私は空港職員をしている。年齢は56才だ。 私が空港職員を志すきっかけになったのは、二十代の頃、当時付き合っていた彼と一緒に行った海外旅行だった。もっとも、私の旅行は、旅立ちの空港でほとんど終わっていたと言った方がいいだろう。 私達は空港に行った。私は空港で、夕日を見た。大きな通路を歩いている時、滑走路の向こうで輝く夕日を見た。つまらない事に思われるかもしれないが、私はその風景にひどく感動した。彼は、じっと夕日を見つめている私に「何してるんだ、急がないと」と言った。私
テレビでは健康食品のコマーシャルがよく流れている。七十代でもまだ元気、八十代でもまだ元気。いつまでも元気でいられるような、体に良い健康食品がやたら宣伝されている。 先日、テレビを見ていたら老後にはいくらぐらい金が必要かというのを、専門家が教えていた。この専門家というのは金融のプロだそうだ。 あるいは、医者は、人間の身体を良くするようなアドバイスをくれたり、薬をくれたり、そういう施術をしたりしてくれる。 更に例を出すなら、最近では「終活」なんていうのも言われ
自分が昔に書いた文章を読み返していたら、文章の最後でスティーヴ・ジョブズの言葉が引用されていた。今の自分なら絶対にやらない事だ。 現時点での私はスティーヴ・ジョブズとかイチローとか、誰でもいいが現代のヒーローやスターにほとんど興味を持っていない。大谷翔平なんかも野球の歴史には残っても、真の意味で歴史に残る事はないだろう、と見ている。 そんな風にして、自分自身の考え方も変わってきている。私自身は成長していると自負しているが、現代の大衆的感性に近いのは昔の自分なので
チャップリンの自伝にこういう話が載っているようだ。まだチャップリンが子供の頃だ。 食肉加工工場から一匹の羊が逃げ出した。逃げ出した羊は街路で暴れまわり、羊を捕まえようとした人が派手に転んだりしたと言う。 それを見てまわりの人々は笑い、チャップリンも笑った。ただ、チャップリンはその時にふと気づく。 「羊が跳ね回って、人が転んだりする様子を外から見ていると可笑しいし、笑える喜劇だ。しかし羊の立場に立ってみるなら、羊は、捕まれば殺されて食肉にされるから、羊にとっ
以前から感じていたし、私以外も指摘している事だが、どうしてこの社会は「若者」を異常に尊重するのだろうか。 テレビニュースでは「渋谷の若者に聞いてみる」という映像を当たり前のように流している。渋谷の若者に聞いたから何なのだ、とこっちは思うが、「渋谷の若者」は特別らしい。 若者の異常な尊重というのは、若者の方でも気づいていて、恐ろしく無知で愚かな若者が自信満々だったりする。彼らは自分達でも、自分達の優越性に気づいている。 若者の中でも特に尊重されているのは綺麗
もし「痛み」という哲学があったら、と考えてみよう。 「痛い」という哲学が存在する。「痛み」とは何か。それについて色々な議論が可能だが、それを理解するのにもっとも簡単な方法は、誰かに腕をペンでつついてもらう事だろう。 「いてっ」 彼はそう言って、「痛み」を理解するだろう。「痛み」とは何かがわかるだろう。私は、『わかる』とはそういう、随分わかりやすい事ではないかと思っている。 別の例では、ヘレン・ケラーがはじめて「water/水」を理解した場合が思い浮かぶ。
小林秀雄は「美しい花がある。花の美しさというようなものはない。」と言った。小難しい事を言っているようだが、よく考えれば普通の事だ。 小林秀雄が言いたかったのは、「花の美しさ」というような抽象的な「美」はないという事だ。しかし、美しい花はある。具体的な「花」という存在を越えて美があるわけではない。美はあくまでも具体的な花の中に見いだせるものだ。 先日、「マインド・イズ・フラット」という脳科学の本を読んでいたら面白い事が書いてあった。あるチェスの名人がいて、彼は何百
振り返って 夫の名前は藤沢周平と言います。「僕の名前は有名な歴史小説作家と同じなんだよ」と夫はよく笑って言いました。私は藤沢周平という人を知らず、いつも曖昧に笑ってごまかしてしまいます。 夫と結婚して、十一年が経ちます。思えば長い年月ですが、私にはごく短い期間に感じられます。 夫と私は、三浦海岸の裏の一軒家に住んでいます。がらんとした一軒家で、建物が古い為にごく安く買う事ができました。なんでも築50年だそうです。「地震が来たらぺちゃんこだね」 夫はそんな、
