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幾原邦彦監督 『劇場版 輪るピングドラム』 : 〈愛すること〉で、 人は特別になれる。

映画評:幾原邦彦監督『劇場版 輪るピングドラム』前後編

幾原邦彦は、ずっと気になる存在だったが、読書を優先して、「シリーズものドラマ」は視ないことにしていたので、これまで幾原作品を観る機会がなかった。だが、今回は『輪るピングドラム』の劇場版二部作ということで、やっと『ピングドラム』を観ることができた。

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幾原作品では、もちろん最初のオリジナルシリーズ『少女革命ウテナ』が、本放映以来、気になっていたのだが、『ピングドラム』の方は、カラオケで、より馴染みになっていた。あの、やくしまるえつこの独特の歌声に惹かれて、歌えもしないのに、何度もなんども歌ったものだから、作画的にも優れた『ピングドラム』を代表するようなシーンの多くが、目に焼き付いていたのだ。あのカラオケ映像(LIVEDAM)は、いま思い出しても、本当に良くできていた。

さて、今回の『劇場版 輪るピングドラム』で初めて幾原作品に接して、まず驚いたのは「こんな複雑な作品を、みんな理解できたのだろうか」ということだった。
後編を観終わったらレビューを書くつもりでいたから「こんなに難しい作品では、ありきたりな感想以外、何も書けないんじゃないか」と、少々ビビってしまったのである。

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ただ、まったくの偶然なのだが、『劇場版 輪るピングドラム』後編を観たその同じ日、私は先に、是枝裕和監督の『ベイビー・ブローカー』(「こどもブロイラー」ではない)を観ていたので、両者には明らかな共通点のあることに、ハタと気づいた。その共通点とは、「生の祝福への意志」である。

『ベイビー・ブローカー』では、「赤ちゃんポスト」に捨てられた子供が狂言回しとなって、いろいろな面で「不幸」な生まれや育ちをした人たちが、その赤ちゃんを買い取って育ててくれる「親」探しの旅の中で「疑似家族」を形成し、やがて、おたがいの生を祝福し合うことで、自らも救われるという、大筋でそんな話だった。

これを読めば、『ベイビー・ブローカー』と『劇場版 輪るピングドラム』が似ているというのは、容易に首肯できると思う。
『ベイビー・ブローカー』では、登場人物たちがお互いに「産まれてきてくれて、ありがとう」という言葉を順に発するシーンがあったし、『劇場版 輪るピングドラム』には「きっと何者かになれる、お前たちに告げる」というセリフが印象的だ。
どちらも「不幸な出生ゆえに、何者にもなれないと絶望する子供たち」が、その「呪い」を、いかにすれば超えていけるのか、というドラマだったと言えよう。そして、この「呪い」を解く鍵とは、やはり「愛」だったのではないだろうか。

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本作『劇場版 輪るピングドラム』は、「出生の不幸」に呪われて「何者にもなれない」子供たちが、その宿命から「乗り換える」ための、謎の「ピングドラム」を追っていく中で、最後に、その「ピングドラム」が、何かを知る。

もちろんこれは、私個人の解釈だが、その「運命の乗り換えを可能にするピングドラム」とは、「愛」であり、さらに言うなら「他人への愛=他人のために生きること」なのではないだろう。

この時代、たしかに「未来」は暗い、と言えるだろう。
特に、若者たちは、自分たちの責任でもないのに、気づいたと時には、すでに自分たちの未来は閉ざされたも同然の状態にあって、深い諦観にとらわれるしかない。

『劇場版 輪るピングドラム』では、「親の犯罪」のよる「罪と罰」を背負わされて「何者にもなれない=救いが与えられない」という呪いに苦しむ主人公たちが描かれるが、現実の日本においても、今の若者たちはきっと「上の世代のおかげで、自分たちの未来は暗い」と感じているだろうことは容易に理解できる。事実そのとおりだからだ。

しかし、『ベイビー・ブローカー』で、是枝裕和監督が「不幸な現実があるから、それは不幸だ、で済ませることはできない。罪を犯したから悪人だ、では済ませてはならない。物事は、一面的で決定論的なものではないのだから、きっと今の不幸を、肯定的なものに転換していくことは可能だ」という基本的な考え方に立脚して、この「犯罪者」映画を肯定的なものとして描いたが、同様に、本作『劇場版 輪るピングドラム』の主人公たちについても「そんな親の元に生まれたのなら、巻き添えを食って不幸になるのも仕方ないよね」では済まされない。
たしかに、独善的な「犯罪」は許されないし、現実問題として、そんな親を持ってしまった子供は不幸であろう。それでも、それが当人の責任ではない以上、「仕方ない」では済まされない。済まされないのだが、現にまとわりついている「呪い」を、どのようにすれば振り払うことができるのだろうか?

それはたぶん、どんなに「不幸な自分」であっても、そんな「自分の不幸」に拘泥するのではなく、むしろ、そんな「自分の不幸」を忘れるほどに、他人の幸せを求める「愛」に生きることなのではないだろうか。

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もちろん『劇場版 輪るピングドラム』の主人公の三兄妹は、おたがいのために、命を賭してでも「ピングドラム」を手に入れようとして、それが必ずしもうまくはいかない。まさに「呪われている」としか思えなくて絶望しそうになるのだが、しかし、自分のことなら絶望して嘆くだけで済ませることができても、愛する人のためなら、絶望して済ませるわけにはいかず、たとえ無駄なあがきであったとしても、それでもやれることをやろうとするだろう。しないではいられないはずだ。

しかしその時こそ、人は「絶望」という「呪い」を越えているのではないか。
「何者にもなれない」という呪いを振り払って「愛する人のために、自分を捨てられるような人間」になっているのではないだろうか。

「何者かになる」というのは、何も「有名人になる」とか「ひとかどの人だと他者から認められて、みんなからチヤホヤされる」とかいったことではないはずだ。
そうはなれなくても「他人のために、精一杯生きた」というのは、それだけで「私」を超え出て、「私以上の何者かになった」ということなのではないだろうか。

「何者かになれない」という呪いから、「何者かになりたい」という「承認欲求」という「呪い」にとらわれている人たちが見落としているのは、「自分のための自分」というのは、どこまで行っても「小さな私」でしかない、ということなのではないだろうか。

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高倉家の三兄妹が、特別な人間、美しい人間に見えたのだとしたら、それは彼らが「有名人」になったからでも「社会的な認知を得た」からでもない。
ただ、兄妹の幸福だけを願って懸命に生き得たところに、彼らの「呪い」を越えた姿があったのではないだろうか。

「自分のためだけに生きるな=幸福を分かち合う喜びを知れ」

これが『劇場版 輪るピングドラム』から、私の学んだ「ピングドラム」である。

(2022年8月3日)


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