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Amazonレビューの全転載を終えて。

昨年(2021年)6月4日から、この「note」上に、Amazonレビューの転載を始め、昨日のレビューで転載をすべて終えることができた。

これまでは、こうした転載レビューに、書き下ろしのレビューやエッセイなどを加えて、300日あまりにわたって毎日投稿を続けてきたが、これは昨日で打ち止め。本日以降は、何か新しいものが書けたか、Amazonレビュー以前に、自身の掲示板やミクシイなど、あちこちに書いたまま、ほとんど忘れてしまっていたものをサルベージして、こちらへアップしたいと考えている。

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さて、記事のリストページを確認してみると、いちばん最初にここ「note」にアップしたのは、「萩尾望都『一度きりの大泉の話』レビュー:〈残酷な神〉が支配する…【補論追加第38版】」(2021年6月4日付)となっている。

これは当時、刊行即話題になった、萩尾望都の長編エッセイ『一度きりの大泉の話』について、刊行直後と言って良い早い時期に、著者の萩尾望都を、忌憚なく批判的に分析した文章だった。

このレビューは、私がAmazonにアップしたレビューの中で、最も反響の大きかったものだ。
それは無論、「少女マンガの神様」と呼ばれて盲信者が大勢おり、出版業界的にも「批判はご法度」となっている大御所作家について、その「精神構造」まで踏み込んで批判したもの(禁忌破り)であり、またそれが、一定の説得力を持っていたからであろう。

つまり、多くの人は、萩尾望都に疑問を感じていても、彼女をあからさまに批判することなどできなかった。
プロの文筆家なら、それをして萩尾望都の関係筋から睨まれると、仕事に支障の出る恐れがあったからだろうし、アマチュアであっても、神様を批判したならば、信者たちからの集中攻撃を覚悟しなければならなかったからだろう。

いわば私は、そうした「萩尾望都を批判したくてもできなかった」人たちの「切り込み隊長」役を、頼まれもせずに引き受けたかたちとなり、これをありがたいと思った人が、「こんなことを書いている人がいたが、私も同感である」という間接的なかたちで、Twitterなどで紹介宣伝してくれたため、大きく反響が広がったのである。

もちろん、褒めてくれる人も大勢いたかわりに、私を批判する人も大勢いた。
こんな時に、「わが神」を擁護しないような信者は信者ではないし、これ見よがしに「誹謗者」を批判するのは「強信者」アピールにはもってこいだったからであろう。
それに、天下の萩尾望都を褒めるだけなら、それはバカでもできることだったからである。

しかし、私の文章をいくつか読んでくれた人なら既にご承知のとおり、私は、自身への「批判」などというものを、少しも恐れていない。
なにしろ、それまでもずっと、人気作家や評論家を「名指しで論理的に批判」して「反論できるならしてみろ。いつでも相手になってやる」という、喧嘩上等のスタンスで批評文を書いてきたからだし、実際、理屈の通じない「ネトウヨ」にさえ、喧嘩を売ってきたような人間なのだから、「匿名の素人」などは無論、「二流のライターや評論家」など、毛ほども怖くはなく、むしろ、どんどん掛かってきて欲しいくらいだったからだ(無論、そんな私の挑発に乗るような、損得打算のできない、頭の悪いプロの文筆家はいなかったが)。

ともあれ、私にとっては、萩尾望都は、特別に「大物」でもなければ、ましてや「強敵」などでもない。
私は「笠井潔葬送派」を名乗っていたことのある人間だが、作家で評論家の笠井潔の「理論闘争的な力量」に比べれば、所詮は「少女マンガ家」でしかない萩尾望都は、論争の相手としては、まったく怖くはないし、ましてやその取り巻きの作家や評論家、あるいは盲信者など、なんとも思わなかったのである。

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だが、このように、私が「言論では倒すことのできない強敵」だということになると、次に採られる手段は、私の文章自体を葬ることである。
権力を持つ者というのは、論敵の書いたものを「禁書」にし、さらに「焚書」にしてまで、自分たちの「空疎な権威」を守ろうとするもので、それはキリスト教の歴史やブラッドベリの小説『華氏451度』などの例を待つまでもなく、権力者の脊髄反射的な行動パターンなのだ。

そんなわけで、私の『一度きりの大泉の話』レビューは、掲載後しばらくすると、毎日のように何度も(1日3回という日もあった)Amazonカスタマーレビュー上から、削除されるようになった。

しかし私は、Amazonにアップしたレビューが、掲載後に削除されるという経験を(主に、ネトウヨ関連、キリスト教保守派関連の、批判的レビューで)、それまでに何度もしており、たとえ削除されても(一部の例外を除いては)、再度同じものをアップすれば、たいがいはそのまま、また掲載されるということを経験的に知っていたので、この『一度きりの大泉の話』レビューも、掲載後5ヶ月ほどの間に「80回」ほど削除され、その度に再アップして、嫌がらせに徹底抗戦した(これらは、Amazonカスタマーレビュー利用者からの苦情に、Amazonが対応したものであったと推測される)。

