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映画『俺を早く死刑にしろ!』 : 「井の中の蛙」による凡作

映画評:高山直美監督『俺を早く死刑にしろ!』

私がこの映画に最初に興味を持ったのは、タイトル『俺を早く死刑にしろ!』が、実在の事件である「2018年東海道新幹線車内殺傷事件」を連想させたからである。

つまり、「自ら死刑を望んだり、刑務所入りを狙って犯罪を犯すような者の存在と処遇を、どうすればいいのか?」という問題を扱う「社会派的な作品」かと思ったのだが、作品紹介ページを見てみると、どうもそうではないようだった。

『2020年劇団バトル企画で高山直美監督率いる実力派劇団チームエヌズが上演し、その内容の強烈さから話題を呼んだ問題作が多くの反響に応えついに映像化。全国の映画祭で数々受賞歴のある高山直美監督にとって初の長編映画作品。死刑になりたい男と教誨師の運命の日に一体何が?! 衝撃の展開が待ち受ける!』

このように紹介されており、チラシには大きく、

『出演者も騙された!』
『死刑囚と教誨師の予測不可能なラブストーリー』

とあるとおりで、要は「最後にどんでん返しのある、トリックストーリー」だということである。

そこでまあ、私の興味は「舞台の方で評価された作品のようだが、さて、映画として広く鑑賞され、ミステリ読みの目に触れて、それでも通用するような作品になっているのかねえ?」というところに収斂され、例によって「では、お手並みを拝見しようか」ということになったのである。

で、結論から言えば、開幕早々「オチ」が読めてしまって、興ざめであった。

しかも、主演男女を含めて、全体に芝居が「わざとらしく大仰」であり、言うなれば「舞台的な演技」で、それを映画で見せられては、いかにも鼻につき、「どうにかならないものか」と苦痛にさえ感じられた。
ただでさえ、オチが見えているのに、芝居まで「くさい」のでは、たまったものではなかったからだ。

だが、これは必ずしも「役者の演技力」のせいではないのかもしれない

役者の多くは、たぶん、舞台を中心に活動している人たちであろうが、原作の舞台に出ていた人たちかどうかまでは知らないし、そこまで調べる興味もない。

ただ、この「映画」を観ていて、強く感じるのが、見せ方が(リアリティを欠いて)「いかにも舞台的」であり、しかもそれが、うまくいっておらず(良い効果を発揮しておらず)、違和感だけが強い、ということである。

それで、まずは、監督が「映画」という表現を十分に理解していないばかりか、舐めているのではないか、とさえ疑われた。そしてこの監督であれば、役者にこのような「舞台的に大仰な芝居」を求め、やらせたのではないか、と疑ったのである。

しかし、「最後にどんでん返しのある、トリックストーリー」ならば、映画としての出来がどうであろうと、ひとまず、そのオチが斬新で、こちらの予想の裏をかくようなものであれば、それだけで評価することもできる。
特に、ミステリファンである私のような人間なら、映画としては駄作でも、ワンアイデアが画期的なものであれば、それだけで高く評価できるのだ。例えば、「島田荘司の初期作品」のように。

それで、そのことだけに期待して、最後まで観たのだが、その結果は、最初に書いたとおり「予想したまんま」でしかなく、しかも「どんでん返し」の後に、無駄に長々と、その「どんでん返し」の仕掛けを説明するのが、いかにも野暮としか思えなかった。

監督としては、そこで「映画的な余韻」を持たせるとか、いちおう「復讐の虚しさ」といった「テーマみたいなもの」をにおわせようとしたのかもしれないが、肝心の「どんでん返し」が「凡庸」なものでしかなかったのだから、それ以上、周囲を飾り立ててみたところで、所詮は「言い訳」にもならず、早々にオチがわかってしまった者には、野暮で虚しい以外の何ものでもなかったのである。

いちおう、以下ではネタを割って、この作品が「いかに凡作」かといったことの説明と、それ併せて、この程度の作品を、わざわざ「クラウド・ファンディング」で寄付金を募ってまで映画化したという、昨今の風潮に注文をつけたいと思う。

そう、この作品は、2020年に旗揚げされたばかりの演劇集団の舞台作品が、「その世界で評判を取った」結果として、「映画」にしても通用するだろうと考えて、原作舞台ファンを中心としたのであろう「クラウド・ファンディング」で募った資金によって「映画化」された作品なのだ。
しかし、あいにくながら、映画ファンは、いや、少なくとも「ミステリファン」は、そこまで甘くはないし、「不見識」でもないのである。

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【※ 以降、本作のネタを割りますので、未鑑賞の方はご注意ください】

本作のストーリーは、次のとおりである。

『死刑になるため自分の母親と見ず知らずの姉妹を殺した佐久間亘は、更生の余地なしとして望み通り死刑が確定し拘置所でその日を待っていた。 そこへ佐久間を改心へ導くためキリスト教の教誨師の沙月が訪れるようになり、反発していた佐久間の心に変化が訪れるようになっていくのだが、死刑執行のその日は確実に近づいていたー。』

死刑になることだけを望んで殺人を犯し、拘置所で死刑執行までの日々を「早く俺を死刑にしろ!」と喚きながら送っている男・佐久間のもとへ、キリスト教の新米教誨師(※ 教誨師:受刑者や死刑囚に対しその非を悔い改めるよう諭す人)である、若くて美しい女性・沙月が訪れる。
佐久間と面会した沙月は、佐久間の傷ついた心への同情から、それがすぐに「異性への愛」に変わってしまい、その影響から、佐久間の方も徐々に「人間らしい心」を取り戻していく。裁判の段階では、被害者家族に対してまで「ざまあみろ」とばかりに憎まれ口や暴言ばかり浴びせていた男が、自身の犯罪を悔いるように変わっていくのだが…。一一というお話である。

