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初「ブロック」されました。 : 似非リベラルの実例

「リベラル」という言葉が意味するところとは、基本的には次のようなものだ。

『リベラル(英: liberal)とは、「自由な」「自由主義の」「自由主義者」などを意味する英語で、政治思想の分野では主に以下の2つの意味で使用されている。 政治的に穏健な革新をめざす立場。 1930年代以降のアメリカ合衆国から広がった用法で、社会的公正や多様性を重視する自由主義。』(Wikipedia「リベラル」

つまり「リベラリスト(リベラル)」というのは「自由主義者」であり、「自由主義者」とは、何よりも「自由」を尊重する人のことである。

しかしながら、「リベラリスト」を名乗る人は多いが、その大半は「自分(たち)の自由を尊重せよ」とは言っても、他人の「自由」まで尊重する人だとは限らない。
つまり「私の自由を尊重せよ。ただし、私の気にくわない奴の自由は制限せよ(剥奪せよ)」というような人は、決して珍しくはないのである。

無論、自由を尊重するといっても、すべてが無条件に「自由」になるわけではない。
例えば「殺人の自由」などというものは認められない。なぜなら、そもそも「殺人」とは、「他者の自由を(決定的に)奪うもの」だからだ。

だからこそ、私たちは「言論の自由」を重視する。
つまり、他者の自由を奪う「殺人は許されない」が「殺人の是非を論じる」こと(自由)は認めるべきだと、「リベラル」はそう考える。
「他者の自由」を尊重するために、やむなく「行動の自由」を一部制限するからには、「言論の自由」くらいは認めないと、何の「リベラル」なのか、ということになってしまうからだ。

しかしまた、「言論の自由」といっても、これも現実にはなかなかの難題である。
例えば、「在特会などのネトウヨ」による「ヘイトスピーチ」がそうであるように、彼らは「言論の自由」を盾にとることで、「理不尽な、言葉の暴力」によって、他者の「自由」に対する毀損抑圧行為を、自己正当化しようとする。一一このような場合、はたして彼らの「言論の自由」を、無制限に認めるべきなのか?

無論、そうではない。
「言論」というものが、その本質において、ある種の「力(暴力)」である以上、残念ながら、他者を傷つけたり抑圧したりすることがある、というのは事実だ。「言論」とは、そもそも「他者への働きかけ」であり、その意味では「力の行使」に他ならないのである。

したがって「言論」の行使においても、一定の制限が課されざるを得ないというのは、やむを得ない現実ではあるのだが、しかし、だからと言って、「自分に不都合な言論のみを封ずる」という、自分勝手な行き過ぎを認めるわけにはいかない。

ならば、「言論の自由」の制限における、最低限の「ルール」とは何かというと、私はそれを「フェアプレイ精神」だと思う。
つまり、広く第三者に見られても恥じない「正々堂々の議論」であり、それを前提とした「言論(発言)」でなければならない、ということだ。

だが、自称「リベラル」の中にも、と言うか、「自称リベラル」の9割は「似非リベラル」でしかない。だから、この「フェアプレイ精神」を持ち合わせない者が少なくない。
しかも彼らは、自分が「似非リベラル」でしかないことに自覚のない、度しがたい輩であり、しばしば「リベラル」の面汚しにしかならない者たちなのだ。

こういう人が少なくないからこそ、ときに「ネトウヨ」などでさえ「リベラルって、二枚舌の偽善者だ」などと批判することもあって、その「裏付け証拠」になってしまってもいる。
その意味で、自覚を欠いた「似非リベラル」ほど、「自由」に対して迷惑な存在はおらず、彼らはまさに「獅子身中の虫」なのである。

 ○ ○ ○

さて、本稿では、そんな「似非リベラル」の具体例として、私が以前、ここ「note」においてフォローしていた、「吉成学人(よしなりがくじん)」氏を紹介したい。(※ なお、私からのフォローは、氏からのブロックによって、自動解除されたようで、再フォローも出来なくなっていた)

