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オクテイヴィア・E・バトラー 『血を分けた子ども』 : 人種と被支配と性愛

書評:オクテイヴィア・E・バトラー『血を分けた子ども』(河出書房新社)

オクテイヴィア・E・バトラーの「SF短編+エッセイ集」である。

バトラーは、2006年に58歳の若さで亡くなっている黒人女性作家であり、黒人女性のSF作家の先駆けとなった人で、彼女の存在意義も、そのあたりで議論されることが多いようだ。
したがって、アメリカ本国での評価の高さに比して、日本ではほとんど知られていない作家だと言っても、言い過ぎにはならないようだ。SFファンでも、よほどコアな人しか読んでいないようだし、そんなSFマニアでも、黒人の被差別史に特別な興味を持つ人はごく限られているだろうから、おのずとその理解も浅く、通り一遍のそれに終わってしまう傾向があるようだ。またそのため、「差別は良くないよね」とは思っても、それが自分自身の「今ここ」の差別問題と結びつくこともない。
だから、バトラーの持っていた、アンビバレントな問題意識に、日本人読者の理解が届くことはほとんどなく、おのずと日本では人気の出ようもなかった、ということなのであろう。

現時点での、バトラーの翻訳書は2冊だけ。代表作長編である『キンドレッド――きずなの召喚』と本作品集『血を分けた子ども』のみである。
また、日本のSFファンの多くは、バトラーを、ヒューゴー賞ネビュラ賞ローカス賞という主要なSF文学賞を総なめにした作家として読んだのであろう。そのあとに、フェミニズム作家」と「黒人作家」というのが来るのではないだろうか。

かく言う私が、バトラーの存在を知ったのは、つい先日のことで、私の好きな批評家である木澤佐登志の近著『闇の精神史』に、バトラーの言葉が引用されており(P81)、その言葉に興味を持ったことからであった。

なお、この木澤書では、3つの思想が扱われている。「第1章 ロシア宇宙主義」「第2章 アフロフーチャリズム」「第3章 サイバースペース」である(最後の「サイバースペース」は、そこに人類の未来を見る思想)。
したがって、バトラーが関連するのは「第2章 アフロフーチャリズム」となりそうなのだが、じつはそうではない。同書ではバトラー個人が扱われいるわけではないのだ。アメリカ黒人が「未来」とどう結びついたのかを考察する「第2章」で、バトラーが引用されているわけではないのである。

したがって私が、このまったく知らなかったオクテイヴィア・E・バトラーという作家に興味を持った理由は、「黒人」だからでも「SF作家」だったからでもない。まして「女性」の部分、つまり「フェミニズム」の側面からでもない。なぜなら、英語名に無知な私は、バトラーが黒人SF作家だと知った段階でも、「オクテイヴィア」が女性名だとはわからなかったからだ。
そんなわけで、私がバトラーに興味を持ったのは、もっぱら「木澤佐登志が興味を持った作家なら、面白いかもしれない」ということからだった。同書では、私の好きなフィリップ・K・ディックも、数箇所で引用されていたから、趣味的に合う部分があるだろうと、そう考えたのである。

しかしながら、木澤書への引用がなければ、私はバトラーを読むことは決してなかっただろう。
というのも、私はバトラーの代表長編『キンドレッド』が文庫化された際(2021年)に、同書を書店でいったんは手に取っておりながら、あらすじを見て、買うのを辞めていたからである。

『謎の声に呼ばれ、奴隷制時代のアメリカ南部へのタイムスリップを繰り返す黒人女性のデイナ。人間の価値を問う、アフリカ系アメリカ人の伝説的作家による名著がついに文庫化。』

Amazon・『キンドレッド』河出文庫・紹介ページより

つまり、『キンドレッド』は、「SF作品」としての面白さを売りにした作品ではなく、「タイムスリップ」というSF的ガジェットを使って、「黒人差別」や「フェミニズム」の問題についての「思考実験」をうながす作品だというのが、一見して明らかだったのだ。だが、それでは「わかりやす過ぎて、つまらない」と、私は感じたのである。
なお、この点については、今回このレビューを書くにあたって、バトラーの「Wikipedia」を確認したところ、彼女自身も認めていることだとわかった。