で、「本格ミステリ」を読み慣れた者なら、「この教誨師の女があやしい」と、すぐに気づくだろう。
殺人犯の男の傷ついた心に同情して「好きになってしまいました」という展開は、いかにも「出来すぎ」であって、物語として「無理がある」。ならば、これは「お芝居」だと考えるのが、至当だ。

では、なぜ「女は、男を愛したふりなどしたのか?」と言えば、これは普通、死刑が確定している、この無反省な男に「恋愛感情」を持たせて、「死にたくない」という気持ちにさせ「苦しませること」、つまり「復讐」がその目的だと見るのが、当然の推理であろう。

で、結果としては、大筋、これで正しい。
私の読んだとおり、佐久間は、教誨師を演じている女にまんま騙され、徐々に惹かれていくのだが、ただ、この映画のダメなところは、佐久間がそこから「人間性を取り戻す」というところまで拙速に描いてしまい、しかもそれが、「女たち(復讐グループ)」の当初からの狙いだった、としている点である。

つまり「女たち」は、死刑囚の男・佐久間に「恋愛感情を持たせることで、死にたくないという気にさせる」というのではなく、女から与えられる「偽の愛」によって、佐久間が「人間性」を取り戻し、そのことで「自らの犯罪を、心から悔いて、苦しむ」ところまでを狙い(あらかじめ想定し)、その後に死刑になるという「計画を立てていた」というお話になっているのだ。

だが、「そんなこと、無理に決まっている」と、普通の人なら思うだろう。だからこそ、私も「恋愛感情を持たせることで、死にたくないと苦しませる」という推理をしたのだ。
「人間性を取り戻して、完全に反省する」などという、ほぼ実現不可能な、いかにも「絵空事」でしかない計画など、「犯行グループ」が立てるわけなどなく、せいぜい「恋愛感情を持たせる」程度だろう、と考えたのである。

実際、「神への愛を語る、無垢な女性」から「愛」を向けられたからといって、長年にわたる「親からの虐待」ですっかり「この世への憎悪」に凝り固まってしまい、そのあげく親を殺し、またその絶望から、死刑になるためだけに、まったく無関係な姉妹を情け容赦なく惨殺したような男が、そう簡単に「改心」など、するわけないし、できるわけもないのである。彼の「心の傷」は、そんなに「お易いもの=浅いもの」ではないのだ。

無論、「現実」には、ごくごく稀に「恋愛によって改心しました」という「軽い」殺人犯もいるかもしれないが、少なくとも、それは「フィクション」作品においては、不成立だ。
つまり、こんな理由での「改心」など、「物語」としては、「リアリティ」がなく、説得力がない、ということにしかならないのである。

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むしろ、この程度の作品が、「舞台」では評判を取り、『幾多の賞に輝いた』というのなら、「舞台」の世界とは、なんと「無教養」な「不見識」がまかりとおるのかと、そこまで言いたくなる。
だが、これは「舞台」というものの「特殊性」、ということもあるだろう。

つまり、「舞台」は、通常の「映画」や「小説」に比べると、「内面表現」が外化され、さらには「誇張」されるからではないか、ということだ。

(原作舞台版チラシ)

どういうことかというと、例えば、ある人物が「とても悩んでいた」とする。これを、「小説」なら「心内語」の「独白」として直接的に描くことができるし、「映画」でも「アップ」や「映像的な工夫(例えば、光の当て方やアングルの工夫、モンタージュなど)」や「役者の繊細な、表情の演技」などで見せることができる。

だが、「舞台」の場合は、「心内語」を見せることはできない。「ナレーション」にして流すことも可能ではあろうが、それは「舞台演劇」の手法としてはいささか野暮であり、例外的な手法でしかなかろう。
また「舞台」は、役者の表情を「アップ」で見せることができず、「声と全身」を使った演技で表現するしかない。つまり、よくあるように、役者は、大仰に「頭を抱えたり、ウロウロと歩き回ったり」といったオーバーアクションをし、唾を飛ばしながらの大声で「ああ、俺はなんと愚かな男だったのだ!」などというセリフを吐いたりする。

こうした「舞台特有のオーバーアクション」というのは、言うなれば「舞台演劇特有の、必要に迫られて成立した、お約束(独特の表現形式)」なのである。
だから、それを、そのままに近いかたちで「映画化」したりすると、「演技がくさい」とか「お話にリアリティが欠ける」ということにもなってしまうのだ。

で、本作は、それをもろにやってしまっているのである。

たしかに、それは「舞台というお約束」の中では、それなりに成立可能なものなのかもしれず、そのせいで「舞台作品」としては、それなりに高い評価を受けたのかもしれない。

だが、それをそのまま「外の世界」に持ち出して通用するほど、「外の世界」は甘くはない。

この「映画」が「良くできている」と評価してしまうような「舞台演劇ファン」には、「もう少し、本も読み、映画も見て、教養を深め、認識を深めよ」と言いたい。
そして、それに対し「いや、本も読んでいるし、映画も観ている」というのであれば、「それなら、あなた個人に、根本的な鑑賞能力がないのか、さもなくば、頭を使って鑑賞する習慣が無さすぎるのだ」と応えることになろう。

「小説」であれ「映画」であれ、そして「舞台」であれ、ただ「数多く鑑賞している」だけで、鑑賞力が付くなどと考えるのは、まさしく「烏滸の沙汰」なのである。

なぜ、(作中で描かれる)「何でも屋」ごときが、こんな大仰な「セット」を長期間利用できたのか等、突っ込みどころは多々あって、細かいことを言い出せばきりがないが、この作品については、もはやそれをすることすら「野暮」でしかないので、辞めておくことにする。


(2022年12月13日)

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