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非・日本人的な〈議論〉の実践: Amazon「6月問題」をめぐって

「日本人は、議論が苦手」だと言う。どういうことだろうか?

日本人が、諸外国人に比べて「非論理的」だということはない。どこの国の人だろうと、論理的な人もいれば、そうではない人もいる。国籍や人種で、論理性の有無が決まっている、などということはない。

ただし、文化的に固有の傾向性というのはあるだろう。つまり、「論理的」であることが「歓迎されるか、されないか(好まれるか、好まれないか)」というのは、文化によって、多少の違いはあるように思う。

そして、「日本人は、議論が苦手」という場合は、日本では「論理的」なことが、あまり「歓迎されない(好まれない)」ということなのではないか。「理屈っぽい」というのは、褒め言葉にはならない。だから、結果的として「論理性」が育まれにくい。
つまり、素質という側面において、「論理的」だとされる欧米人に比較して「日本人が劣る」ということはないのだけれど、「論理性」を育む環境が少ないということならば、あるのではないか。これは、いかにもありそうなことのように思える。

「議論」というものは、基本的には「論理」においてなされるべきものだが、そうしたものを可能とするには、まず、いかなる論者であろうとも「対等・平等」でなければならない。

どんな大金持ちであろうと貧乏人であろうと、あるいは年長者であろうが若輩者であろうが、こと「議論」となれば、そうした「社会的地位」は完全に捨象して、純粋に「論理的正当性」だけを武器として「議論」しなければならないし、そうでなければ、それは「議論」の名に値しないだろう。

だから、「議論」となれば、貧乏人が大金持ちを打ち負かし、若輩者が年長者をやっつけてしまうことも当然ある。
要は、そういう「論理」における「社会的な下克上」を、日本の文化は、西欧の文化と比べて、あまり「歓迎しない」のではないだろうか。

つまり、大金持ちは、いつでも貧乏人より威張っていたいし、年長者はいつでも、若輩者に対して威張っていたい。そうした「社会的関係性」が捨象されるような「抽象空間」を認めたくない。そんな傾向があるのではないだろうか。
また、だとすれば、それはどうしてなのだろう?

ここでひとつの、わりあい常識的な「仮説」を提示しておきたい。それは「神の前の平等」である。

西欧の思想的基盤になっている「キリスト教」信仰においては、世界の創造者であり絶対者である「神」の前においては、被造物である「人間」は平等である。
被造物である「他の動物」との関係では、「神」が「人間」に「管理者」特権を与えたことになっているから平等ではないけれど、「人間」の中では、完全に平等だ。そこに「僧侶(神父・牧師)」であろうと「平信徒」であろうと、「神の前では平等」であり、役割分担はあっても、それは「優劣強弱的な階級」を意味してはいない。「僧侶」はあくまでも「神の僕」として、人々のために尽くす使命を、より多く与えられているだけで、個人として偉いわけではないのである。

もちろん、現実はいろいろある。「僧侶」が特権階級として、政治権力をほしいままにしたこともあったし、洗礼を受けていない非キリスト教徒は「同じ人間ではない」と考えられていたこともある。
しかしながら、そういう細かい部分は別にして、やはり「神(造物主)」と「人間(被造物)」の間には絶対的な差別があって、その「神」を絶対視する観点からすれば、「人間」は基本的に「皆、神の僕として平等」なのである。

それに比べた場合、日本人はどうだろうか。

日本の場合は、「カミ」につながる人間というのは、最初から基本的に「特別な存在」であり、その意味では「特権階級」として優遇されることが多く、権力者になることも多かったのではないか。
それは、彼や彼女が、背後に「カミ」の威光を背負う立場だからで、彼や彼女を蔑ろにすると「カミ」が祟るかもしれないと怖れられたからではないか。だからこそ「卑弥呼」は「鬼道」をなすシャーマンであり、政治権力者でもあったのではないか。

