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北村英哉、唐沢穣 編『偏見や差別はなぜ起こる? 心理メカニズムの解明と現象の分析』 : 過剰な免疫システムとしての〈偏見と差別〉

書評:北村英哉、唐沢穣 編『偏見や差別はなぜ起こる? 心理メカニズムの解明と現象の分析』(ちとせプレス)

先行のレビュアー「BT_BOMBER」氏が紹介されているとおり、本書は『差別や偏見を引き起こす心理メカニズムをわかりやすく解説した良書』であり、その内容も、同氏の紹介どおり『構成的には2部構成になっており、第1部5章までが差別・偏見に関わる理論の紹介、第2部6章から13章が個別案件についての研究紹介になって』いて、扱われる内容は多岐にわたっている。
したがって、第2部で扱われる「人種、民族」「移民」「障害」「ジェンダー」「セクシュアリティ」「原発」「高齢者」「犯罪」といった個々のテーマについては、具体的事例研究ではなく、基本的な問題とそれに対する社会心理学の基本的な知見を示して、あとは読者がそれを「現実問題」に即して考えていくことを促すかたちとなっている。

それぞれの論考には、様々な「思考のヒント」がちりばめられていて、とても興味深いのだが、ここでは、著者が、本書の理論的基軸にすえた「システム正当化理論」に関して、私なりに思うところを書いておきたい。

社会心理学者のジョン・ジョストが提唱した「システム正当化理論」とは、「人は、現状のシステムを正当化したがるものである」というものであり、決して難しい話ではない。
ただ、この理論が新しかったのは、第2部で扱われたような様々な「偏見や差別」というもの原因について、個々に説明するのではなく、総括的かつ本質的に説明できる点にあった。つまり、「人種、民族」「移民」「障害」「ジェンダー」「セクシュアリティ」「原発」「高齢者」「犯罪」といった問題における「偏見や差別」というのは、基本的にはいずれも「これまでのままでいいじゃないか。その方が安心だ(状況の変化は、予想困難であり怖い)」という「保守」的な心理に基づくものだった、というわけである。

したがって、政治の世界においても、「保守」思想と「差別」が結びつきやすいというのは理の当然であり、逆にリベラルの「自由主義」や左翼の「革新思想」が「反差別」と結びつきやすく、保守からは「冒険主義」だと批難されがちなのも、「保守」の心性からすれば、故なきことではなかったのである。

言うまでもないことだが、人間社会というのは、嫌でも変わっていくものであり、いくら安心だと言っても、ずっとそのままというわけにはいかない。いくら「私は保守だ」という人でも、パソコンやネットのお世話にならないで、「原始生活」を生きるつもりはない。このくらいのことは、よほど頭の悪い「自称保守」でもないかぎりは、わかりきった話なので、まともな保守思想家ならば、「変化」そのものは否定せず、あくまでもその「スピード」を問題とし、「急進」主義を批判するだけなのである。
つまり、要は「変化のスピードの、程度問題」なのだ。

したがって、「人種、民族」「移民」「障害」「ジェンダー」「セクシュアリティ」「原発」「高齢者」「犯罪」といったいずれの問題であっても、「変化」の方向性自体は、基本的には決まっている。「一時的な反動現象」はあったとしても、「反動」がシステムとして安定化し、永続することはあり得ない。人間の総体的な知識や知性は、基本的には後戻りできないからだ。
(ちなみに、これは「原発を容認する」ということではない。原発というシステムが変わらないかぎり、決して容認されないし、それへの根拠ある否定的意識は消せない、ということだ)

だから、なぜ「偏見や差別」というものが生まれるのかということを正しく理解したならば、現状に固執して「偏見や差別に、救いを見いだすこと」の、非現実性や非科学性は容易に理解できる。
喩えて言うなら、仏像にしがみついて「助けてください」と祈ることで、一時的な心の平安を得ることはできても、仏像が動き出して、その人を実際に救ってくれるというようなことは、金輪際おこらない。これと、まったく同じ話なのだ。

同じ人間を、細かな差異によって、無理に区分して、他者を犠牲にすることで、自分が助かろうとする「偏見や差別」の方法論というものは、もともと「ありもしない差異」を根拠としたものなのだから、いずれは頓挫せざるを得ない「誤った解決法(=疑似解決法)」である。

私たちは「現実」を直視しなければならない。
たしかに人間には、「個体差」の他に、「性別の違い」や「皮膚の色の違い」「所属する国の違い」といったものもあるだろう。しかし、それが「個体間差異」ほどの客観的「格差」を持つものではないという現実を直視するならば、「人種、民族」「移民」「障害」「ジェンダー」「セクシュアリティ」「原発(事故被災)」「高齢者」「犯罪」といったものによる「差異」が、じつのところ「小さいもの」だということに気づくはずだ。

もちろん、私はここで、その「能力」によって人を「差別」すべきだと言いたいのではない。
私たちが「偏見や差別」において見ている「差異」は、じつのところ「ごく一面的な差異」であり、実質的には「政治的なフィクション」でしかない、と言いたいのである。その「差異」よりも、「同一性」の方が、はるかに大きいのだ。なにしろ、同じ「人間だもの」、ということである。

私たちは、生物としての自己保存本能によって、本書でも紹介されている「公正世界信念」を持ちがちであるし、それに基づいて「公正推論」をおこないがちである。
だが、この世界の現実は、決して「公正」ではないし、だからこそ「公正であることを前提としてなされる推論」は、自ずと誤謬である。
「醒めた目」でこの世界を見るならば、この世界は、どうしたって「不公正」であり、「不公正」であるのだから、それを前提として、この世界の「不公正」を、いかに是正していくのかと考えるのが、「環境」を変えることのできる人間という動物特有の「知性」というものなのだ。

私たちはしばしば、この世界の「不公正」に脅かされる。その時に「この世界は公正なはずだから、何も悪くない私の平穏な生活が脅かされる道理などない。したがって、今ここにある脅威は、根拠のない誤謬に過ぎない」などと考えるのは、砂に頭を突っ込むことで、現実から逃避しようとする「ダチョウの論理」でしかない。

私たちは、現実にある「誤謬」に立ち向かい、それを変えていくことのできる「知性」を持った、人間という生き物なのだから、敗北主義的に現状に甘んじるのではなく、「不公正」なこの世界を、すこしでも正していかなければならない。それでこその人間であり、それでこその知性なのだ。

本書は、人間の「反知性的な弱さ」に由来する「偏見と差別」が、いかにして生み出されるのかを教えてくれる。それは、きわめて「本能」的なものであり、言うなれば、ある種の免疫システムの過度な作動だと言えるだろう。
しかし、人間は「本能」のままに生きるしかない「動物」ではない。プログラムの範囲でしか動けない「木偶人形」ではない。
人間の知性には「本能抑制機能」というメタ機能も仕込まれてもいる。だから我々は「マスターベションを止められないサル」などではないのだと、その「知性」に「人間としての尊厳」という自負を持つべきなのである。

初出:2020年3月10日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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