吉成学人(よしなりがくじん)
https://note.com/maruyama_1946/

自己紹介文
『宮城県仙台市在住之弐拾代男性。市内某私立大学歴史学科卒業。』

如上のような人で、ページトップに、東大教授である「安冨歩」にかかわる『生を忘れるな 安冨歩著作書評集』なる共同マガジンなどを掲げ、また先日までは「代読ダイアローグ」なるものをやっているという自己紹介をしていたが、本日の最新記事である、

・【お知らせ】代読ダイアローグの廃業と3年ぐらいnoteをやってきたことへの感想(2023年2月16日)
https://note.com/maruyama_1946/n/ncaac3ea87a22)

によると、「代読ダイアローグ」なる「収益活動」については辞めてしまったらしい。

『廃業の理由は、去年から売上がなかったことで将来性が見込めなかったからである。ぶっちゃけたこと云うと、現在は金欠がいよいよ極まったので別の方法で金銭を得ることに集中したいので一区切りとして廃業を決めたのである。』

「安冨歩」というと、私は氏の著作『原発危機と「東大話法」』(2012年1月)を、その刊行当時に、福島第一原発事故に関わる「原発ムラ」問題を扱う一書として読み、「東大話法」という卓見に、とても共感し、裨益された記憶がある。

また、のちに「安冨歩」氏が、「山本太郎」のひきいる「れいわ新選組」から参院選(2019年)に出馬した時も、なるほどなと思ったものだ。
「ある組織に入ったところで、言いたいことは言う。それができないような組織には入らない」というのが、「安冨歩」という人であれば、組織を「一色に染めない」リーダーとしての山本太郎との「限定的な共闘」は、理解できるものだったからだ。

で、そんな「安冨歩」の著作に関する書評を、わざわざ共同マガジンにしてまで掲げているのだから、本稿で紹介する「吉成学人(よしなりがくじん)」が、安冨氏に学ぶ「リベラル」に分類される人であろうことは容易に窺えるし、「吉成学人」氏自身も自覚的に、「安冨歩」という名前を、信用を得るための「名刺がわり」に使っていたのであろう。

実際、「吉成学人」氏の記事には、「リベラル」を思わせるものが多い。
だが、問題は、氏が「本物のリベラル」か「似非リベラル」なのか、ということである。

私と「吉成学人」氏の接触は、氏が私の記事に、数多くの「イイね(ハートマーク)」を付けてくださり、フォローしてくださったことに始まる。

それで、どんな人なのだろうと、氏のページを覗きに行ったという経緯で、コメントのやりとりがどういうところから始まったかというのは、すでに記憶にない。
私と氏の過去記事のコメント欄を読み返せば、明らかになることだが、そんな面倒なことをする気にはならないし、その価値もないだろう。

当初、氏が、私に「好意」的であったのは言うまでもない。
私も、氏を「若いリベラル」として好意的に遇し、だからフォローもしたわけなのだが、一一私を知る人ならご承知のとおり、私が相手が誰であろう(例えば、面識のある有名人や古い友達であろうと)と、「それは違う」と思えば忌憚なく、そう意見表明をする人間だ。
つまり、「仲間の意見(発言)は何でも褒め、敵のものは何でも貶す」というような、「党派性」で物を言う人間ではないのである。
だから、「吉成学人」氏の記事や「コメント欄での発言」についても、「是々非々」で、徹底的に議論を尽くした。

だが、よくあることで、これが「吉成学人」氏には、気にくわなかったようだ。

いくら私が、親以上の年長者だとはいっても、せっかく敬意を持って接しているのに、私の方は完全に「対等」な相手として忌憚なく意見し、少しも「身内に甘い」態度を採らなかったのが、たぶん「意外」でもあれば、お気にも召さなかったのであろう。