同じ意味で「天皇」が特別なのは「神の血筋をひく者」だったからで、日本においては、「宗教」は常に「政治権力」を補強する道具として、それと結びついてきた。だから「神の前の平等」は無い。
「神」の権威を取り込んだ者が、政治的にも、宗教的にも、「神に近い者」としての絶対的立場を確保してしまうのである。一一このあたりが、キリスト教世界とは、違っているのではないだろうか。

無論、これはひとつの「仮説」であって、これがすべてだなどと言うつもりはないが、こういう要素もあるかもしれない、という程度の話として聞いてもらえば十分である。

つまり、私にとっては、「理由」や「経緯」はどうあれ、日本人は「議論が嫌い」であり、「論理の抽象性」つまり「社会的な強弱関係を無化するもの」としての「抽象空間」が、嫌いなのではないか、と感じられる。

権力者はどこまでも権力者であって、庶民と平等になることはない。家父長は、長男は、男は、それ以外より「問答無用」で「偉い」のである。そして、これからもそういうものだと思いたいし、そうしたことにしておきたいのだ。

だが、グローバル化が進んで、世界が繋がって以降、そういう「日本的」あるいは「儒教的」な特殊事情が、自明視しにくくなった。
これまでは「社会的地位」さえ高ければ、理屈もヘッタクレもなく、強い立場の者の言いたい放題だったのだが、だんだんとそうはいかなくなってきたのだが、「封建的遺制」の名残として「日本人の、嫌・論理性」が今も残っているのではないだろうか。

そして、私としては「もう、そんな甘ったれは許されないよ」と言いたいのである。

社会的な権力は「公正」に執行されなければならない。つまり「説明責任」がある。もう「問答無用」は許されないのだ。

そしてそれは、「政治権力者」に限った話ではない。
社会的地位が高かろうが低かろうが、年寄りだろうが子供だろうが、男だろうが女だろうが、その属性にかかわりなく、基本的には、自身の主張の「正義」や「正当性」を、「言葉」によって「論理的」に説明しなくてはならない。それをしないで「権利」が守られるなんて考えるのは「甘え」である。

無論、それが「能力的」に不可能な人は、特別に保護されなければならない(これも論理的に裏付けられている)のだけれど、「健常な大人」であれば、きちんと「論理的」に説明し、主張しなければならない。つまり、その「義務」があるのだ。
それはもう「好き嫌い」の問題ではないし、「文化の違い」では済まされない。「差別的な文化」は、論理的に容認され得ないのである。

 ○ ○ ○

というわけで、日本人も馬鹿ではないのだから「議論」ができるようにならなければならない。「好き嫌い」では済まされない。これは「社会的な義務」だと言ってもいい。
自分の行いの正当性は、自分で説明できなければならないのだ。茨木のり子ではないが「自分の主張の正当性くらい 自分で説明しろ ばかものよ」ということである。

で、私は「地位も名誉も名もない人間」だから、余計に「議論」ができなければならない。それができなければ、自分の「当然の権利」を守ることができない。無論、他人が守ってくれることを期待するのは、大人のすることではない。
よって、相手が誰であろうと「議論」という「論理のアリーナ」において、対等に戦わなければならないと考えている。

しかし、「議論」というのは、勝つこともあれば負けることもあるし、そもそも決着がつかないことも多い。だが、だから「無駄」だと言って避けるわけにはいかない。
論理で戦わなければ、「社会的な力関係」を無条件に受け入れるしかなくなってしまう。要は、戦わずして、負けを受け入れることになってしまうのだから、そういうわけにはいかない。少なくとも「甘ったれの負け犬」でないのであれば、「自立した誇りある人間」なのであれば、「議論」を避けるわけにはいかないのだ。

つまり、それは「生きるための戦い」であって、「趣味」でも「娯楽」でもない。だから「好き嫌い」で「やってもいいし、やらなくてもいい」というようなものではない。それは是非とも「やらなくてはならない」ものであり、それを避ければ「一人前の人間」ではない、という評価を甘受しなくてはならないのである。