『この小説は本屋ではSFではなくアフリカ系アメリカ人の文学として配置されることが多かった。バトラー自身もこれをSFではなく「グリム・ファンタジー」だと言い、「サイエンスの要素が全くない」と言っている。確かにタイムトラベルの科学的説明は小説内でなされていない。同書はバトラーの全作品の中でも最も有名で、これまでに25万部を販売している。バトラーはこの作品に関連して「人々は、社会全体が自分に敵対していることがどんなものかをよく考える必要があると思う」と述べている。』

「サイエンスの要素が全くない」こと自体は、私にとっては、重要ではない。それを言い出したら、フィリップ・K・ディックだって、そんなものはほとんどないのである。

したがって、私が『キンドレッド』に興味を持てなかったのは、「黒人差別」や「フェミニズム」の問題に興味がなかったからではなく、その逆で、そうした社会問題にはもともと興味があったので、それをわざわざ「SF小説」で読むことで考える必要などないと、そう思ったからだ。そうした問題についてなら、フィクション作品を介さなくても、ノンフィクション作品や批評書・研究書を読むからである。

そんなわけで、今回、バトラーを読む気になったのは、バトラーが「黒人差別」や「フェミニズム」の問題を扱う「SF作家」だとしても、それは、いわゆる「オーソドックス」なかたちのものではなく、ある種の「暗さ」や「屈折」を抱えたものなのではないかと、そう考えたからである。
なにしろ、木澤佐登志が引用していたのだし、それも『闇の精神史』と題する著書でなのだから、ノンフィクション作品や批評書・研究書の描き出す、言うなれば、一般的な「光(公式)の社会派」ではない、のではないかと踏んだのだ。そしてその読みは、おおむね正解だったのである。

バトラーは、「黒人差別」や「フェミニズム」を扱う「黒人女性SF作家」という説明には収まりきらない、「過剰さ」を持っている。
それは、「政治的運動」であり「イデオロギー」になりがちな「黒人差別反対」運動や「フェミニズム」運動ではなく、もっと「個人的」かつ「肉体的」な実感を伴う、まさに「文学性」としての「過剰さ」だったのだ。

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本書『血を分けた子ども』の内容は、次のとおりである。

『 まえがき

  血を分けた子ども
  夕方と、朝と、夜と
  近親者
  話す音
  交差点


二つのエッセイ

  前向きな強迫観念
  書くという激情


新作短編

  恩赦
  マーサ記


 訳者あとがき 』

バトラーは「まえがき」の冒頭で、いきなり「短編小説を書くのは嫌いだ。」と率直に述べている。

『 実を言えば、短編小説を書くのは嫌いだ。いままで短編を書こうとするなかで、知りたくもなかったほどの挫折感や絶望を味わうはめになった。
 それでも、短編はどこか魅惑的だ。いかにも簡単に書けそうに思える。あることを思いつき、それから十ページ、二十ページ、三十ページ進んだところで、物語は仕上がる。
 まあ、仕上がるかもしれない。
 最初のころに私が書き溜めていたのは、短編などではなかった。もっと長い作品の断片だった。未完成のまま行き詰まった長編小説の断片だ。あるいは、まだ書けていない長編小説の短いあらすじだった。あるいは、それのみでは作品にはできない個別の出来事だった。
おまけに出来も稚拙だった。
(中略)
 そもそも、長編であるべき作品だった。
 私は本質的には長編小説に向いている。もっとも心惹かれる着想は、大掛かりなものだ。それを展開することは、短編小説には収まりきらないほどの時間と空間を要する。
 それでも、折に触れて、短編以外にはありえない小説が出てくる。本書に収められた五つの物語は、そういう意味で真の短編小説だ。それを長編小説にしようという気になったことは一度もない。(以下略)』(P5〜6)

『本書に収められた五つの物語』というのは、翻訳作品集である本書ではなく、「二つのエッセイ」や「新作短編」が加わる以前の、言うなれば、オリジナル短編集『血を分けた子ども』に付された、著者による「まえがき」であったせいだ。

ともあれ、「長編が好きだ」と公言するバトラーだが、この『五つの物語』については『短編以外にはありえない小説』だという自負があったということであり、言い換えれば、この5つの短編は、バトラー自身が好きな「物語性」よりも、その「テーマ性」において際立ち、かつ存在意義のある作品になっている、ということになろう。

