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年間読書人さんを勝手に擁護する

年間読書人さんに対する批判をnoteで見ました。

私も年間読書人さんに批判された身なので、恨み骨髄に徹して、年間読書人さんを批判する側に加わってもいいのでしょうが、ここではあえて年間読書人さんを擁護しようと思います。

年間読書人とはnoteで知り合って、最初は友好的なやり取りをしていましたが、ある時に急に批判対象になりました。ドストエフスキー研究者の萩原俊治氏の評価を巡って「ヤマダヒフミは萩原俊治氏に忖度している」という批判でした。

この件に関しては、この文章では深掘りするつもりはないのですが、私は自分の評価には自分の哲学があるので、年間読書人さんの批判でそれが揺らぐ事はありません。また、変な言い方ですが、年間読書人さんのような批判もあっていいと思います。

それで、そういう私が何故、年間読書人さんを擁護するのでしょうか。年間読書人さんは喧嘩っ早い性質だし、本音では、私とも喧嘩したかったのではないかと私は思っています。(かかってこいよ)という感じで待っていたのではないかと思っています。

まあ、それは各人の性質の違いであり、様々な性質があっていいと思います。それらの事は批判したり肯定したり、色々できるでしょう。

私の立場から年間読書人さんを批判する事も可能でしょうし、批判をすれば、年間読書人さんを恨んでいる人達は(そら見た事か)と、私の言説を嬉しがるだろうというのも想像されます。

ただ、私が一点だけ言いたいのは、「年間読書人さんは文学というものをわかっている」という事です。

私が言いたいのはこの一点だけで、その他の年間読書人さんの性質や言説に関しては批判・肯定それぞれあっていいのだと思います。ただ年間読書人さんが「文学がわかっている」というのは重要なポイントであると思います。

具体的には、現在の功利主義や唯物論などに当てはめて、文学を自分たちの論理に当てはめる事を年間読書人さんはしていない、という事です。年間読書人さんは長い読書を通じて文学とはいかなるものかを体得したのでしょう。

これに関しては、私が年間読書人さんを嫌いであるとか、好きであるとか、仲間であるとか、敵であるとかいった事を越えて、確かにあるものだと私は感じています。それ故に、今や敵同士となった関係でも、その一点は年間読書人さんを信頼できる、と私は言えます。

私が年間読書人さんを擁護するのは、その一点です。この一点を、自分の努力で得た人というのは極めて稀少だというのも、ある程度本を読んで、自分の頭で考えられる人にはわかる事だと思います。

今の世の中にはあまりにも偽物が溢れているわけですが、年間読書人さんは少なくとも自分の努力で得た大切なものを握っていると私は思います。

それを敵か味方か、という党派的な理念でなかった事にするのは私はできないと考えています。私はその一点は、年間読書人さんの中には揺らがないものがあると感じています。



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