そして、それが「戦い」であれば、「楽しい」ばかりで済まされないのは当然だ。いや、むしろ苦しいことの方が多いかもしれない。
しかし、「議論」の場としての「論理のアリーナ」は、お互いに「平等」であることを認め合う場でもある。「社会的地位」や何やかやといった「社会的属性」に縛られることなく、お互いが「裸の個人」としてぶつかり合える場所なのだ。

だからこそ、その場では「儀礼的な手加減」などあってはならない。「馴れ合い」や「予定調和」が期待されてはならない。
そこでは、お互いが死力を尽くして、自己の立場や意見の「論理的な正当性」を語らなければならない。それが「議論」であるし、その結果、仮に勝敗的な決着がついたとしても、その結果については、お互いが尊重をし合わなければならない。それは「スポーツマン・シップ」と、完全に同質なものと言っていいだろう。
全力で戦ったならば「勝って奢らず、負けても悔いぬ」そして「フェアに戦った相手への尊敬の念」を忘れない。「議論」とは、そういうものでなければならない。少なくとも、そういうものを目指してなされなければならないのである。そういう「理想」の実現が容易ではないとしても、「議論」は「趣味的選択」の対象ではないからこそ、なお一層、そうなのである。

 ○ ○ ○

さて、そんなわけで、最近、私自身が行なった「徹底した議論」をご紹介したい。

私の電子掲示板「アレクセイの花園」上で交わされた、かつて『米国西海岸系IT企業』で勤務なさっていた元システムエンジニアの「Solaris1」氏との対話であり、議論である。

議論のテーマは、本年6月初旬に「Amazonカスタマーレビュー(サービス)」で見られた、「役に立った(参考になった)」レスポンス数の「減少」現象(※ 仮に「6月問題」と名付けた)についてである。

「Amazonカスタマーレビュー」では、私たち一般利用者が、Amazon上で販売されている各種商品のレビューを書いて投稿することができ、それがAmazon上で、商品に関する「参考情報」として紹介される。
こうしてサイト上に掲載された「カスタマーレビュー」に対して、これが商品情報として役に立つものだと思った閲覧者は、そのレビューに対して「役に立った」レスポンスを送ることができ、それがレビューやレビュアーの価値評価や信頼性評価として表示されるのだ。

この「役に立った」数(あるいは「参考になった」数)は、基本的には「一般利用者の声」の反映であり、建前として、管理者であるAmazonの「恣意」は働かないものと理解されている。つまり、Amazonが、商品をたくさん売って儲けるために、商品に高い評価を与えているレビューに対して、より多くの「役に立った」を付けるなどという「インチキ」はしない、という「建前」になっている。言い換えれば、「肯定的評価」も「否定的評価」も、管理者であるAmazonは「公平」に扱って、その「評価」には介入しない、ということになっているのである。

そして、現在の「Amazonカスタマーレビュー」では、一般閲覧者が「役に立った」レスポンスを送ることは出来ても、「役に立たなかった」レスポンス(マイナスレスポンス)を送るための仕組みはない。「役に立たなかった」と評価した場合は無視してほしいという仕様になっているのだ。

したがって、普通に考えれば「役に立った」数が「減少する」ことはない。少なくとも、一般閲覧者(利用者)には、それは不可能である。
となれば、「役に立った」数を減らしたのは、管理者である「Amazon」以外には考えられない。

それが、故意による意図的なものなのか、あるいはシステムトラブルや外部からのハッキングなどによる動作異常なのか、Amazonからは何の説明もないので「真相」はわからないが、少なくとも「レビューの評価に、管理者は介入しない」という「建前」からすれば、前者は考えられないので、自ずと後者の「システムトラブルや外部からのハッキングなどによる動作異常」が疑われた。
そこで、私は、この異常事態について、「Amazonカスタマーサービス」へ問い合わせを行ったところ、思いもかけないメールでの回答が返ってきた。
それは、次のようなものだった。