「吉成学人」氏の次の記事を、「コメント欄」まで読んでいただければ、私が氏から「ブロックされた」経緯は明らかである。

・【書評】フレデリック・マルテル『ソドム バチカン教皇庁最大の秘密』/そこに愛はあるのだろうか(初出:2022年11月6日。現在のものは「改訂版」)
https://note.com/maruyama_1946/n/n08aaf5fc8bd0?from=notice)

この記事のトップに、私の記事である「フレデリック・マルテル 『ソドム バチカン法王庁最大の秘密』:〈歪んだ聖域〉としての バチカン」(初出:2021年7月9日)を、リンクを張って紹介しているように、氏のこの記事は、私の記事に触発されて書かれたものなのだが、私はこの記事(初出)の、私に関わる一部の内容について、「コメント欄」で注文をつけた。

すると、氏はそれを訂正したのだが、その訂正の仕方に、いかにも誤魔化しめいたものを感じた私は、さらにコメント欄で、そのあたりを厳しく質していったのだが、それまでは、私のコメントに被せるようにして、私におとらず多弁なレスコメントを返していた氏が、ある時からパッタリと反応しなくなった。

そして、それ以降、氏の記事の更新までもが完全に止まってしまったので、私とのやりとりで、公に意見することの「しんどさ」を理解したのだろうと察して、それからは新しい記事も書かれないことだし、氏とのやりとりは絶えてしまっていた。

ところが、それからしばらくして、私のフォロワーが一人減ったので、もしかするとと確認してみると、案の定、フォローを外していたのは、「吉成学人」氏であった。

私にしてみれば、私の記事をあれだけ(たぶん)読み、あれだけ「イイね」を押した人なのだから、私がどんな「危険人物」かくらい、私自身、隠してもいないのだから、分かってフォローしていたんじゃないのか、という気もしないではなかったが、しかし、人というのは、他人の愚行を見て「馬鹿だなあ」と(上から目線で)は嗤いはしても、そうした「ありがちな愚行に学ぶ」こともなく、自分の体で「痛い目」を見ないかぎり、えてして似たような愚行を犯すもののようである。

ともあれ、「吉成学人」氏は、私と縁を切りたがっていたようだが、だからこそ、意地悪な私は、氏へのフォローを外さず、その際に、ひさしぶりに氏のご活躍を様子を確認に行ったのだが、その時もまた、相変わらず新規の記事はなく、前記の記事「【書評】フレデリック・マルテル『ソドム バチカン教皇庁最大の秘密』/そこに愛はあるのだろうか」の、コメント欄への、新規コメントも無かった。
これはたぶん、コメントをすると、その通知が私に届いて、その結果、また私からの「見たくもないコメント」が届くことを恐れたからであろう。

そんな、前記「コメント欄」でのやりとりから約3ヶ月の今日(2023年2月16日)、ひさしぶりに、前記の「コメント欄」にコメントがあったという通知が、私のもとに届いた。

その新規コメントは、氏には珍しい短文で、

『いやー、お筆がお立ちになってよろしいですね。』
 (2023年2月16日 11:14)

という、それまでの「真摯ぶった文体」とはうって変わった、「軽薄な皮肉」であった。

そこで私は、このレス(「1スキ」は私)に対し、

『おひさしぶりです。
前に、ここにコメントしたのが、昨年の11月20日ですが、それからしばらくしてフォローが外されたみたいなので、(※ このコメント欄が)私の独演会みたいになったから、お気を悪くなさったのかなと思ってましたが、もう大丈夫でしょうか?

