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〈日本人の国民性〉が問われる問題 : 内田雅敏『元徴用工 和解への道 ――戦時被害と個人請求権』

書評:内田雅敏『元徴用工 和解への道 ――戦時被害と個人請求権』(ちくま新書)

「徴用工問題」の本質的論点とは、レビュアー「寸鉄」氏が、正しく指摘しているとおり、『はたしてこれは歴史認識や外交の問題だろうか?』という点にある。
日本側には「加害の事実」があるのだから、それを「どう償うか、償わなくて良いのか」という話なのだ。

「償うべきだ」と考える人の意見はわかりやすい。要は、条約だの判決だのがどうであろうと、加害のあった事実は変わらないのだから、加害者は被害者に対し、その「良心」において償うべきである、というものである。

一方「償わなくてもいい(償うべきではない)」という主張する人の意見とは、要は、条約や判決で、すでに「賠償義務はない」となっているのだから「償う必要ない」。なのに「償え」と要求してくるのは不当である、というものだ。

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本書での、落としてはならない「法律論議」としては、国家間の条約においても「個人の請求権」は放棄されておらず、あくまでも「外交保護権の放棄」でしかない、という「法的な常識」論であろう。

「外交保護権の放棄」とは、要は「国家が国民に代わって、その被害からの保護救済にあたる権限、の放棄」である。つまり「わが国政府は、国民個人の被害について、他国に対し、なんら要求することはしませんよ」という約束であって、被害者個人が他国を訴える権利までは、その条約においても、破棄や放棄はなされていないのである。

では、韓国の裁判所が「個人の請求権」を認めたのは、こうした国家間条約における「外交保護権の放棄」に反する行為なのだろうか。
一一そうではない。なぜなら、まともな民主主義国家における裁判所は、政府からは「独立して判断を示す権限」を持っているから、国家間条約にも縛られないのである。
言い変えれば、国家間条約に縛られて、自由に判断も示せないような裁判所は「御用裁判所」だということなのだ。

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だが、こうした「法律論議」は、「人間の普遍的な正義と倫理」においては、本質的なものではない。
前述したとおり、大切なのは「加害の事実があれば、償いをするのは当然」という、当たり前の「人間倫理」なのだ。

無論、現実問題としては、その「例外」というのも、少なくない。例えば、前記の「条約」や「法律・判例」といったものがそうだ。
具体的に言えば、「未成年は罰せられない」とか「心神喪失者は罰せられない」といったものがその典型で、犯罪行為を現に為し、他者に被害を与えたにもかかわらず、罰せられない、償いを求められない場合というのはある。彼らには、そもそも「責任能力が無い」ので、加害と被害の事実があるにもかかわらず、「法的」には、罰することも償わせることもしないし、させないのである。

で、話を「徴用工」に戻すと、彼らが「不当な仕打ちを受け、被害にあった」というのは、日本政府自身も認めている「歴史的事実」である。

しかし、日本の現政府は、「条約」によって「すべて片がついた」と強弁して、被害者の「個人の請求権」まで無視拒絶しようとしている。だがこれは、百歩譲って「合法的(合条約的)」ではあるかもしれないが、国際的に客観的な目で見れば、「反倫理的・反道徳的」だと評されざるを得ないだろう。
「法的に責任を問われない」ということと「自身の加害についての償いをしない」ということとは、決して同じことではないからだ。

例えば「未成年犯罪者」に対し、被害者や被害者家族が「せめて謝罪してください」と要求した時に、当該未成年犯罪者が「そんなことしなくていい(する義務はない)んだよ」と被害者家族をせせら笑ったり、「あんたがたの要求は、法治国家の原則をくつがえすものだ」と逆批判したとしたら、客観的な第三者は、どう思うだろうか。

この「未成年犯罪者」も、じつは内心では「加害の事実はあるのだから、謝罪してもいいんだけど、しかし、謝罪したら、次は金銭的賠償を求められるかもしれないし、そうなるとこれは自分ひとりの問題ではなく、他の犯罪者も同じことを求められるようになるだろうから、自分ひとりが良い子になるわけにはいかない」などとあれこれ考えた末に、謝罪も賠償もしないのかもしれない。
したがって、こうした「打算」も、現実問題としてはまったく理解できない話ではないのだが、しかし、自身の「加害の事実」について、被害者や被害者家族を蔑ろにするような彼の態度は、やはり「非論理的・非道徳的」なものとしか評価し得ないだろう。

そしてこれは「徴用工」問題に対する、現日本政府の態度ついても、まったく同じことなのだ。

その条約が、「外交保護権の放棄」に過ぎなかったのか、それとも「個人の請求権」の放棄・消滅まで含むものであったのか、といった問題は、事の本質ではない。あくまでもそれは(「人間的な本質問題」ではなく)テクニカルな「法的・政治的問題」にすぎないのだ。

だから「条約で、もう責任を取らなくていいとなってるんだから、おまえら、今更グズグズ言ってくるなよ」という、現日本政府とその論法の支持者の言い分や態度は、客観的な視点に立てば、かなり「恥ずべきもの」なのである。
右派・保守派的な言い回しをすれば、「国辱」的な態度だということになるのだ。

やはり「日本人」は、もっと「他者に対して、思いやりのある、心優しい国民性」を持っていて然るべきであろう。たとえ多少の金銭的な損をしてでも、守るべき道義や名誉というものは、確かにあるのだ。

書評:2020年7月27日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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