(長編二部作「Parable Of The Sower」「Parable Of The Talents」)

なお、それでも、「まえがき」(の、ここでは略した部分)にも明記されているように、「語りたいことがいろいろ」あって、どうしても長くなってしまうバトラーにとっては、これらの5つの短編についても、作品集収録時には『短い「あとがき」』を書き足さずにはいられなかったようで、これが言うなれば「自註」となっており、バトラーの作品に込めた「意図」を理解する上では、便利な資料となっている。
もちろん、文学作品の「読解」においては、「著者の意図」は、さほど重要ではない。重要なのは「現にその作品が、何であり、何を語り得たのか」であって、著者自身にも「読者に届く」という意味において十分に達成されているか否かの定かではない「作者の意図」については、あくまでも、「参考」的なものでしかなく「正解」ではない、と考えるべきだ。だが「作品」理解に止まらず、「作者」理解を求めた場合にならば、こうした「周辺資料」も役に立つのである。

 ○ ○ ○

全収録作品について検討すると長くなりすぎるので、ここでは主に表題作をとりあげて、バトラーという作家の「問題意識」とその「文学性」について考えてみたいと思う。

表題作「血を分けた子ども」は、本作品集の中では、最も「SFらしいSF作品」だと言えるだろう。
時は未来、場所は、人類の移り住んだ異星。そこでの人類は、その異星の知的生命体が繁殖のために利用する、言うなれば「家畜」となっている。その、おおむね人間大の「昆虫」めいた知的な生命体(仮にここでは「異星人」と呼ぶことにする)は、人間の「男性」の腹に卵を産みつけて、その体から栄養分を摂るというかたちで幼虫が育ち、最後は宿主の体を食い破って出てくる、という繁殖方法を採っている。それが、彼らにとって安全で効率的な繁殖方法だったからだ。

しかし、このままでは、人間にとってはいかにも残酷なものだが、しかし、すでに人間と会話ができるようになっている異星人は、決して人間を苦しめるわけではない。人間は家畜として餌を与えられ、快適な生育・生活環境を与えられて、言うなれば「愛情を持って育てられて、飼われている」のである。そして何より、無上の快楽を与えてくれる「麻薬」をも与えてもらえるので、それ欲しさに、自由意志において「代理母」の役目を引き受ける者がいるのだ。彼らは「代理出産」を強制しているわけではないのである。

それに、幼虫が「代理母胎」を食い破って出てくる前の段階で、いったんは「人間の男」の腹を切開手術して「幼虫」を取り出すので、「代理母体」は、それで死んでしまうわけでもなく、手術で苦しむわけではなく、生き続けることができる。したがって、代理母体は「一回だけの使い切り」ではなく、何度も「再利用」が可能なのだ。

そんなわけで、「人間の男」はとても大切にされるし、そうした中で「人間の男」の側でも「飼い主である異星人」に対する「愛情」が生まれてくる場合も少なくない。何しろ、うまれた時から、その「代理母体」になるために「愛情いっぱいに育てられてきた」のだから、そうなるのは、ごく自然なことだとも言えるだろう。
実際、本作主人公の少年も、別の「人間の男」の腹が切り裂かれて、腹の中から「幼虫」が取り出されるという「ビジュアル的にショッキング」なシーンを見るまでは、いずれ「代理母体」になることを、ごく自然なこととして受け入れていた。人間の女が、いずれ人間の男と性交して、子供を宿し、出産するのと、それは大差のない感覚だったのだろうというのは、想像に難くない。私たちだって、たとえば「帝王切開」での出産シーンなど、できれば見たくはないだろうし、実際、一般人がそれを見る機会など、ほとんどないのである。一一ちなみに、この星での「人間の女」の役割とは、もっぱら「益獣」としての人間を繁殖させることにある(逆「種馬」みたいなものか)。

ここまで説明すれば、本作が「奴隷黒人」の問題を扱うと同時に、「女性の性的役割」の問題を扱っているというのも、容易に理解できるだろう。
この「グロテスク」と評しても良いような物語は、明らかに「人類の生態」の戯画に過ぎないのである。