上にいただいたコメントですが、貴兄自身、それがご自慢だから、私を不快に思われたんでしょうね。
でも、年期が違うのだから、それは仕方ありませんよ。まだ、私の半分の歳にもなってないんだから(笑)。

「宗教二世の問題」については、その後レビューを書きましたので、是非ご参照ください。
https://note.com/nenkandokusyojin/n/nc00f46dfb364  』

と、レスしようとしたところ、

『コメントに失敗しました。』

という表示が、何度繰り返しても出た、という次第である。
一一つまり、フォローを外しただけではなく、今回は「ブロック」された、というわけだ。

「吉成学人」氏は、私を「ブロック」した上で、やっと、この「本音である皮肉」を返したというわけなのだろう。「もう、あのウザい年間読書人から、コメントを書き込まれることはない」と、そう安心して、「最後っ屁」をかましたのである。

しかしながら、「吉成学人」氏は、自身のコメントが、「ブロック」してもなお、私に通知されるとは思わなかったのかもしれない。
あくまでも、縁を切って「口封じ」をした上での「陰口」だったつもりで、上のコメントをし、3ヶ月間、腹に抱えててきたものを、この「皮肉」に込めて吐き出したのかもしれない。だとすれば、氏は、少々迂闊だったと言えるだろう。

だが、もしも「吉成学人」氏が、上の新規コメントが、私に通知されるのを承知の上で、あえて「憎まれ口」を叩いたのだとしたら、それはそれで、「ネトウヨ」並みに「見苦しい行い」だったと言えよう。

たしかに、「ブロック」をしておけば、「吉成学人」氏の方から、わざわざ私の記事を読みに来ないかぎり、今後、氏は私の文章を読まなくて済むだろう。だが、それは、不都合なものを自分の視野から遠ざけるものでしかない、現実逃避の「ダチョウの論理」である。
氏が私の文章を読まずとも、私は私で、勝手に文章を書き発表する、という現実は、このとおりに変わりはしないからだ。

そんなわけで、私はこの記事を書くことにした。
いくら「リベラル」ぶって見せたところで、また自分でもそう思い込んでいようと、「所詮、偽物は偽物」であり、「自称リベラル」には、こうした「似非リベラル」も少なくないのだという事実を、世間の人たちにも知ってもらうべく、私はこの記事を書いたのである。

私が、しばしば引用する言葉に、SF作家シオドア・スタージョンの、次のような言葉がある。

『SFの90パーセントはクズである。──ただし、あらゆるものの90パーセントはクズである』

つまり、自称「リベラル」の9割もまた、実際には「リベラル」の名に値しない『クズ』であり、「偽物」だということだ。

だから、「保守」の方や「ネトウヨ」にも言っておきたいのは、

「あなた方がリベラルを批判する場合、たしかにその批判に値するような似非リベラルも、時に存在するだろう。だが、それは、本来のリベラルでもなければ、リベラルの本質を代表する人たちでもない。彼らは、所詮、リベラルの面汚しでしかない似非リベラルであり、それは保守の方がしばしばおっしゃる『保守を名乗るネトウヨなど、決して保守思想の持ち主などではない。一緒にしてもらっては困る』というのと、まったく同じことなのですよ。お互い、獅子身中の虫の存在には、迷惑させられますね」

ということだ。

そんなわけで「似非リベラル」である「吉成学人」氏は、3ヶ月ぶりの前記のコメントをした本日、今年初の記事もアップなさっているのだが、これも、自ら「化けの皮」を剥いだに等しい、その本性の透けて見えるものになっているので、是非、ご一読願いたいと思う。

・【お知らせ】代読ダイアローグの廃業と3年ぐらいnoteをやってきたことへの感想(2023年2月16日)
https://note.com/maruyama_1946/n/ncaac3ea87a22)

この記事によると、「吉成学人」氏は、代読ダイアローグを辞めたそうで、そこには、それまで誇示されてきた「安冨歩」の名前も出てこない。

『 二〇二三年初のnote記事更新となるが、皆さま、いかがお過ごしだったであろうか。

 今回、本稿では約二年ほど行なってきた代読ダイアローグの廃業をお知らせしようと思う。記事は残すつもりだが、口座に振り込んだり、メールで依頼をしても基本、受け付けないのでご注意願いたい。

 廃業の理由は、去年から売上がなかったことで将来性が見込めなかったからである。ぶっちゃけたこと云うと、現在は金欠がいよいよ極まったので別の方法で金銭を得ることに集中したいので一区切りとして廃業を決めたのである。』

