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小澤雅人監督 『ほどけそうな、息』 『一瞬の楽園』 : 「劇映画」という選択

映画評:小澤雅人監督『ほどけそうな、息』『一瞬の楽園』

社会問題を扱った中編映画と短編映画である。
中編『ほどけそうな、息』(2022年・44分)は、児童相談所の若手職員を主人公に児童虐待問題を描いており、『一瞬の楽園』(2020年・27分)は、ギャンブル依存症問題と外国人就労者問題の2つを扱い、2作ともこの短い時間の中に、そうしたテーマをバランスよく盛り込んで見せている。
小澤監督の作品を観るのはこれが初めてだが、私は「児童相談所の業務」に興味があったため、『ほどけそうな、息』を観ることにしたのだ。

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なお、今回初上映となる中編『ほどけそうな、息』の「同時上映」短編として、前記『一瞬の楽園』と、若年出産問題を扱った『まだ見ぬあなたに』(2019年・29分)が、隔日上映されたのだが、私は『一瞬の楽園』の方を観たわけである。
たった30分ほどの短編見るのに、長編と同額を支払うのは、さすがにキツかったから、『まだ見ぬあなたに』の方は観てはいないのだが、3本併映でも良かったのではないだろうか。

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ともあれ、以上の作品内容からもわかるとおり、小澤雅人監督は、現代日本の社会問題をテーマにした「劇映画」を撮っているようだ。単館上映の地味な映画としては、ドキュメンタリー映画ではないところが、かえってユニークなようにも思える。

そこで、ネット検索してみると、小澤監督には、上記の最近3作の他に、これまでに以下のような作品があるようだ。

『こもれび』(2010年・115分)家族の問題を扱った、自主制作映画
「TSUKIJI流」(2010年・3人の監督によるオムニバス映画『最高でダメな男 築地編』の中の一篇・30分)ニート青年の成長を描く
『風切羽 かざきりば』(2013年・88分)虐待を受けた若者のその後を描いたロードムービー
『微熱』(2016年・111分)ギャンブル依存症や児童虐待を扱う
『月光』(2016年・30分)性暴力や児童虐待問題を扱う

見てのとおり、小澤監督は、現代日本における若者たちを取り巻く困難な社会状況を、家族の問題を中心にして描いており、そのテーマは見事に一貫してる。
したがって、同監督は、娯楽映画の作家ではなく「社会派」であり、しかしドキュメンタリー映画ではなく、あくまでも「劇映画」にこだわっている人のようである。

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最新作の中編『ほどけそうな、息』は、児童虐待問題を、児童相談所の(2年目の)若手女性職員(児童福祉司)を主人公にして描いた作品だ。

物語は、病院の診察室から始まる。
正面にレントゲン写真用のライトボックスが設置された診察机の前には、中年の男性医師と患者である中年女性が、それぞれに回転椅子に腰掛け、向き合っている。女性の方は、乳児を抱いており、その表情は硬く険しく、医師から顔を背けるようにしている。
その女性の背後には、介護職員などにみられる動きやすそうな軽装の女性が二人。診察を受けている女性の真後ろには、二十歳すぎの若い女性が、そのさらに後ろには三十代なかばの女性が立っている。

医師が女性の診察を始めようとするが、女性が乳児を抱いたままなので、聴診器を当てることもできず、女性に「それでは診察できませんから、診察の間だけ、少しお子さんを預けていただけませんか」と促す。それでも女性は、険しい表情で、乳児を離そうとはしないので、女性患者の背後に立っていた、若い方の女性が「私が預かりましょう」と女性患者に優しく声をかけると、女性患者はしぶしぶ、その若い女性に乳児を預けて、医師の方へ向き直る。

すると、乳児を預かった若い女性は、そろりとその場を離れて診察室から出て行こうとする。
それに気づいた乳児の母親と思しき女性患者は「何するの! 騙したわね!」というような金切り声をあげて立ち上がり、乳児を抱いた若い女性を追いかけようとするが、若い女性の後ろに控えていた三十代なかばの女性が、女性患者の前に立ちはだかって、「まあまあ、落ち着いて」といった感じで女性患者をなだめるようにして盾となり、乳児を抱いた若い女性を診察室から逃がす。
診察室から、乳児を抱いて逃げ出した若い女性は、泣きそうな表情で病院の廊下を必死で走り、待たせていたタクシーに駆け込んで病院を後にする。

一一もうおわかりだろうが、これは心身を病んだ母親による児童虐待を危惧した児童相談所が、母親に診察を受けさせることを装って家から連れ出して、乳児の強制保護を強行したシーンである。
つまり、女性患者(母親)の背後にいた二人の女性は、女性患者を病院に連れてきた児童相談所の職員であり、若い方が勤務2年目の若手職員、三十代半ばの方はその先輩の中堅職員であった。

