谷岡一郎は 〈ネトウヨ御用達 (三流)学者〉であるか? : 『悪魔の証明 なかったことを「なかった」と説明できるか 』
書評:谷岡一郎『悪魔の証明 なかったことを「なかった」と説明できるか 』(ちくま新書)
なかなかのトンデモ本だった。
この本を褒める人のプロフィールを確認したいので、ぜひレビューを投稿してほしい。きっと「右に傾いた人」だけだろうと予想している。(※ 『レビューを投稿してほしい。』とは、本稿が、本書についての、最初のAmazonカスタマーレビューとして投稿されたものだったからです)
知らない著者だったので、タイトルだけを見て、うっかり「論理学者」の本だと思い購入してしまったが、著者は、自称「社会学者」で「ギャンブル学」「社会調査方法論」「犯罪学」が専門なのだそうである。Wikipediaで著作をチェックすれば、たしかに「ギャンブル学」を中心に、その種の本をたくさん出しているようだ。
それにしても、びっくりするのは、本書の内容にまとまりのないことである。
「論理学」の理路整然とした記述を期待していた者としての印象は「変なおじさんが、わあわあ言っている本」という感じである。まず「文体」が、「学者」のものとは到底思えない落ち着きのなさで、例えばこんな具合だ。
これを、御歳65歳の「大阪商業大学学長・総合経営学部教授」が書いているのだから、相当なものである。
ただし、この「大阪商業大学」というのは(Wikipediaによると)、「学校法人谷岡学園」が経営するもので、要は、著者・谷岡一郎のおじいちゃん、祖父の谷岡登が建学した私学であり、孫の一郎は、家族経営の大学の学長さん。つまり(学長としては何代目かは知らないが)「三代目のおぼっちゃま」学長であり、そう知ってしまえば、いかにもな「文体」だとも言えるだろう。
著者のWikipediaには、
とあるから、慶應大学を卒業した後、俗に言う「慶應ボーイ」だったお坊ちゃんはアメリカへ留学して、そこで学位を取得し、他の大学で先生修行をすることもなく、おじいちゃんの建てた大学の「教授」となり、そして「学長」になったようである。一一まことに「エリート」と呼ぶべき人で、うらやましいかぎりなのだ。
また、Wikipediaによると、
んだそうで、谷岡一郎には、本書と同じ版元の筑摩書房から刊行された『SFはこれを読め!』(ちくまプリマー新書、2008年)という、前記講義をまとめた本もある。
さすがは家族経営の大学の学長さん、個人的な趣味のSF好きが、そのまま大学での講義になり、しかも本にまでなるのだから、じつにうらやましい。きっと、書店での販促講演会みたいな内容で、学生さんたちも楽しめたのではないだろうか。
いささか脱線したが、こういう「恵まれた経歴」の人であるが故の「文体」なのだろう。文章が、自由奔放で、異様に若いのである(話題の方は、歳相応だとしてもだ)。
例えば、下のような文章は、著者の人柄をよく反映している。
基本的に、ごもっともなご意見なのだが、ここで注目すべきは、人柄のよく表れた、この「文体」だ。
本書著者の人柄のよく表れた文章は、他にもたくさん見いだせる。
どんな本だって、読者の頭が悪ければ、内容の理解など不可能なのだから、「こんなこと」を著書の中でわざわざ繰り返す人など滅多にいない。無作為に1000冊の本を読んでも、発見できないほど、これは珍しいものなのではないだろうか。
しかも、著者はここで、要は「私は知的レベルが高い」「私はまともな人間だ」とおっしゃっているのであり、読者にも同様のことを期待なさっている。つまり(6)の『本書の言うところの』とは、「著者(谷岡一郎)が言うところの」という意味で、「そういう基準」で裁断されるのであれば、私は間違いなく「知的」でもなければ「まとも」でもないということになるだろう。
ともあれ、著者は、(5)(6)の記述で、読者に「私の文章を理解できる者は、知的でまともである」と主張しており、言い換えれば、著者の文章が「ちょっと変」だと感じる私などは「知的」でも「まとも」でもないのであり、「おまえの方が変なんだ〜!」と評価されてしまうのだろう。残念なことだ。
また、著者・谷岡一郎の「自意識」が窺える、次のような殊更な文章も興味深い。