ということで、「安冨歩」氏の「褌で相撲を取ろうとする」も功を奏さず、同氏の教えとも「カネの切れ目が、縁の切れ目」ということのようである。

しかし、この記事で、「吉成学人」氏が本当に書きたかったのは、この「【お知らせ】」ではなかろう。
それは、この記事のタイミングが、前記の記事「【書評】フレデリック・マルテル『ソドム バチカン教皇庁最大の秘密』/そこに愛はあるのだろうか」のコメント欄への、私宛ての新規コメントと、機を同じくして書かれたことに明らかである。

今回の「【お知らせ】」は、次のように続いている。

『 またインターネットにおけるビジネスについて再考をする必要になったからだ。ネットは誰とでもつながれる便利なツールである一方で、頭がパーティーな人や脳内を快楽物質に支配されている人、秘密ノートにでも書いて人さまの目に触れないようにしなければならないしょうもない妄想の類で溢れている。
 ネットがそう云う人や妄想の類を可視化したとも云える。もともとおかしかったのか、ネットをやっておかしさが加速したのかはわからないが、とりあえず、noteを3年近くやってきてネットにいる人間のデフォルトはそんな感じである。

 もっとも、そう云う人間でも囲い込んで適当に承認欲求を満たしてあげれば、それなりにビジネスとなる。それで大企業となった一例がフェイスブックである。私はFBにもアカウントを持っているが、今はもう使う気がなくなっている。
 理由として、FBのアルゴリズムは利用者の興味のあるものを優先的に表示するため、基本的に偏った情報しか流れて来ない。だから、基本つまらない。いる人間も基本つまらない。それが猫や犬、グルメなどの穏当なものなら良いのだが、中には陰謀論やヘイトスピーチ、フェイクニュースのような社会に害悪を流すような投稿でも利用者の関心があれば流通してしまう。

 そんなFBの経営実態を告発した『フェイスブックの失墜』を読むと、そうしたFBのアルゴリズムが数々の社会問題を起こしたことがわかる。トランプ大統領誕生、ミャンマーでのロヒンギャ虐殺、米連邦議会襲撃事件など近年、世間を騒然とさせた事件を後押ししたのはFBだったことがわかる。アルゴリズムを悪用すれば人間を扇動できることが実証されたわけだ。』

相変わらずの、ご大層な「権威好き」ぶりだが、ともあれ、これは普通に読んで、主に私のことを言っているのであろう。

自分を言い負かした相手もまた『頭がパーティーな人や脳内を快楽物質に支配されている人、秘密ノートにでも書いて人さまの目に触れないようにしなければならないしょうもない妄想の類で溢れている』人の一種だと、そういう「子供の負け惜しみ」のような内容である。
ネットに、そんな人が多い事実に、いまさら気づいたかのごとく言う、その雑爆な神経が、私には理解不能である。

これでは、いくら「リベラル」を装ってみたところで、その「本質」を見透かされて、私に批判されたのも当然の結果だし、私の批判は、氏の本質を正しく射抜いたものであったことの、何よりの「証拠」にもなったと思う。

もう、こんなものを書いて公にしてしまっては、氏が今後、いくら美辞麗句を並べて「反省したフリ」をしたところで、誰もそんな言葉を、真に受けたりはしないだろう。
こんな氏の「仲間」であり続けることができるのは、「党派」的な発想で、頭数が欲しいだけ人だと断じても良いのではないだろうか。

「安冨歩」氏も、「吉成学人」氏が収益活動から撤退したのを知ったなら、きっと清々したはずだ。
なぜなら、これまで自分の名が、「吉成学人」氏による「権威利用の具」にされていたのは明らかだからである。

