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村上靖彦 『客観性の落とし穴』 : ズレた思考様式による誤解

書評:村上靖彦『客観性の落とし穴』(ちくまプリマー新書)

この本、とてもよく売れているらしいのだが、このレビューを書こうとするまでは、よく知らなかった。退職後、本屋へ行く機会がめっきり減ったので、その種の情報に疎くなってしまったようだ。

さて、この本が、なぜよく売れたのかは、Amazonの当該ページにも紹介されているとおり、新聞各紙の書評欄が取り上げたり、識者がTwitterなどで取り上げて推薦したからのようだ。
そのあたりについて、amazonの紹介文を引用しておこう。

『各紙誌書評、メディア紹介で話題沸騰!! 
□読売新聞 大阪版夕刊(2023.8.17) 
□朝日新聞(2023.7.22) 
□毎日新聞(2023.7.1) 
□東京新聞(2023.7.1) 
□『ダ・ヴィンチ(2023.8月号)』「絶対読んで得する8冊」 
□NHK「中江有里のブックレビュー」(2023.7.3) 
□NewsPicks(2023.6.24) 

「エビデンスはあるんですか」「数字で示してもらえますか」「その意見って、客観的なものですか」 
数値化が当たり前になった今、こうした考え方が世にはびこっている。その原因を探り、失われたものを明らかにする。 

中原淳さん(立教大学教授)推薦!
肌感覚で恐縮ですが、どうも現在の日本社会には、何も考えずに「客観性=数字=良い」と考える「エビデンスオヤジ」や「客観性オヤジ」が10万人くらい跳梁跋扈しているような気がします。(中略) しかし、ひとびとによって饒舌に語られる、この「客観性」とは、そもそも、いったいなんでしょうか?
本書は「客観性とは何か」「客観性のメリット・デメリット」「客観性の見落としてしまうもの」について、高校生・大学生・もちろん大人にもわかるように、書かれた良著だと思います。(「NAKAHARA-LAB.net」より) 』

私が本書を購読することに決めたのは、書店の新刊書コーナーで、本書のタイトルが目につき、手に取ってみて、帯に擦られた下のような惹句に惹かれたからだ。

『この考え方のどこが問題なのか?

「数字で示してもらえますか」
「それって個人の意見ですよね」
「その考えは、客観的なものですか」
「エビデンスはあるんですか」』

「ああ、こういうことを言う奴がいるよな」と思い興味を持ったのだが、いつものようにその場では購入せず、「ブックオフオンライン」に登録して、古本で手に入れることにした。その方が、多少は安いというのもあるけれど、時間の経過で頭が冷えて、入荷連絡が入る頃には、すでに興味を失っていることもあるからで、そういうものまで買わないで済むようにするためだ。未読の本なら、死ぬまでに読みきれないほどの量を所蔵しているのだから、勢いで本を買うのは控えなければならない。
で、その後、3回ほど入荷連絡があったのだが、その度に他の人に先を越され、やっと今回、入手できたという次第。私のように、古本で買おうと考えていた人が結構いたということだろう。それなりに人気の本なのかなという感触はあった。

で、私としては、上の引用に紹介されていたような「薄っぺらい意見(疑問・問い)」を、著者がどのように批判するのかという点に興味があった。
というのも、私は長年、ネット右翼とやり合ってきた人間だから、こういう「物言い」には慣れていて、それなりに逆捩じを喰らわせる自信があったからでもある。

しかし、本書著者の場合は、私の場合とは、少し違っていたようだ。
というのも、私の場合だと、ああいう「物言い」をする相手というのは、こちらを困らせてやろうという明確な意図を持って、あのような言い方をしたのだが、著者の場合は大学の授業の中で、学生から、ああいう質問を「大真面目」に向けられることがあって、そこに問題を見たようなのである。

つまり、私が相手にしたネット右翼などは、本気で上のような疑問を持って質問したのではなく、意図的に「こう質問してやれば、相手は回答に窮するだろう」と思って、言っていただけ。要は、自分の「質問形式」が、さほど正当なものではないということを薄々自覚しながらも、あえて「攻撃テクニック」の一種として、あのような「物言い」をしていたのである。

ところが、そうした「物言い」がネットを中心にしばしば目につくようになると、若者たちは、そうした「質問形式」が正当なものだと、勘違いして思い込むようになったようだ。一見したところは、たしかにそのようにも思えるから、人生経験に乏しく、物事の見方が一面的になりがちな若者としては、これは当然の「影響の結果」ということになるのだろう。

 ○ ○ ○

では、ああした質問、つまり、次のような質問が「なぜダメなのか」を、具体的に説明したいと思う。

(1)「数字で示してもらえますか」
(2)「それって個人の意見ですよね」
(3)「その考えは、客観的なものですか」
(4)「エピデンスはあるんですか」

(1)については、数字で示せることと示せないことがある、という当たり前の現実に配慮できず、十羽一絡げに「数字」で説明できると思っているところが、本質的に何もわかっていない証拠だ、と言えるだろう。