しかし、だからと言って、作者が「結局、人間の男が、女に対してやっていることは、これと同じなんだよ」という具合に「告発」しているのかというと、そう単純なことではない。

「白人が黒人を搾取した」という問題だけなら、そのように「単純」に問題化することもできるだろうが、「男と女」の問題として考えれば、女が一方的に、男の子供を宿し、出産するのは「不公平」なことであり「差別的な制度」だと言えるのかというと、もちろん、そんな簡単な話では済まないからである。
言い換えれば、「人間の男」を、この物語のように、「出産」できるように肉体改造でもすれば、それで「公平」になり「差別がなくなった」と言えるのかというと、それは「公平」にはなっただろうが、それはそれで「ヒトという生物」の「自然なすがた」を否定したことにもなって、到底「無条件に正しいこと」とは思いにくいのである。

(男性が出産する物語は、昔から少なくはない)

また言い換えるならば、「女が男を愛し、その子を産みたいと思うこと」は「差別の内面化」ということになるのだろうか、という話にもなろう。
「男は女を、女は男を愛すべきもの」であり、「それ以外」は「反自然であるから間違いだ」という「考え方」は、どんな動物にも存在する「例外」を無視した、「現実」の「偏頗な単純化」であるという事実において、「間違い」だと断じても良いだろう。「男が男を、女が女を愛する」のも、例外的ではあれ「自然」なことなのだから、それを否定することこそ「反自然」という意味において「間違っている」と考えるべきなのだ。

しかし、だとすれば、「人間の男が、異星人の子を産みたい」と思うことは間違いなのだろうか?

「それはそうだ。問題は、相手が異星人(異種)だということよりも、その異星人が、優位な立場に依拠して、言うなれば人間を飼い慣らし、洗脳して、そのように望むように仕向けたのだから、それは自然な愛情ではない。したがってそれは欺瞞であり、悪である」と、このように論じる人も少なくないはずだ。
例えば「教祖のタネを宿したいと、心から願った女性信者」の「愛」というのは、日本では、たぶんアメリカでも、「洗脳」による「偽物の愛」だと、そう理解されているはずである。

ならば、「黒人女性」が、「白人男性」や「白人女性」を「愛」して、その子を産みたいと考えるのも、「文化的洗脳」の結果でしかない、それは「偽物の感情だ」とそう考えて、否定すべきなのか?

また、「黒人の女性」が「黒人の男性」を「愛」して、その子を産みたいと考えるのも、「男性」を「性的なパートナー」だと考えている段階においてすでに「文化的洗脳」の被害者だと、そう考えるべきなのであろうか?

本作「血を分けた子ども」で興味深いのは、主人公の「人間の少年」が、「人間と異星人の生殖形式」の現実に初めて接して、いったんは怖れをなし、その「形式」に疑いを抱くものの、最後は、自分自身の「異星人(個体)」への愛情に従い、その生殖形式も受け入れたところで終わる点である。
つまり、普通なら「騙されていた!」「目が覚めた!」となるところなのだろうが、バトラーは、そのようなお話にはしなかったのである。

バトラーは、この短編の「短いあとがき」で、次のように書いている。

『 驚くべきことに、「血を分けた子ども」が奴隷制の物語なのだと思う人もいた。それは違う。とはいえ、いろいろな要素はある。あるレベルでは、ふたりのまったく異なる生物のあいだのラブストーリーだ。べつのレベルでは成長の物語であり、少年は心乱される情報を受け止め、それをもって、一生を左右するような決断をせねばならない。
 三つ目のレベルでは、「血を分けた子ども」は私なりの男性妊娠物語だ。私はずっと、まずもってありえないと思われるその立場に男性が置かれたらどうなるのかを物語で展開してみたいと思っていた。男性が妊娠を選ぶことにするとして、ただしそれは女性にできることは自分にだってできるのだという見当違いの競争心からではなく、また強いられたからでも、好奇心からでもないー一そんな物語を書けるだろうか? 私としては、男性が困難な状況にあらがって、同時に困難な状況のゆえに、愛のために妊娠を選ぶようなドラマチックな物語を書けるかどうか試してみたかった。
 加えて、「血を分けた子ども」は昔から抱えている恐怖心を和らげようとする試みでもあった。私は〈ゼノジェネシス〉三部作(『夜明け』、『成人期の儀式』、『イマーゴ』)の下調べのためにペルーのアマゾンに旅をすることになっていて、その地域に生息する昆虫に対してどんな反応をしてしまうだろうと心配していた。とくに心配だったのはヒフバエだ。一一そのころの私からすれば、ホラー映画のような習性をもつ虫だった。訪れることになっていたペルーの地域には、ヒフバエがたっぷりいるようだった。(以下略)』(P44〜45)