 ○ ○ ○

ともあれ、私からの「【お知らせ】」は、以上である。

この記事には、「吉成学人」氏の記事へのリンクが貼ってあるから、その通知が氏のもとに届くはずで、当然、氏はこの記事の存在を知らざるを得ない。

そして、最後まで読めるかどうかは別にして、自制心に欠ける「吉成学人」氏のことだから、この記事を覗きに来ることは間違いない。

問題は、それで氏が「どうするか」である。

「フォロー」を外しただけでは飽き足らず、私がコメントをできないように「ブロック」した上で「最後っ屁」までかました氏のことであるから、この記事を読み、この記事の「物的証拠」となっている、2本の記事、

・【書評】フレデリック・マルテル『ソドム バチカン教皇庁最大の秘密』/そこに愛はあるのだろうか(初出:2022年11月6日)
https://note.com/maruyama_1946/n/n08aaf5fc8bd0)

・【お知らせ】代読ダイアローグの廃業と3年ぐらいnoteをやってきたことへの感想(初出:2023年2月16日)
https://note.com/maruyama_1946/n/ncaac3ea87a22)

を「削除」したり、記事本文やそのコメント欄コメントを「書き換えたり」するというのは、容易に予想できる。

だが、氏の「記事とそのコメント欄」については、すでに「ログ」を取ってあることを、ここに示して「小賢しい誤魔化し」は、たいがいにしておいた方が良いと、警告しておこう。

私は、「吉成学人」氏が、

『いやー、お筆がお立ちになってよろしいですね。』

と評しておっしゃるような、単に「筆が立つ」人間などなく、何よりも「事実」を重視する点で、論争に強いだけである。

私が、評論家で作家の「笠井潔」を、ぐうの音も出ないほど批判できたのも、笠井潔がかつて、調子に乗って自ら、

『理屈なら、何とでもつけられる。』

と言ったのを見逃さず、その事実に沿って「笠井潔の理屈は、このように(三百代言的であり)信用のおけないものだ」と、当たり前に批判し続けたからに他ならないのだ。

 ○ ○ ○

そんなわけで、この記事をここまで読んでくださった方には、「また、やってるよ」と呆れるのは当然としても、ぜひ「似非リベラル」が、どういうものかを知っていただくためにも、「吉成学人」氏の関連記事と、そのコメント欄を覗いていただきたいと思う。

特に、「吉成学人」氏と同様、これまで私にコテンパンに批判された「ネトウヨ」の方には、「サヨク同士の喧嘩」という見当違いの興味からでも良いので、是非とも「吉成学人」氏の記事をチェックして欲しいと思う。

そうすれば、私が批判するのは、最終的には「政治思想」の問題ではなく、「人間性」の問題なのだということが、容易にご理解いただけるはずだ。

ちなみに、「安冨歩」氏のいう「東大話法」の特徴とは、次のとおりである。

『東大話法規則一覧

・自分の信念ではなく、自分の立場に合わせた思考を採用する。
・自分の立場の都合のよいように相手の話を解釈する。
・都合の悪いことは無視し、都合のよいことだけ返事をする。
・都合のよいことがない場合には、関係のない話をしてお茶を濁す。
・どんなにいい加減でつじつまの合わないことでも自信満々で話す。
・自分の問題を隠すために、同種の問題を持つ人を、力いっぱい批判する。
・その場で自分が立派な人だと思われることを言う。
・自分を傍観者と見なし、発言者を分類してレッテル貼りし、実体化して属性を勝手に設定し、解説する。
・「誤解を恐れずに言えば」と言って、嘘をつく。
・スケープゴートを侮蔑することで、読者・聞き手を恫喝し、迎合的な態度を取らせる。
・相手の知識が自分より低いと見たら、なりふり構わず、自信満々で難しそうな概念を持ち出す。
・自分の議論を「公平」だと無根拠に断言する。
・自分の立場に沿って、都合のよい話を集める。
・羊頭狗肉。
・わけのわからない見せかけの自己批判によって、誠実さを演出する。
・わけのわからない理屈を使って相手をケムに巻き、自分の主張を正当化する。
・ああでもない、こうでもない、と自分がいろいろ知っていることを並べて、賢いところを見せる。
・ああでもない、こうでもない、と引っ張っておいて、自分の言いたいところに突然落とす。
・全体のバランスを常に考えて発言せよ。
・「もし◯◯◯であるとしたら、お詫びします」と言って、謝罪したフリで切り抜ける。』

