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早川千絵監督 『PLAN75』: 命を差別することは可能だ。 だが、命に差別はない。

映画評:早川千絵監督『PLAN75』

先日、友人と、アメリカでの反動的な、反「堕胎(人工妊娠中絶)」最高裁判決について、少々やりとりをした。
私もその友人も、基本的にはリベラルだから、女性の自己決定権を侵害し、母胎を危険にさらす、こうした「キリスト教倫理」を背景とした、反動的な判決を、とうてい諾うことは出来なかった。

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ただ、友人は、それを論じた「note」記事の中で、反「堕胎」問題を、反「婚前交渉」や反「同性婚」の問題と並べて、それらを「宗教倫理」に基づいた「非科学的でイデオロギュシュ」なものだと批判していたので、私は「反堕胎」に関しては、そう簡単に切って捨てることはできないと、次のように説明した。

『ご意見に、全面的に賛同します。

ただ、一部、事実誤認があるようなので、その点について説明させていただきます。

『「男女は婚前交渉をしてはいけない」だとか「男性同士、女性同士で結婚してはいけない」だとか、果ては「堕胎は罪である」とかいった性的な部分を取り締まる法律と言うのは、西洋では宗教道徳に基づいた伝統的な感覚による法律だった。』

という部分の、問題は「堕胎は罪である」です。

これは、本音としては「西洋」での「宗教道徳に基づいた伝統的な感覚」よる「性的な部分」への抑圧指向なんですが、建前としても、本質的な議論としても、「性的な部分」より「生命倫理」の部分が問題になっています。
つまり、「どこからが生命なのか?」という「定義(線引き)の問題」です。

フィリップ・K・ディックが「人間以前」(旧邦題「まだ人間ではない」)で問題としたように「なぜ、5歳までは人間ではない、としてはならないのか?(なぜ、誕生をもって生命とするのか? 胎児は生命ではないのか? 受精卵は生命ではないのか?)」という、答のない本質問題があったからで、カトリックなどが堕胎に反対するのは「受精卵はすでに生命であり、堕胎は殺人だ」と考えるからです。

だから、建前であるとしても「どこからを生命とするか」という線引きの問題に正解はない(便宜的な線引きしかない)ので、「堕胎は罪である」というのも、ひとつの正論として、論理的には否定できない、ということがあるのです。
線引きの便宜性を認めてしまえば、障害者や高齢者の線引きだって、不合理ではなくなってしまうからですね。』

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つまり、反「堕胎」の問題は、単なる「宗教論理」の問題ではなく、「科学的」な事実に基づく倫理問題であり、「婚前交渉」や「同性婚」のような「当事者間の社会的合意」の問題ではない、という点が重要なのだ。「胎児」は、意思表示できないのである。

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早川千絵監督による映画『PLAN75』は、「超高齢化社会の歪み」を解消する一手として「75歳以上の者には、自ら生死を選択する権利が与えられる」という法律、通称「PLAN75」が施行された、近未来の日本社会が描かれる。

『(略)75歳以上が自ら生死を選択できる制度が施行された近未来の日本を舞台に、その制度に翻弄される人々の行く末を描く。少子高齢化が一層進んだ近い将来の日本。満75歳から生死の選択権を与える制度「プラン75」が国会で可決・施行され、当初は様々な議論を呼んだものの、超高齢化社会の問題解決策として世間に受け入れらた。夫と死別し、ひとり静かに暮らす78歳の角谷ミチは、ホテルの客室清掃員として働いていたが、ある日突然、高齢を理由に解雇されてしまう。住む場所も失いそうになった彼女は、「プラン75」の申請を検討し始める。一方、市役所の「プラン75」申請窓口で働くヒロムや、死を選んだお年寄りにその日が来るまでサポートするコールセンタースタッフの瑶子らは、「プラン75」という制度の在り方に疑問を抱くようになる。年齢による命の線引きというセンセーショナルな題材を細やかな演出とともに描き、初長編監督作にして第75回カンヌ国際映画祭「ある視点」部門に出品。初長編作品に与えられるカメラドールのスペシャルメンション(次点)に選ばれた。ミチ役で倍賞千恵子が主演。磯村勇斗、たかお鷹、河合優実らが共演する。』(「映画,com」・「解説」より)

本作の冒頭では、2016年(平成28年)「相模原障害者施設殺傷事件」を彷彿とさせる、「老人介護施設襲撃事件」が描かれる。
老人殺害シーンそのものは描かれていない。しかし、猟銃を持って老人介護施設を襲撃し、犯行後、施設内で自殺して果てる前に、襲撃犯の青年は「どうか、僕のやったことの意味を、真剣に考えてほしい」という、社会に向けての真摯なメッセージを遺していくのである。