この冒頭部で印象的なのは、乳児を抱いて必死に走って逃げ、待たせてあったタクシーに乗り込んだ後、タクシーの中で泣き出してしまう、若手児相職員の表情である。
背後から、母親の罵声を浴びながら、必死に逃げるしかなかったその姿は、まるで誘拐犯のようであったし、彼女自身にも、そのように感じられたのであろう。

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実際、この後のシーンで、この若手児相職員であり本編の主人公・西野カスミは、男性上司に対し、やや感情的に「ここまでする必要があったんでしょうか」と疑問をぶつけるが、その上司は、いたわるように「それが必要だと判断したんだよ」と説明する。

一一そういうことなのだ。このまま、この乳児を母親のもとへおいておけば、ネグレクトなり直接的な暴力なりによって、子供の生命までが危ぶまれた。だが、母親が、児相による子供の一時預かり(保護)の提案を拒否したので、やむなくだまし討ちの強制保護にふみきった、ということだったのである。

無論、こんな強引な保護は、めったにあることではないだろう。これは明らかに親権の侵害であり、普通なら「誘拐」という犯罪行為なのだから、こうした強制保護を行うには、それ相応の「証拠」が必要だろうし、そのような「証拠」収集が容易でないというのも、少し考えれば自明な話である。そしてまた、そうした「証拠」を集め、提出した上で発せられる「裁判所の(強制保護)令状」の類が必要なのかもしれない。

だから、通常の場合は、あくまでも親を説得しての、子供の「任意保護」ということになるわけだが、無論、これも容易なことではない。
なにしろ、子供を虐待している親というのは、そもそも精神的に問題を抱えて頑なになっている場合が多いし、子供への虐待を疑われていることを知っているからこそ、たいがいは児相に対して協力的ではなく、むしろ敵対的であるからだ。

したがって、この冒頭シーンで描かれた「強制保護」は稀にしかないことであり、勤務2年目の主人公には、たぶん初めての経験であったために、ショックも大きかったのであろう。

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私たちは、テレビニュースなどで「乳幼児の虐待死」事件が報じられ、事態がそこにいたるまでに、すでに児童相談所がその家庭への対応にあたっていたという事実を知らされると、「どうして、子供を救えなかったのか」「児相の対応が不十分であり、緊張感を欠いたものだったのではないか。お役所仕事だったのではないか」などと言いがちである。

たしかに、そういう場合もあるだろう。いや、そういう場合も決して珍しくはなかったであろうが、それが広く報じられ、世間からのバッシングを受ける中で、児童相談所の対応は決して「気をぬくことのできない仕事」に変わっていったのかも知れない。

だが、実際のところ、そうした経緯の中で、児童相談所の「完璧な対応」が可能となる物理的な体制、つまり「人員の拡充」などがなされたかというと、決してそうではなさそうだ。
コロナ禍における「保健所」の仕事ですら、急場しのぎの、他部署からの緊急応援でごまかしていたくらいなのだから、長期的な対応が必要になる児相について、職員の増員などはないと見て、まず間違いない。
なぜなら、今時のように「結果責任」を厳しく問われる社会情勢では、軽微な事案だからといって、安易に「門前払い」を食らわせることなど、怖くてできないからであり、おのずと児童相談所が扱わなければならない案件は増える一方となる。したがって、少々人員を増やしたところで、扱う案件がそのぶん増えるだけであり、いくら人員を増やしても、「これで十分」ということには、決してならないからだ。

実際、本作に対するレビューでも「まだまだ、描き方が甘い」というような評価を語っている人もいたが、しかしそれは、その人自身の、現実認識が甘いのである。一一というのも、現実の過酷さは「劇映画」では、どうしたって描ききれない種類のものだからだ。

「児童相談所が抱える、困難な現実」をそのまま描こうとすれば、ドキュメンタリー映画にして「過酷な実例」を列挙し、「法的対応の(リアルな)限界」を見せつければ良いわけなのだが、それで何かが「変わる」のかと言えば、そんな簡単な話でないことは明らかだ。

なぜなら、「児童相談所が抱える、困難な現実」とは、単なる「人員」や「やる気」に問題ではなく、「合法的システムの限界」であり「法改正による人権侵害(人権の制限)」まで視野に入れなければならない「難問」だからで、この映画を観て「現実は、そんなに甘くない」といった「漠然たる感想」を持つことしかできなかった人に、どれだけ「現実的な解決策」を提案できるだろうか、ということなのだ。