発信者: Amazon.co.jp Customer Service(cs-reply@amazon.co.jp)
発信時間:2021/06/04/09/03
件名:  Amazonコミュニティへのお問い合わせ
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Amazon.co.jpにお問い合わせいただき、ありがとうございます。
このたびは、カスタマーレビューの投票数について、ご指摘いただきありがとうございます。

ご指摘いただいたカスタマーレビューにつきましては、当サイトの各種規約、ガイドラインに沿って適切に対応させていただきます。

当サイトでは、カスタマーレビューについてより正確な投票数をカウントするため、投票の傾向をシステムによって監視しています。

特定のお客様が投稿したレビュー、または特定の商品に関するレビューに対して集中的に投票が行われているなど、不適切な投票が発見された場合は自動的に投票が削除されます。そのため、投票数は増減する場合があります。

今回ご指摘のレビューの投票について有効な投票と判断されなかった場合には、今後自動的に調整されるかと存じますので、しばらくお待ちのうえ様子を見ていただきますようお願いいたします。なお、無効な投票と判断されなかった場合には、現在の票数が継続されますのでご了承ください。

またフォロワーに関するご指摘の点について、どのような状態か特定できませんでした。お手数ですが、詳細及び該当画面のスクリーンショット等をお知らせくださいますようお願いいたします。

Amazon.co.jpにお問い合わせいただき、ありがとうございました

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Amazon.co.jp カスタマーサービス

Amazon.co.jp は、お客様からのご意見により、地球上で最もお客様を大切にする会社を目指しています。
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なんと、Amazonは『カスタマーレビューについてより正確な投票数をカウントするため、投票の傾向をシステムによって監視し』『不適切な投票が発見された場合は自動的に投票が削除』されている、と言うのだ。

なるほど『カスタマーレビューにつきましては、当サイトの各種規約、ガイドラインに沿って適切に対応』していると言うのだから、その管理者が「役に立った」数をいじる権利は、かなり手前味噌ではあるものの、明文化されて保障されているのであろう。

しかし、その権利をAmazonが有していたとしても、それが『適切』になされているという「保証」は、どこで担保されていると言うのだろうか。
もし、そうした「システム的回収作業の正当性の担保」が、利用者に確認できるかたちで保障されていないのだとしたら、実質的にはそれは、管理者であるAmazonの「やりたい放題」であり、そうではないという「説明」さえしない(アカウンタビリティを果たさない)のであれば、まさに「やりたい放題、言いたい放題」であって、これはカスタマーとの「公正な契約関係」とは言い難いものなのではないだろうか。

しかし、このメールでの、Amazonの態度は、まさに「一方的な権力者=暴君」のそれであり、「問答無用」そのものであったと言えるだろう。

『今回ご指摘のレビューの投票について有効な投票と判断されなかった場合には、今後自動的に調整されるかと存じますので、しばらくお待ちのうえ様子を見ていただきますようお願いいたします。なお、無効な投票と判断されなかった場合には、現在の票数が継続されますのでご了承ください。』

要は、『調整』の内容は説明しない(その義務はない)が、とにかくAmazonが管理者として『適切』にやっていることだから、黙って「結果をそのまま受け入れろ」ということである。それで、私は激怒した。

いくらなんでも、この「物言い」は、カスタマーを馬鹿にしている。
カスタマーレビュアーは「無料でレビュー」を提供し、Amazonはそれを無料で「掲載紹介」する。これが、カスタマーレビュアーとAmazonとの、対等な(ギブアンドテイクな)契約関係の基本である。
もちろん、現実には、世界企業と名もなき一人の利用者であり、その社会的力関係は歴然としているのだけれども、少なくとも「契約」関係においては「対等でなければならない」はずなのだが、Amazonはそれを、手前味噌な(公正さを欠く)『各種規約、ガイドライン』によって、一方的に独占しているのである。果たして、これが「巨大独占企業の傲慢」でなくてなんであろう。