見てのとおり、バトラー自身は、この物語を『奴隷制の物語』として書いたつもりはなく、そのような「紋切り型の表面的な理解」をされたのが不満であったようだ。
むしろこの物語は、「異種との愛」や「男性出産」や「一見グロテスクに見える生殖形式」を「肯定」的に描いた作品であり、『奴隷制の物語』のような「批判のための物語」では決してなかった、ということなのである。
そして、こうした特異なスタンスこそが、私の言う、バトラーの「過剰性」であり「文学性」ということになるのだ。

もちろん、だからと言って、バトラーも「奴隷制」や「(各種の)差別」を肯定したり、「フェミニズム運動」を否定したりしているのではない。
それは「当然の前提(的正義)」であるとした上で、しかし、それが「紋切り型の正義」や「イデオロギー」に堕することを、作家の直観を持って避けたのではないだろうか。「そんなに単純な問題ではない」と。

だから、本作の他にひとつだけ別の作品について触れておけば、後の作品になる短編「恩赦」では、実力的に圧倒的優位に立つ、地球への「植民(=侵略?)」異星人との「共存共栄」の立場に立つ女性を主人公に立て、そうした主人公の立場を、やむを得ないものとして理解を示す者と、「裏切り者」視する者とを配置している。そして後者には「黒人男性」もいる。

で、私がこの物語をどう読むのかといえば、この作品が描いているのは、「現にそうなっているものは、そうであっても仕方がないじゃないか」という「事実の受け入れ」、あるいは現実肯定主義なのではないか、という理解となる。

だからそれを「敗北主義」と批判する者がいるのも当然なのだが、しかし、現実問題として、すでに人類は異星人に「たてつく」ことはできなくなっており、しかも異星人の方は、人類がたてつかないかぎり、人類に対して極めて友好的に接してくれており、下手な人間より、よほど親切な存在なのである。
だとすれば、同じ「人類」より「異星人」の側に立って、何が悪いのか?
(つまり、この状況は、現実の「パレスチナ問題」より、よほどマシなのだ)

はたして私たちは、親切な「移住外国人」よりも、思いやりのかけらもない「同国人」を支持しなければならないのか? 「日本人ならば、日本のために死ぬのは当然だ」「毛唐と結婚するような売女は、犬畜生も同じだ」といった「思想」は、はたして「当然」のものであり、自明視されて良いものであるのか?

また相手が、人間の「常識的美意識」からすれば「グロテスク」に映る存在だということだけで、「恋愛対象」や「性交対象」にすることは間違いなのか?
だとすれば、先天的後天的を問わず、形態的に不具合のある人間は、忌避的に「差別」されて「当然」なのか?

このように考えていけば、私たちは表題作「血を分けた子ども」の主人公である少年の「選択」を否定するのは、決して容易ではないはずだし、この作品を『奴隷制の物語』だなどと短絡視することもできないはずなのである。

オクテイヴィア・E・バトラーが、読者に促している「思考実験」とは、最低でもこのレベルのものなのだろう。
しかし、ヒューゴー賞、ネビュラ賞、ローカス賞の選考委員たちにしてからが、はたしてこの程度の「理解」があったのかというと、バトラーの反応からしても、かなりのところ疑わしい。

むしろ、「黒人差別」という「負の歴史」を持っている国であるからこそ、そのトラウマに発する反動や過剰適応から、この手の問題を扱った作品を、(無理解であったとしても)ことさらに「賞賛したがった」だけなのではなかったろうか? 要は「罪滅しの意識」に発する、いささか勇足気味の評価だったのではなかったか?

しかしそれも、「差別問題」を「他人事」のようにしか考えていない日本人の読者に比べれば、よほど「誠実」な態度だというのは、間違いのないところなのであろう。


(2023年12月12日)

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