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つまり、この映画で描かれる「近未来の日本」では、今よりもずっと高齢化が進み、今よりも若者世代へのしわ寄せが強まり、その結果、若者たちは、一層未来に希望を見出しにくくなっている。そして、そんな中から自暴自棄的に「老人施設」を襲撃する者が現れ、襲撃事件は頻発し、もはや政治的な抜本的高齢化社会対策は待ったなしの状態となった。
そこで、こうした社会的な追い風に乗って、政府は「75歳以上の自死選択権」法(通称「PLAN75」)を成立させる

いったん「合法」とされた「PLAN75」は、当初の「高齢化社会対策」の趣旨に沿って、政策的に「推進」される。つまり、高齢者が「自死権を行使しやすいように、その意思表示をした(申請手続きをした)者には、〝その日〟まで、各種の便宜や優遇措置をはかる施策」が国家レベル、自治体レベルで進められ、あたかもそれが「選択の自由」のひとつであり、「自己表現」の一種ででもあるかのように美化されて、「政府広報」として「テレビコマーシャル」まで流されるようになるのだ。

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だが、「PLAN75」の明らかな問題点は、「75歳以上は、差別なく全員死ななくてはならない」ということではなく、あくまでも「当人の選択」だということになっている点である。
つまり「強制ではなく任意」なのだから、嫌なら選択しなければいいだけであり、その意味では「自死の権利」を認める「PLAN75」は、個人の「選択の自由」権の拡大、法的権利の拡大を意味するかのように作られている点である。

確かに、そのような側面もないことはない。
「自殺」は「法的に禁止すべきことなのか、それとも、個々の倫理的な判断に任すべきことなのか?」という自死問題は、意外に「難問」である。だからこそ、「安楽死」や、その手前の「ターミナルケア」の倫理問題が、常に問われもするのだ。それは、実質的に「自殺幇助」か「自殺黙認(未必の故意)」なのではないかと。

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実際、全身不随で、かつ生きていても苦しいだけの、回復の見込みのない病者が「死にたい」と言った時に、彼の考えは「間違っている」と、誰に言えるだろう。
彼の希望を叶えることは、現行法では「自殺幇助罪」か「殺人罪」なのだろうが、当人の「死にたいという意志」まで、「悪」だと断じて否定することなど、いったい誰にできるのか、ということだ。
例えば、彼の片腕だけが動き、それで自分の胸にナイフを突き立てて自殺した場合、それは一種の「殺人罪」として扱われ、「被疑者死亡による不起訴」というように「考えるべき」ことなのだろうか。

つまり「自殺の権利」の問題は、たしかに難問であり、能天気に「自殺はいけないよ」とか、あるいはキリスト教的に「自殺は悪である(なぜなら、神から与えられた身体を毀損する権利は、人間にはない)」などと言えるほど、簡単な問題ではないのだ。

ただし、本作「PLAN75」が提示する問題は、そうした「根源的難問」ではない。
なぜなら、「金さえあれば、何歳になろうと、生きていても問題にはならない。社会の、そして若者世代への、負担にはならない」からである。
つまり「PLAN75」とは、実質的には「社会のお荷物でしかない、貧乏な年寄りは死ぬべきである」という「差別的思想」が、その根底に隠されているのだ。

「若者世代に負担をかけないために」というのは「嘘」ではないにしろ、一面の「きれいごと」でしかなく、その裏には、「経済問題」がハッキリと存在している

「若者世代に負担をかけないために」というのは、実際には「若者世代に(経済的な)負担をかけないために」ということでしかなく、仮に日本が経済的に繁栄していたなら、高齢者がいくら増えようとも、何ら問題ではない。「国家として、金がない」から、その予算を「高齢者にかけるのか、若者に投資するのか、国民の意思で決めなさい」というのが、「PLAN75」法案の、本質だったのである。

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だから、「PLAN75」施行下の社会でも「金持ちの高齢者は、最先端医療の恩恵を受けて、100歳を超えてでも生き続ける」ことができる反面、「自活できない貧乏な高齢者が、75歳を過ぎて生きているのは、他人に迷惑をかけながら生きている」ということになり、否応なく「負い目」を持たされ、「なぜ、まだ、おめおめと生きているのだ」というプレッシャーをかけられることにもなる。

PLAN75-感想

したがって、例えば、国会において「老人議員」が減ることはないけれども、肩身の狭い貧乏な高齢者は、社会的に歓迎される「PLAN75」を申請して、自ら死んでいくことだろう。その結果、「生活保護受給者」は減って、その分の「カネ」は、若者に回されることだろう。