そこで、私は、Amazonカスタマレビューの「プロフィール」欄に、字数制限の範囲中で、この事情を短く紹介したり、ここ「note」に次のような紹介記事を書いたりした。「一寸の虫にも五分の魂」である。

Amazonカスタマーレビューにはご注意を。(2021/06/09 18:06)
 (https://note.com/nenkandokusyojin/n/n1e6a9197d9d6

そもそも、私が「note」を始めることにしたのは、こんなAmazonとは、この先、あまり長くつき合えないだろうと思ったからだ。

それは、私が愛想をつかして出て行くということではなく、私が、これまで以上に、こんなAmazonを批判し攻撃するだろうから、これまで以上に、アマゾンからの「報復」を受け、いずれは「ミクシイ」や「Twitter」のように「利用停止」措置にされるだろうと考えたからである。
「利用停止」になってからバタバタするのも面倒なので、その前に「note」へログを移し、レビューの新たなメインの公開場所としようと考えたのである。
(なお、前記のプロフィール文は、すでにAmazonによって削除されており、今は暗示的なものに書き換えてある)

 ○ ○ ○

そして、そうこうしているうちに、私の電子掲示板「アレクセイの花園」の方へ、前記の、かつて『米国西海岸系IT企業』で勤務なさっていた、元システムエンジニアの「Solaris1」氏からの書き込みがあった。

今回のアマゾンカスタマーレビューにおける「6月問題」について、Amazonで勤務したことはないけれど、昔『米国西海岸系IT企業』で勤務していた元システムエンジニアとして、思うところがあるので、話を聞いてくれないか、という趣旨のアポイントメントだった。

そこで私は、誰の意見でもありがたく拝聴しようと、「Solaris1」氏のご意見を「アレクセイの花園」上に書いていただき、そのご見解に対し、私の意見や感想を返すというかたちで、「意見交換」としての「議論」が始まった。

しかし、この議論は、最初にも断ったとおり「議論にあっては、馴れ合いや予定調和を排して、徹底的に思うところを語り、意見を戦わす」という私のスタンスにおいてなされるものとなった。
つまり「おかしなものはおかしい。なぜ、あなたは、そんなおかしなことを言うのか」と、相手の立場にまで踏み込む、仮借のない「議論」として戦わされたものだったのである。

そんなわけで、「こんな議論は、よそではなかなか読めるものではない」と、そう保証したい。

双方、死力を尽くした「食うか食われるか」の議論になったから、その中では、お互いに「勘違い」や「誤認」などのミスもいくつかあったし、双方が納得できるような、「6月問題」についての「結論」が、必ずしも出せたわけではない。

しかし、「6月問題」を語り合う中で、「もっと大切なもの」が明らかになっていったのではないかと私は思うし、むしろ「議論」の醍醐味とは、そこにこそあるのではないかと、私は考える。

つまり「会社での会議」のように「テーマに関する、より良い結論」を目的としてなされる「議論」と、私が価値を見出す「議論」とは、その本質において、大きく違っているのである。

その「違い」とは何か言えば、私の求める「議論」とは、「結論」ではなく「過程の中で明らかになる本質的問題の露出」ということである。言い換えれば、私の議論は「哲学的」であり「文学的」なのだ。

「こうすれば良い」とか「ああすれば良い」といった、実用的だが「お手軽な結論」を求めるのではなく、「事象を探求的に突き詰めて行くこと」こそが大事であり、「その過程で見えてくること」の方が大切だ、という立場なのである。

だからこそ「適当なところで手打ちにする」とか「妥協し、折れ合うことで、無難に結論を出す」ということはしない。そんな、お手軽な結論など、まったくお呼びではない。必要なのは、「納得」できないなら「納得」したふりなどせずに、納得を目指して、どこまでも追求して行くという徹底的な態度で、私はそれを「議論」と呼んでいるのである。

下にご紹介した、私と「Solaris1」氏との「議論」は、そのような「議論」である。
白刃が閃いて血しぶきが飛び交うような「議論」だと言っても良いだろう。だから、めったに読めるようなものではない。

