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NHK「ETV特集」取材班〔著〕、 萩野富士夫〔監修〕 『証言 治安維持法 「検挙10万人の記録」が明かす真実』 : あなたが 〈加害者〉である 蓋然性

書評:NHK「ETV特集」取材班〔著〕、萩野富士夫〔監修〕『証言 治安維持法 「検挙10万人の記録」が明かす真実』(NHK出版新書)

『 すでに治安維持法についての知識がある人も、初めて関心を持った人も、自分の身に置き換えながら法律が人々の日常に何をもたらしたかに思いを馳せてほしい。』(「おわりに」より、P261)

これが、本書のを読む上での重要ポイントである。

治安維持法は、日本への共産主義の浸潤を駆逐排除するために構想され、やがては「天孫降臨の神の末裔たる天皇の統べる国」という「日本の国体」に反する「あらゆる思想、信条、宗教」を否定し、さらには「日本の国体」思想を強制して、国民を洗脳統制するための武器となった、「稀代の悪法」である。

私たちがこの法律の歴史を学ぶとき、そしてその被害の甚大さと悲惨さを学ぶとき、私たちは多くは、自身をその法律によって虐げられる「被害者」の側に置いて、その問題を考えようとするだろう。
無論それも必要だし、当然のことなのだが、しかしそれだけでは、決定的に不十分なのではないか。

本書に紹介される、「治安維持法」という嵐に巻き込まれた人たちの中には、「被害者」ではなく、「加害者」の側に立ってしまった人もいる。その当時の「(捏造された)常識」として「(神をも怖れぬ)悪いやつら」を懲らしめたいという正義感から、「治安維持法」という「禁断の杖」をふるって、自身が「悪魔」に堕ちてしまった人たちもいるのだ。

また、そこまで積極的ではなくても、「世間の常識」として「忌避すべき」対象に対しては、自身も「右へならえ」で忌避するというのは、今も昔も変わらぬ「日本人の体質」なのだから、私たちが「治安維持法」という法律が、まだ「人権侵害の悪法」という歴史的評価を与えられておらず、「治安維持のために、是非とも必要な法律」であった時代に生まれていたなら、それをありがたく支持したりはしなかったと、本当に自信を持って言えるだろうか?

例えばあなたは、ナチス政権に逆らい、我が身と家族の生活を危険にさらしてまで、ユダヤ人を匿ったりできただろうか?
例えばあなたは、日本政府に逆らい、アカと呼ばれて忌避されていた人たち(共産党員やそのシンパ)を匿うことをしただろうか?

「した」「できる」と言うのなら、それは非凡に立派なことである。
そんな人であれば、いま現にどんなことをしているのか、ぜひ聞かせてもらいたいと、そう思ったりもするのだが、しかしそれはきっと、人には言えないような「非合法ぎりぎりの、立派な行ない」に違いないのだろう。そのはずなのだ。

しかし、たいがいの人は、そうした状況に立たされれば、普通は無難に「世間に迎合する」だろうし、良くて「心ならずも傍観」するだろう。だからこそ、一一そうなってからでは遅いのである。

「治安維持法」は、一日にしてなったのではないし、その成立に危惧をおぼえた人も、批判したもいなかったわけではない。しかし、結果としてそれは、止めどなく肥大してゆき、10万人にものぼる被害者を出したあげく、それでも、無条件降伏という絶対的な敗戦によって、他者から力づくで奪われるまで、ついに自力でそれを止めることが出来なかった怪物なのである。
しかも、今でもそれが「必要なもの」であると信じて疑わない人が少なからずいて、名称を変えた「新たな治安維持法」が作られ、その暴走のときを虎視眈々と待っていさえいるのである。
つまり、私たちは、今この時にも「治安維持法」と対峙している。決して過去の話などではないのだ。

そして、その怪物との戦いは、私たち自身が「被害者」にならないためだけではなく、私たち自身が醜い「怪物(加害者)」にならないためのものでもある、ということを忘れてはならない。
「治安維持法」の「積極的な被害者」になるには、非凡な覚悟がいるけれども、「加害者」になるのは、誰にも容易なことなのだ。「その時」の私たちは、「被害者」であるよりも、「加害者」である蓋然性の方が、圧倒的に高いのである。

このような視点をもって本書を読めば、こうした「法律」の真の恐ろしさを、きっと実感できるはずである。

初出:2019年12月6日「Amazonレビュー」
  (2021年10月15日、管理者により削除)

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