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ネトウヨの 正しいあしらい方

年間読書人

旧稿再録:初出「アレクセイの花園」2005年4月16日】

※ 再録時註:すでに再録ずみの、知人のブログへの荒らしの件に関して、荒らしやネトウヨといった対する、当時の、私の基本的な考え方を示したもの。これは現在でも、驚くほど変わっていない)

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論者よ、欺かれることなかれ。
投稿者:園主 投稿日:2005年 4月16日(土)22時36分19秒

先日来続いていた、azamikoさんのブログ「きびをむく少女の指先傷つきてラムの琥珀酒カリブの海より来たる」に対する「荒らし」の件だが、現在はほぼ収束にむかっているといったところなので、どうぞご安心を。

さて、この「ブログ荒らし」たちに対抗して、私の採った態度なのだが、これにはかなりハッキリとした特徴がある。
すなわち、「荒らし」たちと「国旗国家の強制」が正しいか正しくないかなどといった「議論」はせず、徹底して「荒らし」の化けの皮を剥ぎ、これを断罪し、晒しものにするというやり方だ。

私のこの態度について、当然のごとく「荒らし」たちは「議論しようともせず、誹謗中傷する」と非難するのだが、もともと「議論」する気のない者が「荒らし」をするのだから、彼らの言っているのは態の良い「嘘」にほかならない。それなのに、こちらがなまじ体裁を気にして、自身の「物わかりの良さ」を世間にアピールしようと、彼らとの「疑似議論」に応じたが最後、結論の行き着くところは「立場の違い(だけで対等)ですね」ということになってしまうのである。

こうした「疑似議論」に巻き込まれることを避ける方法については、例えば、カソリックの「エクソシズム(悪魔払い)」の方法などにも定式化されている。

映画にもなった、ウィリアム・P・ブラッティーの『エクソシスト』(創元推理文庫)では、老練な悪魔払い師であるメリン老神父は、少女に憑いた悪魔を、論破することで退治しようとする若き正義漢カラス神父に「悪魔の言葉に耳を傾けてはいけない。悪魔と議論してはいけない。それはすでに悪魔の術中に陥っているということだ」と戒める。

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そう。悪魔はもともと何の倫理を持たないのだから、平気で「嘘」をつく。そしてその「嘘」を前提にして、見せ掛けだけの「もっともらしい理屈」を構築してぶつけてくるのだ。
一方、正直なカラス神父は、「事実」だけを根拠に「潔癖な理屈」を構築するのだから、不利になるのは目に見えている。

例えば、清廉潔白なカラス神父に対し、悪魔は「お前だって、女の身体に欲情して、その身体を組み敷き、思うさま欲望をぶつけたいと思ったことがあるだろう? そうさ、人間とはそういうものなんだ。神父であるお前でさえ、そうなんだから、他のやつらが神の戒律を守っているなどと、本気で思うか? 現実はおまえの言うような、きれいごとではない。「愛」などというものは、汚い人間が自分を正当化するために作り出したの欺瞞でしかない。神も同じで、そんなものは存在しない。悪魔と呼ばれているこの俺でさえ、実際にはこの穢れなき少女の中の、どす黒い欲望の表れでしかなく、俺を悪魔だと思うのは、お前自身の隠された心の投影でしかないんだよ。だからこそ、決して悪魔は払えないんだ」といった調子で「誘惑」しようといたします。

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一一言うまでもないことだが、人間は誰しも「完全」ではない。
しかし、それでも、より「完全」を目指そうとするところに、人間を他の動物と隔てる「崇高さ」があるのだが、正直な人間ほど「おまえだって汚い」などと言われると、つい動揺してしまい、相手のペースに巻き込まれたあげく、最初の論点がどこにあったのかを忘れてしまう、ということになり、敵の術中にハマってしまう。

同様の現実問題としては「ホロコースト否定論」というのがある。
これは文字どおり、ナチスドイツによる「ユダヤ人虐殺」が無かったとする主張だ。数多くの証拠(物的・証言的証拠)の存在にもかかわらず、「ホロコースト否定論」者たちは、「一般人」がそれらの証拠を「直接に目にしたことがほとんどない」という一点に賭けて、歴史的事実を無きものにしようとする。
つまり、これは「学術的な意見」ではなく「政治的な策謀」に過ぎないのだが、それが「学術的な外見」を装ってくるところに、こうしたもののタチの悪さがあるのだ。

