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『現代思想 総特集◎ブラック・ライヴズ・マター』 : 〈私〉とブラック・ライヴズ・マター

書評:『現代思想 2020年10月臨時増刊号 総特集◎ブラック・ライヴズ・マター』(青土社)

河出書房新社編集部編『BLACK LIVES MATTER:黒人たちの叛乱は何を問うのか』を読み、レビューをアップしたのが本年10月31日で、それに続けて本誌を、通勤の行き帰りの電車の中で少しづつ読んできた。単一著者の著作なら、ある程度いっきに読んだ方が良いのだが、多くの著者の短文を集めた本誌のようなものの場合は、むしろそのような読み方の方が良いと思ったからである。

この2冊を読むことで、私は「ブラック・ライヴズ・マター」の概略を知ることができた。だからと言って、私がこの「運動」に関して、何らかのかたちで参与したというわけではない。
ただ、テレビニュースなどで聞きかじっただけでは、あれこれ判断することもできないと思ったので、ひとまず最低限の情報は得ようと思ったのである。

河出の『BLACK LIVES MATTER:黒人たちの叛乱は何を問うのか』のレビューでは、同運動も決して一色のものではなく、過激なものから穏健なものまでの幅があるという事実を知り、過激なものへの共感と同時に危惧をも表明したのだが、主に日本人執筆者の論考で構成された本誌を読んで、いま思うのは、そうした「コメントする主体」の「当事者問題」であった。

言うまでもないことだが、「アメリカにおける黒人差別問題」について、私たち日本人の多くは「当事者」ではない。
では、日本で行われたデモに参加すれば「当事者」なのか? Twitterなどで支持表明をすれば「当事者」なのか? それともやはり「真の当事者」というのは「アメリカ在住の差別される黒人」だけなのだろうか?

もちろん、基本的にはこれは、「当事者」という言葉の定義の問題なのだろうが、「アメリカにおける黒人差別問題」に深く感情移入して心を痛めている人にとっては、自身がどれだけ「当事者」たり得ているかという問題は、倫理的な問いとして避けて通れないもののようである。

例えば、本誌の最後尾あたりに収録されている、マサキチトセによる「あなたが書けたかもしれない紙面を奪ってまで」は、日本にいて、主にSNSを用いて同運動を支援しているマサキが、しかし本誌に寄稿を求められた際に感じた、違和感を表明したものである。
「被差別の当事者」たちの「声」がもっと紹介されてしかるべきなのに「自分のような、ほとんど非当事者の原稿が、はたして誌面を奪っても良いものなのか」という危惧がマサキにはあって、いったんは寄稿を断り、別の適切と思える黒人著者を紹介までしたものの、結局は諸事情により寄稿することになったという顛末を紹介し、マサキ自身の逡巡を語った文章となっている。

マサキはここで「アメリカにおける黒人差別問題」の被差別当事者ではあり得ない私たちが、「ブラック・ライヴズ・マター」について、何かもっともらしいことを語ろうとする際の「倫理」を問い、その自己検討を促しているのではないかと思う。
だからこそ私は、それへの応答として、これを書いている。

端的に言って、私は「アメリカにおける黒人差別問題」についても、従来より一定の問題意識を持ち、被差別者である黒人への同情を感じている。しかしながらそれは「特別なもの」ではない。
つまり、あらゆる「反差別運動」に対する感情と同様のものを「ブラック・ライヴズ・マター」にも感じているだけであって、言い換えれば、それだけを特別扱いにして、特に時間を割こうとまでは考えていないのだ。

もちろん、Twitterで「支持表明」するくらいはお易い御用なのだが、残念ながらネトウヨとのケンカでアカウントを凍結されたので、今のところそれはできないし、仮にできたとしても、いずれにしろ自己満足以上のものにはならないだろう。
と言うのも、私は基本的に「集団的示威行為」が好きではなく、言いたいことがあれば一人で好きなだけ言う、という個人主義的自由主義者なので、例えばTwitterのアカウントでは、フォロワーに迷惑が及ばないように、自分からは一人もフォローしなかった。つまり、私がフォローしたからとフォローし返してくれた人たちのタイムラインを、私のケンカツイートで汚したくはなかったのだ。
そのため、フォロワーの少ない私のツイートは、ほとんど政治的な影響力を持たないものであり、私はもっぱら、誰に遠慮することもなく、言いたいことを言いたい相手に伝えようとしてきただけなのである。

また、そんな人間なので、「ブラック・ライヴズ・マター」についても、自分が「当事者か否か」と気に病むことはなく、私は私の発言において常に「当事者」であり、「ブラック・ライヴズ・マター」という運動の「一部」でもなければ、運動に責任を負っているとも、思いはしない。
つまり、私は「被差別者のために」発言しているのではなく、自分が言いたいことを言っているだけという事実において、常に「個人としての当事者」であるだけなのだ。

なぜ、こんな自慢話とも取られかねないことをわざわざ書いたかといえば、それは「過剰な責任の引き受け意識」というものも、ある意味では「尊大な自意識」の発露なのではないかと感じたからだ。

たしかに「運動」には「数」が必要であり、その意味で「連帯」も必要なのだろうが、「連帯」は義務ではないのだから、一人で勝手にやってる私のような人間もありなのではないかと思っている。
それに「集団や組織や運動に対する、倫理的で義務的な責任意識」というのは、しばしば「自由な個人」を抑圧するものに転化しがちだからこそ、アリバイとしての「支持表明」や「共感表明」の前に、「ひとまず、それが何なのかを知ってみよう」というような、いかにも外野的な意識の持ち方も、決して悪いものではないだろうと、そう言いたかったのである。

とにかく、この世界には数限りない「切迫した問題」が存在するが、一方わが身は、残念ながらたったの一つなのだ。

初出:2020年12月21日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)








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