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無論、そんな「一朝一夕の解決策」など、誰にも示すことなどできない。
ただ、現実の問題として、ろくに考えたこともないお気楽な「お客さん」が、「映画の感想」として「利いた風な口」を叩いているだけに過ぎず、しかもその自覚すらない、ということなのだ。

しかし、このような現実があるからこそ、こうした問題に人一倍こだわりのある小澤雅人監督は、「劇映画」を選んだのではないだろうか。

「現実の困難さ」を、ただ「知っている」というだけで終わってしまう、ある種の社会派的な「オタク」や「マニア」を満足させるようなものにしかなりかねない「ドキュメンタリー映画」ではなく、少々描写が甘くなってでも、広く世間の人たちの共感を集め、興味を持ってもらうことにつながるものとして、ドラマ性を重視した「劇映画」という表現を選んだのではないか。「まずは、楽しみながらでもいいから、興味を持ってほしい」と。

そして、ここで重要なことは、「一部マニアの理解」ではなく、「広く世間の理解」を得るというのは、「政治を動かし、法改正にまでつなげる」原動力にもなりうる「現実性」を持っている、ということだ。

一部の者が知ったかぶりを語っても、状況は決して変わらない。しかし、多くの人々が声を上げてくれれば、確実に現実を動かすことができる。だからこそ、「遠回り」になってでも、広く訴えることこそが重要なのだという、そんな現実主義的な確信において、小澤雅人監督は「劇映画」を選んだのではないだろうか。

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そのようなこともあってなのだろう、たしかに、少々「甘い」お話にはなっている。
この点は、併映の『一瞬の楽園』も同じで、決して「ギャンブル依存症」や「外国人就労者」の、救いのない「現実」そのままを描いているわけではなく、そうした事例を暗示しながらも、少なくとも心情的には「救いのあるラスト」になっているのだ。

つまり、小澤雅人監督は、普通の人が普通の映画として観ても「楽しめる」「感動できる」「美しい」映画にしたかったのであろう。
言い換えれば、「醜い現実」をむき出しに突きつけて、それで脅しつけるようなものにはしたくなかった。それをしたところで、本当の解決には繋がらないと知っていたのではないか。
なぜなら、こうした「構造的な社会問題」というのは、ヒステリックになって正義を振りかざす人たちだけでは対処しきれない「根深いもの」であり、その解決には、単なる「義憤」ではなく、息の長い対応を可能にする、深い「人間的共感」が根っこになければならないからである。

したがって、小澤雅人監督のこの2作は、見事なまでに「よくまとまった作品」である。
「生々しい現実」を取り入れて、観る者にショックを与えて惹きつけながらも、それ一本で押し切るようなことはしない。どちらの場合でも、主人公の揺れ動く心理が繊細に描かれており、この手の「社会的テーマを扱った映画」によくある「声高な訴え」など、まったく為されない。そんな「わざとらしい」ところの無い、感じの良い作品に仕上がっているのだ。

それなりに知名度も人気もある役者を配していて、演技も演出もしっかりしている。絵づくりも、テレビドラマのレベルではなく、はっきりと「映画」のクオリティを担保しており、時にハッとさせるような美しい「絵」もみせてくれ、「社会派」であることを忘れてしまう瞬間さえある。一一そして、物語は「希望」のあるラストを迎え、観客は、問題意識を喚起されながらも、それなりに気持ちよく席を立つことができる、そんな作品なのだ。

だから「弱い」とか「甘い」とかいった評価も、あながち間違いではないのだけれど、しかし、監督が、「ドキュメンタリー映画」という手法を選ばず、あえて「劇映画」という手法を選んだことの意図を考えれば、この「弱さ」や「甘さ」も、計算のうちだと、そう理解すべきなのではないか。

「厳しい現実」を突きつけて、人々を「恫喝」するだけでは、人々は動いてくれない。
むしろ、そんな「恐ろしい面倒ごと」とは距離を置こう、見ないでおこうというのが、平均的な反応なのではないか。

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(上は『風切羽 かざきりば』、下は『月光』より)

そうした意味で、私は、小澤雅人監督の「劇映画」路線を、ユニークな「闘い方」として高く評価したい。
すぐには成果の上がらない、地道な闘い方ではあるけれども、戦争においては「兵站」が欠かせないように、最前線で大砲をぶっぱなすだけが戦争なのではないのである。

そして、「社会問題」との息の長い闘いとは、紛れもなく「過酷な塹壕戦」のようなものであろう。
その苦痛に耐えられない者こそが、大声を上げて塹壕から飛び出していき、無駄死にをすることにもなるのではないだろうか。

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(2022年10月21日)

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