そして、その後の2021年10月15日に、Amazon上のすべてのレビューが、管理者によって削除されることとなったのだ。

これまでも何度も書いていることだから詳述はしないが、Amazonサイト上に掲載されている「商品」に対する「批判的なレビュー」は、批判された「メーカー(作者・作社)」にとって不都合でもあれば不愉快なものであるというのは無論、それをサイト上で売っているAmazonにとっても、基本的には同じことである。

ただし、Amazonの場合は「肯定評価も否定評価も、両論併記で差別なく掲載して、皆様に正しい情報提供いたします」という「タテマエ」を採っているから、「否定評価」だからといって、すべて載せないという訳ではない。ある程度は「否定的レビュー」も必要なのだ。

だが、それも程度もので、「あまりにも説得的な否定評価」だと、それは「商品の売り上げ」に悪影響するし、Amazonと契約して商品をサイト上にアップしているメーカーも、決して良い顔はせず、Amazonに「善処」を求めてくるだろう。
だからこそ、Amazonも「利用規約(ガイドライン)」なるものをあらかじめ掲示しておき「これに違反したレビューは、掲載しないし、削除しますよ」ということにしている。

だが、問題なのは「掲載不可」にしろ「事後削除」にしろ、その措置が採られた場合、「掲載不可です」とか「削除しました」といった「事後通知」はあるものの、そこには「ガイドラインに違反している部分がありましたので」という説明はあっても、「どこがどのように、ガイドラインのどの部分に違反していたのか」という「具体的な説明」は、一切ない、という点である。
要は、ガイドラインなど、所詮は「お飾りのアリバイ工作」でしかなく、不都合だと判断すれば、好きなように不掲載なり削除措置にすることができるというのが、「事実」なのである。

ともあれ、私はそんな「いい加減で無責任なAmazon」に心底うんざりしてはいたものの、なにしろ多くの人に自分の文章が読んでもらえる場所としては重宝していたので、Amazonのいい加減さは批判しつつ、Amazonを利用できるうちは利用し尽くそうという態度で、Amazonに対していたから、Amazonからすれば「無料で載せてやっているのに、権利ばかり主張しやがって」と(カスタマーサービス担当者は)、そうとう腹を立てていたとは思う。
無論、私にすれば「無料で、原稿を書いてやっているのだから、これは対等の契約関係だ」と、堂々と返信メールに書いてやったとおりで、何も遠慮する気はなかったのである。

しかし、こうした権力に対する徹底抗戦を続けていれば、いずれ「強権発動による排除」になるというのも、何度も経験済みの私ではあったから、そろそろ主たる活動場所を他所に移す準備をしなければ、と(Amazonの風向きを読みながら)考えたのが、昨年の6月だったというわけである。

まあ、Amazonとしては、私を排除して「清々した」し「勝った」つもりなのだろうが、「筆一本(言論だけ)」で闘う私としては、この勝負は「私の勝ち」である。

「利用規約(ガイドライン)」があって、私がそれに反しているというのであれば、それを具体的に示して、私を論破すればいいだけなのだが、Amazonにはそれができなかった。
それを、リスクなくやれる人材がおらず、最後の手段たるべき「強権」に頼ったのだから、それでは「ヤクザ(暴力団・反社会的勢力)」と、何も変わらないからである。

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ともあれ、私の活動場所は、いくらでもあるし、変えることができる。
少なくとも、私が生きている間は、私がネット上から完全に排除されるような環境と事態が出来(しゅったい)することはないだろう。

そんなわけで、私は、生きている間に、やりたいように筋を通してやりたいことをやって、この世からおさらばするというわけだ。
だから、私は「note」だって、いつまでも安泰な場所だなどとは思っていない。今のところ比較的「利用価値がある」と考えているだけである。

いずれにしろ、人間も人類も、永続するわけではないのだから、自分が生きている間に「納得のできる生き方」をした者が「勝ち」なのだと思う。

「Amazon」であれ「note」であれ、それを構成しているのは、個々の人間でしかないし、その大半は、単なるつまらないサラリーマンでしかない。
また、組織の上の方の「成功者」たちだって、所詮は「経済的」「ステータス的」な成功者ではあっても、ご本人が本当に「誇り高く自信を持った生き方」をしているとは、まったく限らない。人間とは、そんな「単純」なものではないからである。

そんなわけで、私は、今後もしばらくは「note」で遊ばせていただき、その調子で、せいぜいこの世で好きにやらせていただくつもりである。

(2022年4月3日)

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