問題は、この「説明的な主語」である。
普通に「わたし」としても良さそうだが、著者は自分が「社会学者」であり「研究者」であることを、よほどアピールしたいように見えるのは、私のひが目だろうか。きっと、そういうことになるのだろう。
それにしても『明白な因果関係を示されても常に「本当にそうか?」と考えるくせを持つ。』というのは、いくら「社会学者」だからと言っても、ちょっとアブナイのではないだろうか。
と言うのも、「社会学者」であろうと『明白な因果関係を示され』たら、普通はうっかり信じてしまいがちで、しかし、それが自分の学問領域の対象である場合に限っては、「例外的に」慎重になって「疑ってみるということもする」という程度の話だろうと、私はそう思う。
例えば、哲学者が「私の目の前にあるリンゴは、本当に実在してるだろうか?」などと『常に』考えることなどしないはずで、そこは自身の認知能力を根拠として、日常では特段「疑わない」で、信じているはずだ。でないと、生活が成り立たない。
哲学者が「目の前のリンゴの実在」を疑うのは、あくまでも「学問的な方法」であって、『常に』そんなことをやっているわけではないのだから、自身の「一貫性」「整合性」にとてもこだわって『常に』そんなふうにやっているとおっしゃる本書著者は、「尋常な人ではない」と言えるだろう。
また、本書のユニークさは、たかだか200ページほどの新書本なのに、いわゆる「ネトウヨ」的なご意見が、網羅的に登場するところである。
・「中国」批判(P17ほか)
・「従軍慰安婦」問題批判(P43ほか)
・「黒川弘務検事総長をめぐる定年延長問題」批判者への批判(P45ほか)
・「森友学園問題における、安倍昭恵首相夫人の関与」問題を追求した野党批判(P51ほか)
・「安倍首相を追及した枝野幸男議員」批判(P55)
・「徴用工」問題批判(P125)
・「南京大虐殺」批判(P135)
・「上野千鶴子 東大名誉教授」批判(P150)
・「韓国海軍レーダー照射問題」追及(P167)
・「桜を見る会」問題での民主党政権批判(P171)
・「バイデン大統領候補を支持した、オカシオコルテス下院議員」批判(P171)
・「朝日新聞」批判(P183)
この他にも「中国のウイグル問題」批判や「中国のコロナウィルス疑惑問題」などなど、「ネトウヨ」がネットに書いているようなものが、そのまま網羅されている。
もちろん、話題が多すぎて、個々の内容は『「ネトウヨ」がネットに書いているようなもの』でしかないのは言うまでもない。
ちなみに本書は『悪魔の証明』をテーマとした本なのだが、こうなってくると何を書いた本だったのか、読んでいる方も、つい忘れてしまいようになる。
「論証」についての原理的な説明は、ひととおり「当たり前の説明」がなされている程度で、大半は著者好みの「非論理的批判の実例」とそれへの批判で埋め尽くされている。
さらに、本書の特徴的な記述は「キリスト教(おもにカトリック)批判」(と、その分量)である。
「おわりに」に書かれているとおり、著者は幼い頃に親とプロテスタント系の教会に通っていたことがあり、個人的には「キリスト教」には愛着があるそうなのだが、だからこそカトリックに露骨に見られる非論理性や独善に腹が立つそうなのだ。
私も、似たような「キリスト教」批判をしている人間だから、著者のキリスト教批判自体が間違いでないことは知っているが、問題は、本書における「キリスト教」批判の「分量」なのである。
本書はあくまでも「論証」問題の本であり、その中で「キリスト教」問題が出てくること自体は、ごく自然なことなのだが、問題は、その「分量」がアンバランスに多く、しかも「キリスト教批判」書からの引用や内容紹介が長々と続いて、明らかに、自制心に欠けて「趣味に走っている」のである。
「趣味に走っている」と言えば、本書に登場する、活字メディアは「産経新聞」「扶桑社」「Will」誌など、「敵」である「朝日新聞」を別にすれば、非常に偏っている。
前記のとおり「キリスト教」書においても、読んでいるのは「山本七平」や「キリスト教批判本」ばかりで、「教会史」や「聖書学」「神学書」などといった基本書を読んでいるとは思いにくい「趣味的」な内容で、「聖書」の通読すらあやしい(わりあい真面目なクリスチャンでも、聖書の通読をしていない人は少なくない)。
