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石井裕也監督 『月』 : スッポンと月、 現実と統整的理念

映画評:石井裕也監督『月』(2023年)

本作の原作は、辺見庸の同名小説である。
私は辺見庸という作家が、昔から(2001年の、9.11米国同時多発テロ事件以来)好きだった。何が好きかというと、その誤魔化しや綺麗事を許さない、徹底した本音主義であり、その点において辺見とシンクロしたというのは、間違いのないところである。しかしまた、そんなファンであるからこそ、私は時に、辺見庸に対してさえ「不徹底だ」という注文をつける、そんな読者でもあった。

辺見庸の『月』は、「相模原障害者施設殺傷事件」に取材した小説だ。
ドキュメンタリー手法では描き得ない、人間の心の闇と人間社会の闇を剔抉できるのは、小説家の想像力と小説という方法だけだと、辺見はそう考えたのであろう。
そんな小説家としての自負を持つ辺見は、これまでもそのようなかたちで、小説を書いてきた。たとえば、自分の父が、先の戦争において、中国で何をしたのかという、語られない事実を追求した、そんな「血も涙も排して書かれた」小説もあった。そして、『月』もまた、そうした小説であったろう。

できれば目を逸らしておきたい、剥きつけの人間の心の闇と人間社会の闇という「謎」に対し、血も涙も、人情も綺麗事も建前もなく、ただただ「それは何だったのか?」という一点において、容赦なく食らいついていった小説だったのではないだろうか。

映画『月』の石井監督もまた、そんな辺見庸の熱心な読者だった。
学生の頃に、読書好きの先輩に薦められてハマって以来、新刊が出れば、即買い即読みをしてきたというのだから、私などよりもずっと熱心な読者と言えるだろう。そして、そんな石井監督のもとに持ち込まれたのが、『月』の映画化企画だったのである。

当然、石井監督は、辺見の『月』も読んでおり、その内容を知っていたから、一瞬躊躇はしたという。だが「これはやらなければならない仕事だ」と決意して、即座に引き受けた。
本作は、そんな「運命の糸」によって結ばれた人たちの手によって作られた作品であり、そこに「偶然」は無かったのである。

宮沢りえ磯村勇斗二階堂ふみオダギリジョーと演技派が揃った、見応えのある作品)

『夫と2人で慎ましく暮らす元有名作家の堂島洋子は、森の奥深くにある重度障がい者施設で働きはじめる。そこで彼女は、作家志望の陽子や絵の好きな青年さとくんといった同僚たち、そして光の届かない部屋でベッドに横たわったまま動かない、きーちゃんと呼ばれる入所者と出会う。洋子は自分と生年月日が一緒のきーちゃんのことをどこか他人だと思えず親身に接するようになるが、その一方で他の職員による入所者へのひどい扱いや暴力を目の当たりにする。そんな理不尽な状況に憤るさとくんは、正義感や使命感を徐々に増幅させていき……。』

「映画.com」・『月』の「解説」より)

本作では、若手の演技派俳優・磯村勇斗の演じる障害者施設の若手職員、通称「さとくん」が、現実の「相模原障害者施設殺傷事件」の犯人「植松聖(うえまつ さとし)」に当たる作中人物なのだが、本作の「さとくん」は、「植松聖」という実在の人物を、モデルにはしているものの、「再現」しようとしたものではない、という。

(絵を描くのが好きで、入所者に紙芝居を見せたりする、心優しい青年「さとくん」)

たしかに「植松聖」という人物の「謎」は、ある意味で「魅力的」なものである。
彼のことを「精神異常」の一言で片づけられる単細胞な人間は別にして、多くの人は彼の中に、今の日本人の「素顔」を見るからだ。

今の日本人の多くが、「建前」としては、ナチスドイツによる、「優生思想」に基づいた、ユダヤ人、ロマ、同性愛者、精神病者、身体障害者、知的障害者などに対する差別迫害を非難し、ましてや絶滅収容所での虐殺など、論外狂気の沙汰だと非難する。
だが、ネット右翼が「在日朝鮮人」だけではなく「生活保護受給者」を攻撃していたように、じつのところ日本人の多くが「社会(経済)の足手纏い」になる障害者の存在を、「本音」のところでは快く思っていない。

自民党の杉田水脈議員が、LGBTと呼ばれる性的マイノリティーの人たちについて「『生産性』がない」という評価を公に語ったのも、じつのところそれは、同様の、抑圧された「社会的な不満(意見)」を掬い上げることで、「人気取り」ができる、と踏んだからに他ならない。
ただ彼女は、社会における「建前の力」を、いささか甘く見積りすぎていたために、その読みの甘さにおいて、責任を取らされることになってしまっただけなのだ。みんなが「本音」ではそう思っていることだとしても、しかし、それを剥きつけに語っては、タダでは済まないということも、世の中にはある、ということだったのである。

