継者である、現委員長・志位和夫の理論書ということになろう。一一そう思っていたところへ、折りよく、日本共産党の最新「綱領」の解説書である本書が刊行されたので、これを読むことにしたのである。

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(左から、志位和夫、宮本顕治、不破哲三)

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本書を読んで、まず強く感じたのは、その「論理性」と、「アンチ・ニヒリズムの不動心」とでも呼ぶべきものだ。

前記のとおり、宮本顕治の『日本革命の展望』は、ソビエト共産党の介入によって「冒険主義的革命行動」に走って失敗をしたグループとの分裂を受け、改定された「61年綱領」の解説書だったから、論理的ではあっても「(近親憎悪的)闘争心むき出し」なところが、時代を感じさせて興味深かった。
また、不破哲三の『現代社会と科学的社会主義』は、ベトナム反戦運動と学生運動が最高潮に達せんとしていた時期に書かれたものなので、自分たちの理論的予見の正しさへの自信に満ちた、ある意味では「勝ち誇った」感じの滲む「政治批評書」であったと言えよう。
つまり、この二著は、時代と著者の個性を反映して、とても「人間的」な本だったと言えるのだが、今回読んだ、志位和夫『新・綱領教室 2020年改定綱領を踏まえて』は、その趣をまったく異にする、独特の個性を発揮した著作であった。

日本共産党は「科学的社会主義」を掲げているのだから、「論理的」であるというのは、言わば当たり前である。
この「科学的社会主義」とは、「空想的社会主義」に対応する言葉であり、要は、マルクス以前の「社会主義」というのは、「理想主義」や「人道主義」、あるいは「ロマン主義」的な、言うなれば「人情先行」の社会主義であった。「ここに、これだけ虐げられた人々がいる。彼らが救われる社会を実現しよう」といった「義を見てせざるは勇無きなり」的な「心意気」と「人道主義ロマン」に立脚した社会主義であり、いきおい、その「目標や方法論」に「合理性・論理性」が欠けていた。だから、そうしたものは所詮「夢見がちなものでしかない」という意味で「空想的社会主義」だと「批判」したのである。「そんなことでは、社会変革は不可能だ」と。

一方、マルクスの「共産社会を目指す、社会主義」は、「経済学を中心とした社会構造分析」に立脚して構築された、「科学的な社会主義」思想であった。
だから、マルクスの流れを引く社会主義者は、「科学的」でなければならない。つまり「気持ち=人情」だけで「社会変革」を目指すのではなく、冷静かつ客観的な社会分析に立脚した「合理的な社会変革」を行わなければならない、と考えるのだ。

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(マルクスとエンゲルス)

そんなわけで、宮本顕治であれ不破哲三であれ、あるいは本書著者の志位和夫であれ、「論理的」であるというのは、言わば当然なのだが、しかし、本書に見られる志位和夫の「論理性」は、宮本や不破のそれとは明らかに違って、独特の「目につきにくい」個性を持っていた。それが、私の言う「アンチ・ニヒリズムの不動心」とでも呼ぶべきものである。

言うなれば、宮本顕治は「野武士のような(華のある)理論家」であった。その「理論」において、論敵を斬り殺すような迫力に満ちた理論家だったと言えよう。
一方、不破哲三は、基本的に「学究肌」であり、その論理性は「カミソリ」のそれであったと言えるだろう。つまり、犀利かつ、よく切れるのだが、宮本のそれとは違って「学者・批評家」的であり「修羅場むきではない」という、線の細さが否めなかった。

それに比べると、志位和夫の場合、その「文体」から窺えるのは、「人間」としての個性では、宮本顕治のような「派手な勇ましさに欠けて、当たり前に紳士的」であり、「理論家」としては、不破哲三のような「快刀乱麻」的な華はない。
しかし、この人の凄みは「地味だけれども、一歩も退かず、表情も変えずに、じりじりと前進する、その不動心」にあると、そう言えるだろう。

では、私の言う、志位和夫の「アンチ・ニヒリズム」とは何かといえば、それは「人間と社会の変革を信じて、決して諦めない、かけらも冷笑的になどならない、その愚鈍なまでに揺るぎのない頑固さ」ということである。

 ○ ○ ○

本書を読んで、「今の共産党」の考え方というものが、とてもよく理解できた。

こちらとしては、所詮は「基本的な考え方を示す理論書」であって、言うなれば「本音を隠した、タテマエの本」ではないかと、眉に唾して読んだのだが、どうやらそうではない(「なさそうである」ではない)。
つまり、志位和夫は本気で「日本国民の心構えを変え、日本の社会構造を変える」ことができると、そう信じていることが、ひしひしと伝わってくるのだ。一一と言うか、より正確にいうならば、彼は「それが出来なければ、日本はおしまい」だと、本気で考え、覚悟している。