原文は、それなりの「文章量」なので、ここでは「アレクセイの花園」上の、それぞれの書き込みへのリンクを張ることで紹介しておきたいと思う。

重くても、しんどくても「血しぶきが飛び交うような議論」が読みたいという奇特な方に、ぜひオススメしたい。

※ 下の【Solaris1さんとの、やりとり一覧】は、リンク先の「サービス停止
によりリンク切れ」となっておりました。

過日、コメント欄でご指摘をいただき、初めて気づきましたので、遅ればせながら、掲示板ログを元に、次のページを作成しましたので、こちらをご覧いただいた上で、【Solaris1さんとの、やりとり一覧】の後の、末尾の一文までご確認いただければ幸いです。(2024.4.23)

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    【Solaris1さんとの、やりとり一覧】


(01 =Sー1)「Amazonレビュー投稿削除の件」       (Solaris1:2021年 6月19日(土)18時42分42秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3091

(02 =Sー2)「無題」(Solaris1:2021年 6月21日(月)00時35分7秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3093

(03 =Aー1)「お返事が遅れてしまい、申し訳ありません。(追加分あり)」
       (園主:2021年 6月22日(火)02時14分46秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3094

(04 =Sー3)「Amazonレビュー末尾表示の件」
       (Solaris1:2021年 6月23日(水)00時48分51秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3095

(05 =Aー2)「「コンテキストの違い」は、現実には「力関係としての立場
       に依存する。」
       (園主:2021年 6月25日(金)10時06分58秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3096

(06 =Sー4)「無題」(Solaris1:2021年 6月28日(月)01時51分44秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3097

(07 =Aー3)「運命の賭け」(園主:2021年 6月28日(月)17時52分31秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3098

(08 =Sー5)「無題」(Solaris1:2021年 6月29日(火)22時55分57秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3099

(09 =Aー4)「理系と文系の判断能力の差?」
       (園主:2021年 6月30日(水)23時30分27秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3100

(10 =Sー6)「無題」(Solaris1:2021年 7月 1日(木)20時07分41秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3101

 (※ Amazonからの「警告メール」)


(11 =Aー5)「恣意的な「情報の限定」は、何を意味するか?」
       (園主:2021年 7月 2日(金)08時35分55秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3102

(12 =Aー6)「ユダの〈駆け込み訴え〉」
       (園主:2021年 7月 2日(金)15時40分1秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3103

(13 =Sー7)「無題」(Solaris1:2021年 7月 2日(金)21時03分0秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3104

(14 =Aー7)「Solaris1さんは、「システムエンジニア」ではなく「コールセンタ
       ーのマネージャー」でした。」
       (園主:2021年 7月 3日(土)22時45分6秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3105

(15 =Sー8)「無題」(Solaris1:2021年 7月 4日(日)00時05分41秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3106

(16 =Aー8)「やはり、Solaris1さんは「システムエンジニア」でした。」
       (園主:2021年 7月 4日(日)11時54分20秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3107

(17 =Aー9)「Solaris1さんによる「Amazonへの通報」疑惑について」
       (園主:2021年 7月 7日(水)20時21分16秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3108

(18 =Aー10)「Solaris1さん「人間性」について」
        (園主:2021年 7月 9日(金)22時15分43秒)
       https://8010.teacup.com/aleksey/bbs/3109

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※ なお、Solaris1氏も、前記(13 =Sー7)において『貴重なログですので、ぜひ永遠に保存して欲しいと願う次第です。』と書かれているとおりで、私たちはお互いに、この「議論」のログを、誰にも隠すつもりはない。

むしろ、これが広く読まれ、できればSolaris1氏の希望どおりに「永遠」に残り、さらに多くの人に参照されることを期待しているので、その気のある方は、以上ご紹介した文章のログを、遠慮なく採っていただき、広くご紹介いただければと期待するところである。

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