そんなわけで、「障害者」についても、その種の「本音」を語るのは、日本の社会では「タブー」であった。
「生活保護受給者」を快く思わないという「本音」を持っている人が、思いのほか多いのと同様に、そうした人たちにすれば、「生産性」がなく「無駄飯食い」の「社会のお荷物」に見える「障害者」についても、そうした「本音」は、決して、公然と語ってはならないものだった。
それを口にした途端、彼・彼女は「ナチス」と同じ「血も涙もない人非人」だと認定され、「差別される」側になるとわかっていたから、多くの人は、そんな「本音」を隠してきた。一一まるで、島崎藤村『破戒』の主人公・瀬川丑松のように。

ところが、植松聖は、その決して口にしてはならない「本音」を語っただけではなく、それを行動にまで移してしまった。つまり、「一人ホロコースト」を実行してしまったのである。

だから、多くの人は、植松が「どうして、一線を踏み越えてしまったのか?」と思った。
頭の中で考えているだけなら、そうとう多くの人が、彼と同じ「優生思想」を隠し持っている。
だが、映画『月』の中でも類比的に語られる人工妊娠中絶(堕胎)」の問題を「殺人ではないのか?」などと、公然と問えるのは、アメリカの「キリスト教原理主義者」だけであって、表ヅラだけは良くしていたい日本人には、そんなことさえ公然と語り得なかったのだから、「障害者の人権」に、公然と疑義を唱えることなど、到底できない相談だった。平たく言えば「自分は間違っていないが、世間の建前によって、自分だけが悪者にされるのは、真っ平御免だ」ということだった。それが、多くの「日本人優生主義者」の「本音」なのである。

(アメリカ最高裁の「中絶禁止判決」に対する反対デモ)

植松聖が「一線を越えてしまった」理由は「頭がおかしい」からだ、で片づけることができたような、単細胞な者は気楽でいい。
だが、多くの「日本人優生主義者」たちにとっての植松聖は、彼らの「似姿」でもあれば、ある意味では「ヒーロー」ですらあったからこそ、彼についての「なぜ?」は、「魅力的な謎」たらざるを得なかったのである。

しかしながら、この「謎」には、底がない。正解がない。
いろいろと仮説を立てることは可能だろう。だが、「頭のおかしい植松聖」自身の語ることさえ「事の本質ではない」とするならば、結局のところ「正解」などどこにも無いのだから、この映画では「植松聖の真実」を探るという方向性ではなく、彼を「日本社会の象徴」あるいは、その「告発者」として描いたのである。

一一「彼・植松聖は、あなたのことなのではないか?」と。

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作中の「さとくん」が、主人公である堂島陽子(宮沢りえ)に厳しく問うのは、まとめて言えば、次のような言葉になるだろう。

「本当はあなただって、障害者が社会のお荷物であり、足手纏いだと考えているんでしょう? だからこそ、障害者の人権などという綺麗事を口にしながらも、自分が障害者の子供を産むことを恐れて、堕胎を考えたんでしょう? 障害を持つ者は、同じ人間ではないと考えているから、同じ理屈で、障害を持つ赤ちゃんは、人間ではない、殺しても良いと考えたんでしょう? その方が、自分のためにも、社会にためになるって考えて。
その通りですよ。あなたの考えていることは、まったく正しい。みんなも本音ではそう思っているし、僕もそう思っている。つまり、あなたは僕と同じ立場なんですよ。同じことを考えている。
ただ、あなたたちと僕の違いは、保身的な嘘つきであることに甘んじて生き続けるのか、自分の身を犠牲にしてでも、真実と公益のために行動するのか、の違いです。僕は、嘘つきであるのは、嫌です。自分に正直に、正義を貫きたいと思う。だから、行動するんです。みなさんは、無難に見物していれば良い。僕は、皆さんの代わりに、皆さんのために、あえて犠牲になるつもりです」

こうした「さとくんの告発」の前に、多くの人は、言葉を失うはずだ。

(さとくんは、入所者一人一人に「あなたに心はありますか?」と尋ね、意思表示がなければ…)

しかしながら、その多くの人はその後に、「この告発に、今こそ向き合い、それと正面から戦わなければならない」といった、またもや「綺麗事の建前」で、その告発から身をかわして、あとは「安倍晋三元首相」のごとく「うやむや」にしてしまうことだろう。

だから、「本音主義」の私としては、この種の「ありふれた綺麗事」を語る気はない。
そんなものを語るのには、これっぽっちの勇気も必要ではなく、必要なのは、頭の悪さと臆面のなさだけだからである。

では、私の、シンプルで誤魔化しのない「回答」を示そう。

要は、「本音と建前」の2項を対立させて、「本音」が素晴らしいなどという発想は、度し難いほど単細胞で「頭の悪い錯誤」だと、私はそう考える。そしてその立場から、「さとくん」の語る「本音」主義を、否定する。

もちろん、世間一般の「保身のためのものでしかない、薄っぺらい綺麗事(建前)」など、論外である。そんな「欺瞞」は、徹底的に粉砕されてしかるべきだ。

しかし、そうした「薄っぺらい綺麗事(建前)」と比較して、「本音」の方が、まだしも「嘘がない」という、ただその一点において「素晴らしい」などという発想もまた、じつに低レベルのものである。
つまり、そうした「本音と建前」の対立関係は、「月とスッポン」ではなく、「スッポンと泥亀」くらいの違いでしかない、ということなのだ。そんな「スッポン」程度の認識で、「月」のごとき高みでの輝きを気取るなんて、阿呆の勘違い以外の何物でもないと、私はそう切り捨てる。