たしかに、「原発ムラ知識人」だった東大教授は、このような「論法」を臆面もなく駆使していたけれども、こうした「話法」を駆使する「吉成学人」氏は、東大卒ではないようだ。
「東大話法」の悪影響は、東大ひとつの止まるものではない、ということなのであろう。

(2023年2月16日)

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【補記】その後の吉成学人さん、ひさしぶりに力作を書く。(2023年4月8日)

当記事の主人公である「吉成学人(よしなりがくじん)」さんが、私についての長い記事を書いてくれました。

いかにも、この人らしい「恣意的な切り貼り」ものではありますが、これだけ長いものを書くには、それなりに時間もかかっただろうと思い、コメント投稿をしようとしたのですが、できませんでした。
ブロックされていたのを、すっかり失念してたんです(笑)。

そんなわけで、せっかくですから、そのコメントを以下に収録しておきたいと思います。
——————————————————————————

いやあ、リンクも張らずに「陰口」を書いた上に、私を「note」から排除しようと画策ですか。やることがまるっきり「ネトウヨ」ですねえ。とうとう、落ちるところまで落ちた、ってところでしょうか。

でも、そんなんじゃ、お好きな「安冨歩」も泣きますよ。
それとも、もともと、それほどお好きじゃなかったのかな?

人をまとも批判する人間と、陰口を叩いて、影でこっそり悪巧みをする人間と、どっちが「人間的に卑しい」のか、読者にわからないと思いますか? あるいは、「安冨先生なら、どう考えるだろうか?」とは、考えられなかったのでしょうか?

あなたの場合、憎しみに任せて書けば書くほど、人間的な卑しさがにじみ出てしまっていることに気づくべきですよ。でないと、お友達にも見放されることになりますよ。
誰だって、そんな人間と意気投合できる「同類」だとは、思われたくないですからね。匿名の「ネトウヨ」以外はね。

でも、わざわざ私のために、こんな労作を描いてくださったというのは、感謝に絶えません。
できれば、この労力をもっと「善用」できれば良かったんですがね。まあ、仕方ないでしょう。

ところで、貴方が発掘してくださった拙論『空虚に巣食う魔一一笠井潔と『空の境界』奈須きのこ』ですが、これのログが長らく見つからなくて諦めてたんですが、思わぬところで見つけていただいて、助かりました。近々、「note」に採録したいと思います。

それでは、まだ若い貴方の、人間的成長を期待しております。ではでは。

(2023年4月8日)====================================================

【補記2】なんと「年間読書人」を擁護する人が登場。(2023年4月9日)

昨日、ご紹介した、「吉成学人(よしなりがくじん)」さんによる、note記事「年間読書人こと田中幸一さんの過去の業績まとめ+note運営への要望」は、要は「年間読書人は、このように問題のある人物だから、noteから排除することを望むので、note運営はもとより、私の意見に賛同くださる方は、どうかお力添えを」という内容の文章だった。
ところが、これに対し、「年間読書人をあえて擁護する」という趣旨の、note記事を書いてくれた人がいる。

それが、下にご紹介する「ヤマダヒフミ」さんによるnote記事「年間読書人さんを勝手に擁護する」だ。

面白いのは、この記事の中でも触れられているとおり、この「ヤマダヒフミ」さん自身、私に批判された人だという事実だ。
それなのに、わざわざ私を擁護してくれてのだから、誠に奇特な方であり、私に批判されたことを根に持ち、それでいて、私に直接反論することはしないのに、私に気づかれないように、こっそりと私の「排除運動」を始めた、実にわかりやすい「吉成学人(よしなりがくじん)」とは、好対照だと言えるだろう。