しかしまた、実際のところ、そうして「浮かされた金」が、どれだけ若者に遣われるかは、いささか疑わしい。なぜなら、貧乏な若者、才能のない若者への投資は、老人への投資と同様に「無駄だ」と判断されがちだろうからである。「そんなのに金を遣うくらいなら、有望企業に金を回せば、社会全体のためになる」と、金持ちの政治家たちは、必ずそう考えるからである。
が、ともあれ「貧乏な老人たちが自ら死んでゆき、彼らにかかっていた社会保障費が、若者に回される」だろうことを、若者世代は期待し、大勢としては、単純にそれを歓迎することだろう。

一一だが、死者の経帷子を剥がし、それを売った金で糊口をしのぐような生き方が、果たして「幸福」なものたり得るのだろうか?

若者たちは、「老人や生活保護受給者にかかっている金を削減すれば、その分、若者世代への投資が増える」と、単純な「老若二項対立」の問題で考えてしまうだろう。だが、事の本質が「経済問題」である以上、本当の対立的「二項」とは、「老若二項」ではなく、「富貧二項」なのではないだろうか。つまり「貧乏な高齢者」を死なせて「浮いた金」の行き先は、「若者世代」ではなく、「富裕層」なのだ。より正確に言えば「富裕な高齢者と富裕な若者」のところへ、その金は「有効利用」的に流れていくのである。

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だが、本作『PLAN75』のテーマは、上記のような「リアルポリティックス(現実政治)」の問題ではなく、一人一人が問われる「生命倫理」の問題である。一一「果たして貴方は、哀れな老人を死なせてまで、自分が生き延びたいと思うだろうか?」という問いだ。

また、なぜ「年老いた彼・彼女は、若い私よりも価値のない存在である」と、そう言えるのか。人の命の価値は、そんなに簡単に比較考量できるものなのか?

そこでは「老人たちは、本来、若者たちが遣うべき金を、不当に搾取して遣っている」といった(経済的な)理屈は、通用しない。なぜなら、それを言うのであれば、どうして「楽をして金を溜め込んでいる金持ちたち」を責めないのだ、ということになるからだ。

「彼らは、それだけのことをしているから、楽をして稼いでいるだけだ。だから、そちらに文句は言えない」とでも言い訳するだろうか?
ならば訊くが、例えば、親の七光りだけでのうのうと生き延びている、財閥のお坊ちゃんの政治家(例・麻生太郎)とか、それに類した、(故・安倍晋三にような)二世三世の国会議員たちを、なぜ責めないのか?

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どう考えたって、彼らの99パーセントは、本人の「実力」や「努力」ではなく、親の七光りで、高給がもらえ身分の保障された政治家になっている「階級的選民」であり、仮に彼らが貧乏人の子供だったなら、ほぼ確実に、政治家になどなれなかったろうし、ましてや与党の中で「派閥の領袖」になどなれなかっただろう。なぜなら、そうした政治には「金がかかる」からである。

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つまり、若者の多くが「生活保護を受けるような、高齢者を含む貧しい人たち」を責め、「金持ち」を責めないのは、端的に言えば、「言い易い相手にだけ言う、弱い者いじめ」でしかないし、それに気づかないのは「金持ち(のプロパガンダ)に洗脳されているから」に他ならない。

今の日本社会の現実を、少しでも冷静かつ客観的に見れば、それがいかに「弱い者いじめ」社会であるかなど、すぐにわかるはずなのだが、若者たちの多くも、「貧すれば鈍する」で、私が上に書いたようなことまで、考えることができなくなっている。
そして、飢えた犬が、金持ちのぶら下げた肉としての「貧乏高齢者」という餌に向かって、本能的に食らいつこうとしているだけなのだ。

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だから、今の日本の「精神性」が行き着いた世界を描いたものとして、本作『PLAN75』を是非とも、多くの老若男女にオススメしたい。これは、間違いなく傑作である。

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しかしまた本作は、声高にメッセージを語るような作品ではない。
むしろ、セリフは徹底的に削ぎ落とされ、「PLAN75」の施行された社会で生きる人々、高齢者や若者たちの姿を、「説明を省いて」淡々と描いていく。だから、一度見ただけでは、よくわからないところもあるかもしれないが、しかし、カンヌでも絶賛された俳優たちのリアルな演技から、私たちはきっと「これは、間違っている。こんな社会が正しいわけなどない」と感じ取ることができるはずだ。

では、「PLAN75」の施行された世界の、どこがどのように間違っているのか?

それを考えるために、本稿を叩き台にしていただければと、私はそう願っているのだ。


(2022年8月15日)

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