つまり、単なる「本音主義」などは、馬鹿でもできることであり、その実例が「ネット右翼」だとか「杉田水脈議員」といった連中であって、「植松聖」の、あるいは「さとくん」の「本音」であり「正義」もまた、所詮は、その程度に薄っぺらなものでしかない、ということなのだ。
だから彼らの「綺麗事や建前」に対する「告発」など、「目糞鼻糞を笑う」の類いでしかない、ということなのである。

であれば、私たちは何を選ぶべきなのだろうか。
「世間並みの綺麗事(建前)」でもなければ、それを嘘つき呼ばわりするだけの「薄っぺらい本音」主義でもないとすれば、他に選ぶべき道は残されているのだろうか?

私は、それがあると思う。それは、柄谷行人が言うところの統整的理念としての綺麗事」である。つまり「理想」だ。

(柄谷行人)

「統整的理念としての理想」とは何かというと、それは、目指されるべきところを示す「理念」であって、実体的な根拠を持つものではない、ということだ。

つまり「健常者も障害者も、同じ人間で平等だ」という言葉を、「事実・現実」を指示する言葉だと考えれば、「嘘をつくな!」ということにもなろう。
そんな「事実・現実」が無いことなんか、お前だってわかっているはずなのに、よくもぬけぬけとそんな「建前の綺麗事」を語れるものだ「この偽善者め!」、ということになる。

だが、「健常者も障害者も、同じ人間で平等だ」という言葉が、「事実・現実」ではなく、「それを目指そう」と促す「理念」だと考えれば、そこに「事実・現実」の裏づけなど必要なくなるし、それが無いからといって「嘘」呼ばわりすることもできなくなる。
むしろ「それは、放っておいても勝手に存在するものでは無いからこそ、私たちはそれを目指さなければならないのだ」というものなのだから、そこでは「薄っぺらな本音主義」が悦にいって行ってきた「嘘をつくな!」という批判告発が、無効になってしまうのである。

(健常者と障害者は同じではない。だが、どちらに価値を認めるかは、事後的かつ恣意的な価値設定次第でしかない。宇宙的な絶対性においては、人間的な価値観は、いずれにしろ恣意的なものでしかあり得ない。だからこそ、人間は、あるべき「人間らしさ」を選びとるべきであろう)

つまり、私たちが目指すべきなのは「事実の裏付けのある約束の成就」なのではなく、「人間なればこそ、目指すべき理想への努力」なのだ。
それが「現実」そのものとして「実現」することはないとしても、それを目指して努力すること自体が「人間の人間たる素晴らしさ」なのだから、その「人間的理念」を否定する現実主義というのは、所詮「動物主義」でしかない、ということになろう。
たしかに、人間も「動物の一種」ではあるけれど、「ただの動物」ではないという矜持を持っているのなら、「人間らしさ」というものを目指さなければならない、ということであり、そのひとつが「健常者と障害者は、同じ人間である」という、目指すべき「理念」なのだ。

他の動物なら、「種の生き残りのために、傷ついた仲間や体力のない仲間を見捨てる」かもしれないが、「人間は、それをしない」というのが「人間の尊厳」であり「人間特有の統整的理念」だということになるのである。

だから私たちは、「さとくんの告発」になど、なんら臆することはない。
なぜなら、「健常者と障害者は、同じ人間である」という「事実」など、もともと無いものであり、それは作り上げるべきものだからである。つまり、「それは事実ではない(嘘だ)!」という批判など、的はずれ極まりないものでしかなく、故に、なんら恐れる理由はない、ということになるのだ。

だがまた、だからこそ、私たちが真に恐れ、覚悟しなければならないのは、「それが事実だから、事実を支持している我々の立場は安泰だ」などという「虚妄=依存的信仰」は、不成立だということである。

私たちは、「事実・現実」の側、「真実」に側に立っているから「安心」なのではなく、存在しない「理想」を目指すその態度において「人として正しい」だけなのだ。だから、私たちの目指すものに、あらかじめの「保証など無い」という覚悟だけは、是非とも持っていなければならない。
「保証があるから、勝てる」のではなく、「負ける可能性は十分にあるけれども、勝たなければならない」という覚悟を持たなければならない。それが「人間である」という「統整的理念」の意味なのである。一一私たちが目指すべきは、単なる「事実・現実」を超えた、自ら選びとるところの「理想」の境地なのだ。だから、半端な覚悟では済まされないのである。

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私とあなたが「違っている」ように、健常者と障害者は「違っている」。
それは所詮「当たり前の事実」であって、何も必死になって否定しなければならないことでもなければ、ことさらに論うに値するようなことでもない。

そうではなく、事実が「好ましからざるもの」であるからこそ、そうではない「理想」を目指すことにおいて、「人間は人間たりうる」のである。

一一そうした覚悟さえ持てれば、「さとくんの告発」や、まして「薄っぺらな本音」主義など、なんら恐れるに値しないものなのだ。


(2023年10月18日)

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