どちらのご意見も、私自身としてはぜんぜん物足りないのだけれど、ただ、「吉成学人(よしなりがくじん)」さんによる「年間読書人こと田中幸一さんの過去の業績まとめ+note運営への要望」に方に、この際、ちょっと注文をつけさせていただくと、「私の過去の業績は、あんなもんじゃない」ということである。

それは、この「note」を始めたから2年程の間での「幅広く膨大な業績」からもご理解いただけると思うが、私がやったこと、書いたものは、あんな短文で「まとめ」られるようなものでは到底ない、という事実である。

無論、「吉成学人(よしなりがくじん)」さんは、いつものとおり、他人の意見を「切り貼り」することで文章を作る人で、ご自身の本心はその背後にしかないから、私に関する「肯定的な業績」の多くを無視なさるのは、むしろ当然のことなのだろうが、しかしそれにしても、良きにつけ悪しきにつけ「私の業績」は、「かつて」も「今」も、あんな「グラフ」でもっているような「短文」で、書けるような「分量」のものではない、というのは、否定しがたい事実であろう。

まあ、それにしても、私の場合、とにかく人気者であろうと流行作家であろうと、おかまいなしに批判するし、無論、宗教批判やネトウヨ批判をやっているから、私の「悪口」や「陰口」というのは、従来より決して少なくはない。
なにしろ、私と「論争」して、痛い目にあった人も山ほどいるから、どうしても「批判・反論」ではなく「悪口・陰口」の類いになってしまうのだろうが、一一それにしても、私が「擁護」されたのは、たぶん空前絶後のことであろう。

厳密に言えば、笠井潔法月綸太郎巽昌章の3人が選考委員を務めていた「第3回 創元推理評論賞」に、私が「笠井潔批判」を投じて落選した際、笠井潔はそれを黙殺。法月綸太郎は、からかうような論評をしたが、巽昌章は、私のスタンスの意義を認めた上で、足りない部分について指摘した、ということがあった。
3人の選考委員の一人を徹底批判した投稿論文に対して、巽があのように書いてくれたのは、一種の「擁護」だったと、私は理解している。「人間関係」から言えば、巽だって、私の論文を無視した方が、楽だったに決まっているからだ。

ともあれ、公然と私を「擁護」した文章というのは、今回の「ヤマダヒフミ」さんのそれが空前絶後のものだろう。
なぜかと言えば、私は「ネトウヨ」の「運営」への集団御注進で「mixi」から排除になったり、「Amazon」のカスタマーレビューでは、自ら「運営」に噛みついて「レビューの全削除と投稿停止処分」を受けたりはしたが、直接の議論や論争で負けたことはないのだから、「中身の問題」で言えば、私を「擁護する」必要など、誰も認めなかっただろうからだ。個人的な友人知人でも、わざわざ、私を擁護したものなど、一人もいなかったのである。

したがって、私を擁護した「ヤマダヒフミ」さんの記事は、その内容の如何にかかわらず、「空前絶後」という意味では、とても価値のあるものだと思う。どんなネタを扱おうと、「空前絶後」のものなど、そうそう書けるものではない。

私自身、いつでも「人には書けないことを書こう」と心がけているが、結果としてユニークな視点やアイデアで書けたとしても、それでも「たぶん、私の知らないところで、すでに誰かが似たようなことを書いているんだろうなあ」という疑念は払拭できないでいる。

だが、今回の「ヤマダヒフミ」さんの記事は、ニッチなものとは言え、やはり「空前絶後」と呼んでいいほど、珍しいものなのだという評価は、決して間違ってはいないと、そう考えるのである。

(2023年4月9日)====================================================

 ○ ○ ○


 ○ ○ ○ (ネトウヨ関連)




 ○ ○ ○


























 ○ ○ ○ (笠井潔関連)


 ○ ○ ○ (Amazon関連)