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さて、ここで私は、こうした問題を論じた好著を、ご紹介したい。
その本とは、岩波書店から刊行中の「ポストモダン・ブックス日本語版」の一冊、ロバート・イーグルトン著『ポストモダニズムとホロコーストの否定』である。一一薄っぺらいわりには、結構お高い本なのだが、その面白さは私が保証しよう。

『 リプシュタット(※ 「ホロコースト否定論」を告発する『ホロコーストを否定する一一真実と記憶に対する高まりゆく非難』の著者・歴史学者デボラ・リプシュタット)は、『ホロコーストを否定する』の第一ページ目で、本全体の主題となる話を語っている。

 プロデューサーはいぶかしげだった。彼女にとって、私が彼女の全国放送のテレビ番組に出演する機会を拒んでいるのが信じがたかったのだ。「でも、あなたはこの話題についての本を書いているんですよ。いい宣伝になりますよ」。私はホロコースト否定論者との討論に参加するつもりはないのだと、繰り返し説明した。ホロコーストの存在は討論するしないの問題ではない……私は彼らといっしょに出演したりしない……そんなことをすれば、彼らにまったく無用な正当性と信望を与えてしまうだろう……彼女は私に考え直させようとして、最後はこう問いかけた。「私はたしかにあの人たちには同意しませんけれど、視聴者はもう一方の意見を聞くべきだとは思いませんか?」

 重要なのは、どんな意味においても断じて討論はない、ホロコーストの存在に関して「もう一方の側」など存在しない、という点である。何と言っても、ホロコーストをめぐっては「証拠が圧倒的」(『判決』七・七)であるため、思慮分別があり責任能力がある人々はこの討論をしたりはしない。フランスにおける否定論に詳しいピエール・ヴィタル=ナケは、天文学者は星占い師と、「あるいは、月がチーズでできていると主張する人物と」討論するだろうか、と問いかけている。もちろん、ホロコーストについての討論はある。歴史は変更不可能というわけではないのだから。例えば、歴史家は、殺人が行われたとき、どのようにして、どんな理由で行われたのか、そしてナチスの支配層はそれをどのように計画したのかについて、議論する。哲学者や神学者はホロコーストという出来事の意味を論ずる。カルチュラル・スタディーズの専門家は追悼するということの問題を話しあう、等々。ホロコーストに関わる討論には事欠かない。しかし、その存在(※ 「存在」に傍点)をめぐる討論は存在しえない。ナチスと未確認飛行物体を関連づけた否定論者のように、そのような討論があると言い張る者は、「放送時間」を与えてもらって自分たちがもっと重要に見えるようにするために、そう言い張っているだけなのだ。だからリプシュタットはインタビューに応じるのを拒んだ。否定論者に対して、あたかも思慮分別がある人々に対するかのように話しかけることは、彼らの言い分に信を置くということなのである。
 想像してみよう。あなたやあなたの家族が人間のくずだと論じるために全国放送のテレビに出演するのは、どんな人物だろうか? その理由は? あなたは出演して自分は人間のくずではないと主張するだろうか? そのような、公平でもなければ、議論しても納得できそうにもない視点に対して、あなたはどうやって自分は違うと証明するのだろうか? 「闘争的」な討論は別として、そこから何が得られるのだろうか? それは何の「ジャンル」のテレビなのだろうか? まじめなドキュメンタリーだろうか? それとも娯楽に徹した番組にすぎないものなのか? 誰が恩恵を受けるのか? あなた? テレビに出てしまうほど深刻に最初の告発に取りつかれた人々? 視聴者?』(P14~16)

現在、東京都を中心に実行されている「学校現場における、国旗国歌の強制」。
「国旗国歌」法制定の際には「決して強制はしない」と国民に対して約したことへの、この明らかな違背。あるいは「民主国家・日本」の根本法たる「日本国憲法」が規定するところの「思想・信条の自由」に対する、この明らかな侵害行為
の「存在」を、私は今更、誰とも議論するつもりなどない。
この明らかな事実を、なんとか否定しようとして「空論」をかさねる輩(まして身元も定かならぬ有象無象)を相手に、無意味な「議論」するつもりなど、私にはまったく無いのだ。

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議論とは、「事実は尊重する」という大前提を共有してこそ、初めて成立するもので、それを無視して何がなんでも「国旗国歌の強制」を正当化しようとするような輩を相手に議論するのは、結局のところ、すでに相手の術中に陥っている、ということでしかないのである。————————————————————————————————

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上のレビュー後半で紹介している「西岡昌紀」は、「アウシュビッツは存在しない」論で物議を醸したマルコポーロ廃刊事件の当事者である。)






















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