無論、リーダーたる彼が「それが出来なければ、日本はおしまいだ」とは、口が裂けても言わないし、それを口にするのは「革命家として負け」だと考えているから、彼は「挫折」に備えて予防線を張るようなことはせず、ただただ、どうすれば「日本国民の心構えを変え、日本の社会構造を変える」ことができるのかを、「論理的」に考えて、理論的にそれしかないと考える「方法論」を、迷いなく愚直に、粛々と実践しようとしているのである。

だから、彼の「文体」には、宮本顕治や不破哲三には、まだ多少なりともあった、人間的な「ケレン味」が無い。
そのため、一見したところ「正論ばかりで、地味」という印象を与えてしまうが、「逆境における革命家」として、むしろ恐るべき才能の持ち主だと言えよう。

どんなに状況が悪くても、予想に反してうまくいかないときでも、それを嘆くのではなく、冷静にその原因を究明し、新たな方針を立てて、それを実践するのみ。
人間的に、感情的になったり、情勢論に流されたりするのではなく、はるか彼方の、それこそ本書中で何度も語られるとおり、実現に何百年もかかるかもしれない目標であろうと、その場その場で、科学的に最善の策を講じながら、一歩一歩「理想に漸進していく」というのが、「今の共産党」の考え方であり、それを体現しているのが、志位和夫だと言えるのだ。

例えば、昨今取り沙汰される「民主連合政権」構想における、選挙での「野党共闘」において、「野党共闘」がうまく結果を出せず、自党の議席を減らし、また共闘した他党が好ましくない選挙結果に浮き足立つのに対して、志位は、どうしてそれでも「野党共闘」の継続を迷いもなく訴え、必要であれば、仮に「民主連合政権」が成立したとしても日本共産党は(公明党のように)大臣の席を求めず「閣外協力に止まっても良い」とまで言うのだろうか。この一見したところ、愚鈍なまでの方向論に対する愚直さは、いったいどこから出てくるものなのだろうか。一一その理由は、本書を読めば、ハッキリするはずだ。

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本書は、政治家や学者を含めて、「日本共産党の現状」をよく知らない人々の持つ「すべての疑問に答えてくれる」と言ってもいい、明確な内容を備えている。すべての疑問に対し「論理的な回答」を与えてくれるのだ。

だが、その「論理的な回答」とは、「必ずこうなる」というような「決定論」ではなく、「こうしなければ日本は終わるし、終わらせないためには、こうするしかない」というような、ギリギリの説明なのだ。

つまり、「今の日本共産党」の「論理性」とは、「未来の必然」や「歴史の法則性」を語るものではなく、「目指すべき社会を実現ための、必然的(選択の余地なき)方法論」だと言えるだろう。それは、「予言」ではなく、まさしく「預言」なのだ。「こうなる」ではなく、「こうしなければならない。最早これ以外の選択肢はない」という種類の「論理性」なのである。

だから、そこには「派手」な要素など微塵もない。
「やるしかないわけだが、さて君はやるのかやらないのか」という刃を突きつけてくる、そんな種類の「論理性」であり、覚悟した者の持つ「しんとした迫力」が、本書には満ち満ちている。

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別に私は「日本共産党を支持すべきだ」と言いたいわけではない。
だが、つまらない「噂話」だけで、日本共産党を馬鹿にできる人間は、まさしく「無知な馬鹿」でしかないと断じることはできる。

「今の日本共産党」が、その「最新の綱領」で何を語り、それをどれほど実践に移しているのかも知らないまま、平気で日本共産党を語る人間とは、クラークやディックを読んだこともないのに「SF」を語る自称「SFファン」とか、クイーンやカーを読んだこともないのに「本格ミステリ」を語る自称「ミステリーファン」とまったく同種の「無知で、身の程知らずの馬鹿」でしかない。

私は「読書家」であることに自負を持っている人間だから、関係書の10冊も読んでいない事柄について、テレビや新聞で「聞きかじった程度の知識」で、知ったかぶりを語るような人間は「馬鹿」だと思っているし、いつもそう明言している。「語るのなら、読んでからにしろ」と、「それが読書家だろう」と。一一この「正論」には、誰も反論できない。

だから、「今の日本共産党」を語るのであれば、まず本書を読むべきだとオススメしたい。

無論、これだけで十分だとは言わないし、講義として、きわめて平易に語られているとしても、共産主義や、戦中戦後史に無知な人には、十全な理解の得られない内容ではあろう。だが、そのあたりについて「ひととおりのことは知っているよ」という人ならば、是非とも本書を読むべきである。
本書は、「どうせ建前のきれいごとを書いているだけでしょ?(ホンネは別なんだから、読むだけ無駄)」という、先回りの「臆見」を、完全に論破するだけの内容を持っているのだ。

だから読者よ、知ったかぶりはやめて、君自身の頭で「今の日本共産党」と対決せよ。

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一一無論、その自信があるのであれば、だ。


(2002年8月7日)

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