(2)については、言うなれば、すべての意見は「個人の意見」に過ぎないということがわかっていないという点で、物事を本質的に考えていない、と言えるだろう。「一般的な意見」あるいは「多数派の意見」というのは、所詮「個人の意見」の集まりでしかなく、「ある個人の意見」よりは正しい認識である蓋然性は高まるものの、決して「正解」だという保証はない。つまり「大半の人が間違っていて、ごく一部の人が正しかった」なんてことは、歴史を見れば、よくあることなのだ。

(3)「客観的」というのも同じ。人間には「純粋客観」というのはあり得ず、「客観」とは、あくまでも「仮に措定されるもの」でしかないのに、それをあたかも実在するかのごとく考えるのは、単なる浅慮の盲信にすぎない。

(4)「エピデンス(根拠・証拠・裏付け)」なら、何にでもある。要は、その「エピデンス」の強度が問題なのであって、「エピデンス」は「ある・ない」というようなものではないというのがわかっておらず、二項対立的に考えているところが、これまた、浅慮の思い込みに過ぎない。

以上が私の意見で、本書を購読した人の中には、こういう方向性での内容を期待した向きも少なくなかったようだ。

一一ところが、本書は、そういう本ではなかった。

本書著者は、上の4つのような質問が出てくる背景には、「客観性信仰」「数字信仰」といったものがあって、それは歴史的に生み出されてきたものだという観点から、「科学の歴史」などを検討し、それに偏ることの問題点を指摘し、そうした「物の見方」では捉えきれない現実のあることを紹介し、その上で、そうした現実を捉える方法として、著者の実践している方法がどのようなものかを紹介している。
そしてその方法とは、端的に言えば「個人の声を丹念に聞くことに始まり、そこに数値化や一般化し得ない、生き生きとした経験を読み取る」という方法だ。

それは本書著者の、次のような「経験」から直線的に見出されるものだと言えるだろう。

『 私の研究は、困窮した当事者や彼らをサポートする支援者の語りを一人ずつ細かく分析するものであり、数値による証拠づけがない。そのため学生が客観性に欠けると感じるのは自然なことだ。一方で、学生と接していると、客観性と数値をそんなに信用して大丈夫なのだろうかと思うことがある。「客観性」「数値的なエビデンス」は、現代の社会では真理とみなされているが、客観的なデータでなかったとしても意味がある事象はあるはずだ。
 数値に過大な価値を見出していくと、社会はどうなっていくだろうか。客観性だけに価値をおいたときには、一人ひとりの経験が顧みられなくなるのではないか。そのような思いが湧いたことが本書執筆の動機である。
 とりわけ気になるのは、数値に重きがおかれた結果、今の社会では比較と競争が激しくなったのではないか、ということだ。
 先にもあげた私の授業では、対人援助職のみなさん、そして身体障害の当事者、薬物依存から刑務所を経験した方、差別を受けた方といった人たちをゲストにお呼びしている。大学に入ったばかりの若い学生を前にして、生命とは何か、死を看取るとは、あるいは差別や障害はどのように現代の日本において問題なのかを考えてもらうようにしている。』(P7〜8、「はじめに」より)

これを読むと、著者がどういう人かがよくわかるだろう。簡単に言えば「弱者に寄り添う、優しくて真面目な人」である。

著者は大阪大学で教授をなさっており、現象学が専門ということだが、少なくとも現在は、社会実践の場に身を投じておられる立派な方だと言えよう。

しかしである、大阪大学の学生といえば、それなりに「知的エリート」だから、こんな先生のことを「情に流されて、客観性を失っているんじゃないの?」なんて、生意気なことを考えたりするとしても、それは若気にいたりとして、致し方のないところであろう。
なにしろ彼らは、受験戦争を勝ち抜いてきた「知的エリート」であり、言うなれば「社会的な強者の予備軍」だから、挫折経験に乏しい彼らは、どうしたって「弱者」に共感を抱くことが難しい。
その人なりに頑張っても「社会的敗者」とならざるを得なかった「恵まれなかった人たちの境遇」を想像することが、彼らには難しいというのも、ある意味では当然のことであろう。
そして、そうした彼らから見れば、いくら教授の言うことでも「爺さんはいい人だけど、ちょっと学問としては、問題があるね」なんて、賢しらなことを考えても、いちがいに責めることはできない。

たしかに本書著者の言い方は、多少極端に聞こえる部分があって、そこで誤解を招いている部分はある。例えば、

『「客観性」「数値的なエビデンス」は、現代の社会では真理とみなされている』

といった表現だ。

実際のところ、私が「4つの問い」に答えてみせたように、『「客観性」「数値的なエビデンス」は、現代の社会では真理とみなされている』というわけではない。
そういう「低レベル」で「客観性」や「数値的なエビデンス」を盲信している人もいるにはいるし、それがかなり大勢だというのは事実だとしても、少なくとも、まともな「大人」なら、「客観性あるいは数値的なエビデンス=真理」などという安直な考えは持っていないだろう。
「客観性」や「数値的なエビデンス」というのは、あくまでも「真理」を目指すための「道具」であって、「真理」そのものではないことくらいは、ちょっと考えればわかる程度の話なのである。