本書著者の、こうした「趣味的」で「独善的」な「思考パターン」は、例えば次のような部分にも明らかだろう。
これが、著者・谷岡一郎の言う『普通の思考能力』によるご意見なのだろう。
だが、南京で日本軍による「虐殺」があっただろうというのは、むしろごく「ありきたり」な見方で、その理由なんて、いくらでも考えられるのではないだろうか。
そもそも、戦場においては「民間人虐殺」など、表沙汰にならないことはあっても、決して珍しいことではないはずだ。また、極限状態にある兵士たちが「論理的に損得を考えて行動する」とか「必ず命令どおりに動く」などと考える方が、むしろどうかしているように思える。
つまり、中国に侵攻した日本軍の兵士にとっては、中国人は憎むべき「敵」だったのである。
建前としては「西欧列強からの解放」だとか「守ってやる」だとか「五族協和」だ「八紘一宇」だ「大東亜共栄圏」だなどと言っても、現場で戦う(殺し合いをする)兵士にとって、日本軍に抵抗する中国人は、兵士・民間人を問わず、すべて「敵」であり、いつこちらを殺しに来るかわからない「敵」なのである。
事実、中国民間人や民間人を装った兵士に仲間である日本兵を殺されて、「恨み骨髄」だった「復讐心に燃える」兵士も少なくなかっただろうから、「損得」は抜きにして、とにかく「殺してやる」と思っていた日本兵が大勢いても、決して不自然な話ではないはずである。
本書著者には、こういう「一兵卒の感情」など、想像できないのだろうか。一一いや、案外そうなのかもしれない。
ちなみに、前記の「上野千鶴子 東大名誉教授」批判において、著者は、
だそうなのだが、本書著者が「学長」を務める「大阪商業大学」に雇われている先生方の気持ちを私がおもんぱかるに「おじいちゃんの七光りだけで、学長になった人(にしか見えない人)」、自分の趣味の「SF好き」を講座にしてしまうような、ワンマンな「学長」の下で、意見も言えず、思想信条も語ることもできないまま、学生たちと向き合わなければならないというのは、かなりキツイ状況であり、思わず「こんな学長はイラン!」と叫びたくなる人も少なくないのではないか。
できることならば、著者には「弱い立場の人」の気持ちにも配慮してほしいと、切に願うものである。
ともあれ、本書には「悪魔の証明についての、するどく論理学的な説明」など期待せず、「ネトウヨ的な話題」を総覧的に楽しむのぶんには、ちょうど良い、お手軽な本である。
なにしろ、本書本文の結論的な「結びの言葉」が、
というものであり、「おわりに」の「締めの言葉」が、すでにご紹介した、
なのだから、もはや何をか言わんやであろう。
なお、蛇足しておくと、本書でも「カジノを作っても、ギャンブル依存症が増えるわけではない(依存者が統計的に浮上するだけだ)」(P18)といったことが語られているが、どうやら、著者は大阪の「カジノを含むIR(統合型リゾート)開発」に関わっている「利害関係者」のようで、
『菅官房長官の右腕もIR汚職企業と関係か 内閣官房IR推進本部の事務局トップが500ドットコムCEOと仲良くシンポジウム参加』(2019年12月29日 07:00 「LITERA」・exciteニュース)という記事には、次のようにある。
そうか。本書著者は「学長を務める大学の大学院にIRの専門コースまで設置」しているのか。なるほど「趣味のSF講座」を開設なさる方だけはある。
また、ネトウヨの愛読誌「Will」がお好きなだけではなく、双子のような「Hanada」誌にも登場なさっているのか。完全に納得である。
つまり、谷岡一郎「大阪商業大学学長」は、今や「右派の論客」と呼んでいい存在なのだろう。実に素晴らしい。
私などは、到底ついていけないけれども。
初出:2021年5月14日「Amazonレビュー」
(同年10月15日、管理者により削除)
再録:2021年5月23日「アレクセイの花園」
(2022年8月1日、閉鎖により閲覧不能)
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