出版社は「今こそ文学を」とか「言葉の力」などと宣伝する。しかし、その反対に文学の力は弱まっている。もう文学に興味のある人間はほとんどいない。 文学を政治にたどり着く為のステップに使ったり、文学を「作家」という職業になる為の手段とする。あるいは違う分野で成功できなかったり、中途半端な立ち位置の人間が、出版社から勧められて、小説を書き、それを「文学」と称する。そんな事ばかりが行われている。 先日、読んだ芥川賞作家へのインタビューでは、インタビュアーが、今流行りの「AI
僕は君が嫌いだ。 とはいえ、僕は君と海岸に来ている。…まあ、いいだろう。 さて、僕は石を拾う。君は何をする? …君はいつも"目的"を探している。休日にはどこかへ行きたがる。いつも何かをしたがっている。何か意味のある事を。 散歩一つするにも、"ダイエットの為"とか、目的意識を持ちたがる。 まるで君は形作られた世界の一部であるかのようだ。世界はその全てが目的化されているから。 多分、この地獄はヘーゲルの歴史哲学、こいつから始まった。ヘーゲルが歴史を等質な空間とみなし
自然はそれ自体として成立している。国家に何兆円借金があろうとなかろうと、自然はそれ自体として進んでいく。 本来的には人間は自然の一部だったが、今やそれを忘れてしまったようだ。自然は美しいものだが、同時に僕らを脅かすものでもある。 しかし、自然というものはーー例えば、初雪を愛でるというような、昔の人間の感性に現れたものと、彼らを死に追いやった自然の峻厳性…例えば「病気」のようなものは、果たして同じ「自然」に属したのだろうか。 だが、こうして書いていて、私はあ
芸術家というのは「他者」を通じて鑑賞者と心を通わせるものである。芸術家は直接、自己を対象に注ぎ込んだりしない。 仮に、そんな風に見えても、つまり芸術家が「自己」を語る場合においても、その自己とは芸術家によって十分練られ、作り込まれた、"仮面"でなければならない。そうでなければそれは芸術作品とならない。芸術とは間接的なものなのだ。 バンド「うみのて」の「SAYONARA BABY BLUE」という楽曲は終始、一人の女性に目を注いでいる。作詞作曲者は笹口騒音という男
松本人志への「逆告発」が増大しているというネットニュースを見ました。「逆告発」というのは、芸人の松本人志が、性的なスキャンダルを告発された事に対する「逆」のようです。 「逆告発」はどういう内容かと言うと、「私は松本人志の笑いに救われました」といったもののようです。松本人志に対する肯定のようです。 おさらいしておくと、そもそも松本人志に対する「告発」というのは、松本に性的行為を迫られた事についての、女性側の告発です。これは週刊誌に載りました。「逆告発」というのは、
最近、ビンチョル・ハンという哲学者の本を読んでいます。非常に面白いです。 ビンチョル・ハンに「情報支配社会」という本があります。「情報」が支配している現在の社会のディストピアっぷりについて書いた本ですが、色々と勉強になりました。 「情報支配社会」の中に書いてある内の一つとして「事実はどうでもいい」という事があります。もはや、事実はどうでもいい、嘘か事実かという区別がなくなっている、そういうネット社会の本質を指摘していました。 今さっき、ユーチューバーのヒカ
先日、サッカーのアジアカップがテレビでやっていた。以前は私もサッカー日本代表が勝ったか負けたかで熱狂していたが、今の自分からすると他人事にしか感じなかった。 例えば、サッカー日本代表の監督の采配が悪くて(そう感じられて)、チームが敗北すると、ファンは怒り狂う。まるで、自分自身が敗北したのは、誰か他の人のせいであるかのように。以前は私も同じように憤っていたし、今だって、その気になれば憤る事ができる。 しかし考えてもみて欲しいが、どうして「他人」が行うゲームにこんな
以前から気持ち悪いなと思っていた風潮の一つが、殺人事件などが起こると、テレビニュースで、アナウンサーが必ずように犯人の「心の闇」に言及する、という事だ。 これはテレビが、殺人犯の「心の闇」を追う、などして、どうして彼が殺人事件に至ったのかを分析する際によく使われる。もっとも、あくまでテレビなので、犯人の「心の闇」に真摯に迫るというよりは、見ている人間が適当に納得できる程度に取材した、というものが大抵だ。 私はこの、犯人に「心の闇」を見るという仕掛けが以前から気持