しかし、そんなこともわからない「子どもたち」や「頭の悪い大人」が多いからこそ、本書著者の「危機感」もいや増して、前記のような、誤解を招きやすい、強い言い方をしてしまうのだろう。だが、そこは著者の「意を汲む」ことで了解できる範囲のものであり、読者に当たり前の読解力があれば、著者の「真摯な思い」を誤解することにはならないはずなのだ。

したがって、学生たちの「筋違いの疑問や質問」は、学生たちの「思いあがり」に由来する「視野の狭さ」から来るものでしかない。
「善意で弱者に関わっているような人は、本書著者も含めて、その善意によって、対象を見る目が曇っているのであろう」という、そんな思い上がりに発する「臆断」である。

繰り返すが、学生たちのいう「客観性」などというものは、より深い意味での「客観性」ではない。学生たちのいう「客観性」には「客観性に対する客観性」が欠けている。
つまり、「客観性とやらを疑う客観性」が欠けているのであり、要は「メタレベルの客観性」を欠いている、文字どおり「薄っぺらな客観性」に過ぎないのだ。で、これは「数値的エビデンス」についても、まったく同じことなのだ。

こういう「客観性」信仰や「数値的なエビデンス」信仰が、役に立たないものだという実例を示すと、例えば「投資詐欺」などがある。
「投資詐欺」では、当然のことながら「もっともらしい数値」が「客観的」に示されたパンフレットといった「エビデンス」が、具体性を持って示される。決して、それは「主観的なもの」ではなく「客観的な物」なのだ。
そのため、「客観性」信仰や「数値的なエビデンス」信仰を持っている人は、そういう「形式」に、ころりと騙されてしまう。
「まさか、そんなに詳細な数字をでっち上げるとは思わなかった」「有名人が多数推薦文を寄せている、こんなに立派なパンフレットに書かれていることが、まさか嘘っぱちだなんて思わなかった」というようなことになるのである。

つまり、たしかに「客観性」の担保としての「数値」や「エビデンス」は大切なものなのだが、しかし、だからと言って、それがあるから「信用できる」というものではない。なぜなら「その数値は信用できるものなのか?」あるいは「そのエビデンスのエビデンスは、どのようなものなのか?」という「メタレベルの客観的検証」が、「数値」や「エビデンス」に対しても必要であり、それは原理的に、根拠の無限後退をひき起こして、どこかで主観的に「切断(決断)」し「主観的に決定」しないことには、それらは使い物にならないものでしかないからである。

 ○ ○ ○

そんなわけで、たしかに本書著者の説明の仕方も、いかにも真面目な人らしく不器用なところはある。こういう説明では、自信過剰の学生たちには、なかなか届かないだろうなとは思うのだが、しかし、本書における肝心な点は、そこではない。

本書において肝心なのは、「弱者という、他者の立場に立ってみる」ということの必要性であり、その重要性なのだ。

しかし、これが「自信過剰な人」には、読み取れない。
「頭でっかちの学生たち」と同様に「自信過剰な大人たち(読者)」も、本作の肝心なところには興味を持たず、ただ本書著者の「知的鋭さ」だけを問うてしまいがちだ。
その実例が、本書に関するAmazonカスタマーレビューで、「星3つ」程度の評価を与えている「哲学オタク」的な傾向の強いレビュアーたちである。

彼らは「社会的弱者」になんか、じつのところ興味はない。
興味があるのは「いかに自分が賢いか」ということだけだから、本書著者の伝えたかったことは等閑にふしてでも、著者が、いかにうまく書いているか、書いていないかということにしか興味を持たない。要は「この著書、あんまり賢くないね」というようなレビューを書いてしまうのである。

だが、こうした人は、根本的なところで「頭が悪い」ということであろう。
「頭の良さ」というのは、それだけでは意味がない。それが社会の中で生かされてこそ意味があるのに、自己満足のためにだけ「頭の良さ」を問題にする人というのは、じつのところ「弱者」の一種でしかないということなのである。

彼らは「弱者としての評価こじき」であるからこそ、「賢い人」を褒めあげて、その権威に与ろうとし、「そこまで賢いとは評価できない人」については、その弱点を論って「私の方が賢い」ということを誇示したがる。

だが、大切なのは、そういうケチなことではない。本書著者に、いささかの「不器用さ」があろうとも、本書から読み取らなければならないことは、そんなことではない。そんなことではなく、本書著者の「人間的な真摯さ」なのである。

これを十分に読み取れずして、分かったようなことを言っているのは、最初に引用したような質問をする学生たちと同様、「人間」や「社会」の現実が見えていない人であり、要は、自分の「ケチくささ」が見えていない、「薄っぺらな人間」でしかない、ということだ。

こうした「薄っぺらに賢い」人というのは、「形式論理」は器用に操れても、例えば「文学」作品を深く味わうようなことができない。なぜならそれは「パターン化された形式」には馴染まなものであり、わかりやすい「客観性」や「数値」には還元できない、複雑な対象だからだ。

そしてこれは「生きた人間」についても、まったく同じように言えることなのである。


(2023年9月10日)

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